アゼルバイジャン(英語表記)Azerbaidzhan

精選版 日本国語大辞典 「アゼルバイジャン」の意味・読み・例文・類語

アゼルバイジャン

(Azjerbajdžan)
[一] 南西アジアのカフカス山脈南部、カスピ海西岸の地域。アゼルバイジャン共和国イラン領アゼルバイジャン州とに分かれている。
[二] 南西アジア、カフカス地方の共和国。首都バクー。一九九一年、ソ連の解体に伴い独立。石油の産出が多い。

出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報

改訂新版 世界大百科事典 「アゼルバイジャン」の意味・わかりやすい解説

アゼルバイジャン
Azerbaidzhan

ヨーロッパ南東のザカフカス地方南東部と,イラン北西部のカスピ海に面する地方の総称。旧ソ連領の部分はアゼルバイジャン・ソビエト社会主義共和国であったが,1991年8月アゼルバイジャン共和国として独立した。なお,イラン領の部分は東・西の二つのアゼルバイジャン州に分かれている。

アゼルバイジャン共和国は,北に大カフカス山脈を背負うが,秋田県とほぼ同緯度に位置し,地形・気候とも,さほど複雑ではない。大カフカス山脈の南東斜面は高山性,亜高山性の牧地で森林も深く,この山脈は東部に行くに従って低い丘陵に変わり,アプシェロン半島となってカスピ海に没する。その周辺がバクー油田である。西部,南西部は小カフカス山脈(主峰は3000m級)とカラバフ(カラバグ)高原で,良好な牧地となっている。南東端のタリシ山脈(主峰2500m級)とカスピ海に挟まれたレンコラン低地は,亜熱帯性で年降水量も多く(地域によっては,1400mm以上),動・植物相も豊富である。これらの中央に,合流してカスピ海に流入するクラ,アラス両川流域の低地があり,年降水量400mm以下の乾燥したステップとなっているが,豊富な水量を利用して綿花,果樹が栽培されている。19世紀まで遊牧民はカラバフ高原(夏)とクラ川下流のムガン・ステップ(冬)の間を移動した。バクーの月平均気温は7月28℃,1月1℃,年降水量は200mm以下で,クラ川流域低地の他の地域とほぼ同じである。

 一方,イラン領アゼルバイジャンは,北はアゼルバイジャン,アルメニア両共和国,西はトルコとイラク,南と東はギラン,ケルマンシャーハン両州とクルディスターンの諸州に接する。地形的には西のウルミエ(レザーイエ)湖周辺と東のカスピ海岸,その間の高原地域に三分され,高原地域にはサバラン山(4811m),サハンド山(3700m)などの高山がそびえている。年降水量は250~850mm程度。大陸性気候が支配的で,夏は暑く,乾燥する。ウルミエ湖周辺は主要な農業地帯となっており,穀物,果実,綿花のほか,テンサイ,タバコを産し,油田地帯としても知られている。西部地域を中心に,鉄,銅,鉛,石炭などの鉱産資源も豊富である。

この地方は近代に至るまでアゼルバイジャンと呼ばれたことはなく,古代にはアルバニア人の国家(カフカス・アルバニア王国)がクラ川より北の地域にあった。中世には,クラ川以北のシルバン,クラ,アラス両川に挟まれたアラン,カスピ海岸のムガンがそれぞれ別個の地方と考えられていた。3~7世紀のササン朝,7~10世紀のウマイヤ朝,アッバース朝,11~13世紀のセルジューク朝系諸政権等,イラン中央政権や外来強国の支配下にあったが,カフカス・アルバニア王国,シルバン・シャー朝等の土着政権も存続し,カバラ,シャマハ,ガンジャ,バイラカン等の商業都市が繁栄した。12世紀には,ハガーニー(?-1199),ニザーミーが現れペルシア語で詩作した。アゼルバイジャン(アゼリー)民族はまだ成立しておらず,彼らはイラン人としてペルシア語文学の伝統を担った。

