イネ(読み)いね

改訂新版 世界大百科事典 「イネ」の意味・わかりやすい解説

イネ (稲)
rice
Oryza sativa L.

コムギ,トウモロコシとならんで世界の三大穀物の一つに数えられるイネ科の一年草で,その穀粒である米は,世界人口の半数におよぶ人間の主食をまかなっている。日本では古来,農業の中心に位置づけられてきた重要な作物である。

世界の熱帯から暖温帯にかけての湿地には,二十数種におよぶ野生稲(イネ属植物)が自生している。イネ属の分類に関しては古くから諸説が提出されているが,染色体数やゲノム分析により,Oryzae節,Ridleyanae節,Granulatae節およびSchlechterianae節の4節に分ける見方が有力である。このうち,Oryzae節に属する野生稲の1種オリザ・ペレニスO.perennisから栽培種が分化したとみなされている。ただし西アフリカの一部の地域では,Oryzae節に属する別の野生稲オリザ・ブレビリギュラータO.breviligulataから起源したとされるアフリカイネO.glaberrimaが栽培されており,これと区別する場合には,通常の栽培稲O.sativaをアジアイネと呼ぶ。

 アジアイネの栽培の起源地については,インドの東海岸,インド北部,あるいはアッサムから中国の雲南にかけての地域などとする説があり,確定していないが,アッサムから中国の雲南にかけての地域とする説が現在有力になりつつある。イネの語源については二,三の系譜が指