 13世紀には,モンゴル帝国領に編入され,チンギス・ハーンの孫フレグがイル・ハーン国を開く(1258)と,アランとムガンには,ハーンの冬のオルドが置かれ,それを取り巻くようにモンゴル遊牧民の遊牧地が指定された。モンゴル人の中には多数のトルコ系諸部族が含まれていたので,13世紀からティムール朝下の15世紀にかけて住民のトルコ化が進行した。15世紀後半アルダビールのサファビー家の勢力が強まり,全アゼルバイジャンは征服された(1500)。サファビー朝は,アラス川以北をカラバグ,シルバンの2ベイレルベグ(〈将軍中の将軍〉の意)管区に分割した。サファビー朝は絹をオスマン・トルコに対する戦略物資とみなし,養蚕を奨励した。17世紀には,全国2万梱中シルバンで3000梱,カラバグから2000梱の生糸が生産された。1720年代にはサファビー朝末期の混乱に乗じてオスマン・トルコとロシアが進出を図る。両勢力はアフシャール朝のナーディル・シャーに押し返されたが,住民はシャーの支配に苦しんだ。そしてアフシャール朝に替わったカージャール朝の治下になるとアゼルバイジャンは,クーバ,カラバグ,シェッキ等半独立のハーン領に細分された。イランとトルコの絶え間ない戦乱の舞台となったにもかかわらず,17~18世紀には独自の民族文化が成長した。17世紀には民衆出身の英雄を主人公とする叙事詩《キョルオウル物語》,18世紀はバーギフィー,ビダーディーの詩が広く愛好された。バヤト,シャフブラク,シュシャの要塞,シェッキ・ハーンの宮殿等今日にも残る建築もこの時代の作品である。またシルバン出身の旅行家ハッジ・ゼイナル・アーベディーン(1780-1830)は,中東,中央アジア,バルカン半島を旅行して大部の旅行記を残した。
カフカス
執筆者: 18世紀にカスピ海沿岸地方を一時的に占領したロシア帝国は,19世紀に本格的に侵攻し,イランと争奪戦を重ねて,1813年のゴレスターン条約,1828年のトルコマンチャーイ条約によって,アゼルバイジャン北半分を併合した。かくしてロシア領とイラン領として南北に二分されることとなった(イランのアゼルバイジャンについては後述)。

 ロシア帝国はティフリス(現,トビリシ)に置いたカフカス総督府の下,複雑に錯綜した諸民族に対して徹底した植民地的抑圧政策を行った。1870年ロシア中央部よりも後退した形で農奴解放が行われた。資本主義的発展は鉄道(1900年バクーとロシア中央部が連絡)とバクー石油産業を両軸として進められた。そのなかでアプシェロン半島の町バクーは,72年の石油専売制廃止後,短期間に急速な発展を遂げ,1901年には全世界の産油量の1/2以上を占める国際的な石油の都となった。ノベリ,ロートシルトロスチャイルド)等の国際石油資本が主導し,ロシア資本がこれに続き,アゼルバイジャンの民族資本が最底辺を形成した。そしてロシア各地,およびイラン領から流入した多数の民族からなる石油労働者を中心に,労働運動が始まった。1900年の経済恐慌は石油産業にも打撃を与え,労資の緊張を深めた。03年のロシア南部のストライキ,第一革命の序曲となった04年のバクー・ゼネスト,第1次大戦前夜の14年ゼネスト等,バクー労働運動は全ロシアの頂点に立つものであり,全国的な高揚の画期をなす重要な役割を演じた。

 1917年首都の二月革命の後,各都市にソビエトと社会団体執行委員会(有産諸団体とソビエト諸団体の連立地方権力)が形成され,さらに民族主義党派ムサーワート党(1911結党)を中心とする民族ソビエトも形成された。臨時政府が置いたザカフカス特別委員会は無力であった。当初はメンシェビキ,エス・エル党等がバクー・ソビエトを主導していたが,バクー労働者の団体協約闘争の展開の中で,しだいにボリシェビキが勢力を伸ばし,18年の3月事件(ムサーワートとの武力衝突)を機に,4月ソビエト権力の樹立を宣言し,シャウミャンStepan G.Shaumyan(1878-1918)を議長とするボリシェビキと左翼エス・エル党連立のバクー県人民委員会議,いわゆる〈バクー・コミューン〉が成立した。一方,首都ペトログラードの十月革命に対して,ムサーワート,グルジア・メンシェビキ,アルメニアのダシナクツチュン党等の民族主義諸派は,17年11月ティフリスでザカフカス委員部を形成し,18年4月にはザカフカス連邦共和国の独立を宣言した。しかし内部対立から3共和国に分裂,ムサーワートは5月アゼルバイジャンの独立を宣言,バクー県以外を支配した。孤立した〈バクー・コミューン〉は帝国主義諸列強の軍事干渉の中で7月に崩壊し,9月,〈26人のバクー・コミサール〉がイギリス軍によって虐殺された。バクーは以後イギリス軍,トルコ軍,再びイギリス軍の占領するところとなり,ムサーワートの支配下に入った。このムサーワート政権打倒の中核をなしたのは石油労働者の運動であった。労働者蜂起,赤軍第11軍のバクー入城を機に20年4月28日ソビエト権力の樹立を宣言(革命委員会議長ナリマノフN.N.Narimanov),アゼルバイジャン・ソビエト社会主義共和国が形成された。

 1922年3月グルジア,アルメニアと共にザカフカス連邦的同盟,12月ザカフカス社会主義連邦ソビエト共和国を形成し,12月30日ロシア,ウクライナ,白ロシア,ザカフカスの4ヵ国でソビエト連邦を形成した。1936年憲法でザカフカス社会主義連邦ソビエト共和国は廃止され,アゼルバイジャンとして独立のソ連邦構成共和国となった。スターリン体制下では〈ナリマノフ主義〉等の〈民族主義的偏向〉を理由として,国内の活動家が大量に粛清され,深刻な打撃を受けた。
執筆者:

19世紀以降,ロシアの南下政策を警戒するイランにとって,アゼルバイジャンĀzharbā'ījān地方の政治的重要性はいっそう高まり,カージャール朝は,同地方の総督を代々王位継承者をもって任じた。一方,19世紀を通じて,同地方の中心都市タブリーズを中継地点とする対ヨーロッパ,対ロシア貿易がイランの対外貿易の中心をなしたこともあって,最も早く〈西欧の衝撃〉を被った同地方は,タバコ・ボイコット運動(1891-92)およびイラン立憲革命(1905-11)の時期には,イランの民族解放闘争・立憲闘争の拠点となった。さらに,1920年にはヘヤーバーニーSheykh Moḥammad Kheyābānī(1880-1920)を党首とするタブリーズ民主党による〈アーザーディースターン共和国〉が成立し,45年にはピーシェバリーSeyyed Ja`far Pīshevarī(?-1947か48)を首班とする〈アゼルバイジャン自治共和国〉政府が樹立された。これらの運動は単なる分離運動としてではなく,いずれも列強のかいらいと化した中央政府に対する批判的性格を色濃く帯びている点で,イランの民族解放闘争史上重要な役割を担ったことが評価されねばならない。現在はイラン・イスラム共和国を形成する重要な一地方で,住民の多くはトルコ語の一方言であるアゼルバイジャン語を用いている。
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「アゼルバイジャン」の意味・わかりやすい解説

アゼルバイジャン
あぜるばいじゃん
Азербайджан/Azerbaydzhan

アジア南西部のザカフカス(カフカス南部)とイラン北西部にまたがり、カスピ海に面する地域の総称。現在はアゼルバイジャン共和国と、イランの東アゼルバイジャン、西アゼルバイジャン両州とに分かれている。北は大カフカス山脈、東はカスピ海、西はアルメニア共和国およびトルコ、南はイラン領クルディスターンに、それぞれ接する。クラ川支流アラクス川が、トルコ東部に発し、イラン北部国境を経てカスピ海に注ぎ、この地域を南北に二分する。北はクラ川流域の平野を山地が取り囲むアゼルバイジャン共和国となり、南はウルミーエ(レザーイーイェ)湖岸からカスピ海に至る高原地域となっている。面積は、共和国側8万6600平方キロメートル、イラン側8万2400平方キロメートル。人口は、共和国側790万8000(1999)、イラン側は609万2000(2001推計)。住民の大部分はアゼルバイジャン人で、人種的にはアルバニア人、メディア人などの先住民と、トルコ人、ペルシア人との混血であるとされている。穀物、果物、綿花、タバコなどを産し、ヒツジ、ウシが飼育される。鉱物資源が豊かで、銅、鉛、鉄などの産出が多い。アプシェロン半島、アラクス川流域、ウルミーエ湖盆地は油田地帯をなし、共和国側はザカフカスにおける工業の中心となっている。

[木村英亮]

歴史

この地域には、紀元前9世紀イジルトゥ(ジルタ)を首都として初期奴隷制国家マナがあった。前7世紀メディアが興りマナを滅ぼしたが、前6世紀にはアケメネス朝ペルシアがこの地域全体を征服した。前4世紀ペルシアがアレクサンドロス大王に倒されたあと、この地域にアトロパテン(火の国)という名の国家が生まれた。アゼルバイジャンの名の起こりである。これは当時すでに石油に富むことが知られていたことを示している。今日の共和国北部とダゲスタンの一部にはやがてアルバニアが建国し、侵入してきたローマ軍を撃退した。その後農業、牧畜、手工業が発展し、3~5世紀には封建制が成立する。3世紀以後はササン朝ペルシアに支配されたが、7世紀にはアラブに、11世紀にはセルジューク・トルコに征服され、イスラム化した。12世紀にはニザーミーなどの民族詩人が生まれている。13世紀にはモンゴルが侵入したが、16世紀イランにサファビー朝が興るとその支配下に入り、強い文化的影響を受けた。

 18世紀帝政ロシアはこの地方に進出して、イラン、トルコと対立し、19世紀初頭、両国と戦ったが、1813年イランとのギュリスタン講和によってアゼルバイジャン北部を併合、さらに1828年のトルコマンチャーイ条約によってナヒチェバンを獲得、これ以後イランの一部として残った南部と分かれた。

 イラン領アゼルバイジャンには、第二次世界大戦中の1941年ソ連軍が進駐し、1945~1946年には自治政府ができたが、1946年イラン軍の占領により、自治化の動きは抑えられた。

[木村英亮]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「アゼルバイジャン」の意味・わかりやすい解説

アゼルバイジャン
Azerbaijan

正式名称 アゼルバイジャン共和国 Azärbayjan Respublikasi。
面積 8万6600km2(概数)。
人口 1019万7000(2021推計)。
首都 バクー

ザカフカジエ(後カフカス地方),カスピ海西岸に面する国。北と西はロシア,ジョージア(グルジア),アルメニア,南はイランに接する。国土内にナゴルノカラバフ自治州を含み,南西方に飛び地としてナヒチェバン自治共和国がある。国土は大カフカス山脈東部,クラアラクス低地小カフカス山脈と山麓高原などから形成される。山脈の影響で気候は多様であるが,中部,東部は乾燥した亜熱帯気候で,夏の平均気温は 27℃。半砂漠,ステップに属し,高山草原が多く,山地斜面に広葉樹林がある。住民の 80%以上がアゼルバイジャン人で,そのほかはロシア人,アルメニア人などが占める。公用語はアゼルバイジャン語。アゼルバイジャン人はシーア派イスラム教徒が多い。ローマ時代にはこの地はアルバニアという名で知られ,独立王国が形成されていたが,7世紀以降,アラブ,トルコ,モンゴル,トルクメン,イランの支配を受け,1828年の条約により,ロシアとイランの間で分割された。ロシア領となったアラス川以北の地に 1920年アゼルバイジャン=ソビエト社会主義共和国が成立し,1936年ソビエト連邦の構成共和国となった。1990年主権宣言し,1991年独立して独立国家共同体 CISに加盟(1992.10.~1993.9.は不参加)。1992年3月国際連合加盟。独立後は,アルメニアとの間で住民の大部分がアルメニア人であるナゴルノカラバフ自治州の帰属をめぐり武力紛争が続いている(→ナゴルノカラバフ問題)。天然ガス,石油,ミョウバン,鉄鉱,銅鉱,岩塩,鉱泉などの資源に恵まれ,それらの採掘業が発達している。工業部門では石油精製,鋼管,アルミニウム,機械(石油工業用設備),化学(硫酸,合成ゴム),繊維(絹糸,綿織物,絨毯),食品(ワイン,ブランデー,缶詰,茶,水産物加工),たばこなどの工業が主工業である。農業は灌漑農業が発達し,クラ川,アラス川流域を中心に綿花,野菜,ブドウ,チャ(茶),タバコ,柑橘類の栽培が盛んで,養蚕も行なわれる。山地ではヒツジの放牧がみられる。交通は鉄道,海運が中心で,カスピ海の大港湾都市であるバクーは陸上・航空交通の中心でもある。

アゼルバイジャン
Azerbaijan

イラン北西部の地方名。ペルシア語ではアザルバイジャーン Aarbāyjān。もとは 1州をなしていたが,1938年に分割され,タブリーズを州都とする東アゼルバイジャン州と,オルミエを州都とする西アゼルバイジャン州とになっている。北はアラス川を国境としてアゼルバイジャン(共和国)と,西はトルコおよびイラクと国境を接している。全体に山がちであるが,発掘調査によると,この地方はペルシア帝国の古代の小メディアの一部で,のちにアトロパテネとして知られた地であることが明らかにされた。住民はアゼルバイジャン人が大部分を占め,クルド人,アルメニア人がこれに次ぐ。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

山川 世界史小辞典 改訂新版 「アゼルバイジャン」の解説

アゼルバイジャン
Ādharbāyjān

カスピ海南西岸の地域名および国名。現在は南部のイラン領と北部の旧ソ連領(現アゼルバイジャン共和国)に分かれる。地名はアレクサンドロス大王侵入時のこの地の武将アトロパテスに由来するとされるが,異説もある。古代ではアケメネス朝以来ペルシア帝国の支配下にあり,7世紀のアラブの征服によりイスラーム化した。11世紀以降,セルジューク朝の進出などでしだいにトルコ化し,13世紀にモンゴル,15世紀にはトゥルクメン人の支配を受けた。16世紀にはオスマン帝国サファヴィー朝との係争地になったが,イランに服属。第1次ロシア‐ペルシア戦争の結果,1813年のゴレスターン条約でアラス川以北のアゼルバイジャン北部はロシア領となった。北部はロシア革命直後の1918年一時独立を達成したが,ほどなくソ連に併合された。第二次世界大戦中イランに駐留したソ連軍は終戦後も撤退せず,45年イラン領に共産党系のアゼルバイジャン自治共和国を樹立させたが,翌年崩壊。91年のソ連崩壊で北部は独立を回復。イラン領の中心はタブリーズ,北部のアゼルバイジャン共和国の首都はバクー

出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報

旺文社世界史事典 三訂版 「アゼルバイジャン」の解説

アゼルバイジャン
Azerbaydzhan

①カスピ海西岸南部に面した共和国。首都バクー
②イラン帝国の北西端,アラクス川の南岸に位置する地域
交通の要地で,古くから諸民族の争奪地となった。7世紀以後,イスラームが広まり,のちセルジューク朝・イル−ハン国に支配され,トルコ−イスラーム化した。16世紀にはイランの勢力下にはいったが,1828年のトルコマンチャーイ条約でアラクス川以北の地がロシア領となった。1922年末,ザカフカース共和国の中心地域としてソ連に加わり,36年にはソ連を構成する共和国となった。バクー付近は世界的な石油の産地として有名。ソ連時代末期の1988年より,ナゴルノ−カラバフ地方をめぐる領土問題や民族・宗教的対立から,西隣のアルメニアとの間で民族紛争が激化した。1991年末のソ連解体後は独立国家共同体(CIS)に加盟。西側資本による石油資源の再開発を進める一方,近隣イスラーム諸国との交流を推し進めている。
石油の産地として有名。

出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報

今日のキーワード

潮力発電

潮の干満の差の大きい所で、満潮時に蓄えた海水を干潮時に放流し、水力発電と同じ原理でタービンを回す発電方式。潮汐ちょうせき発電。...

潮力発電の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android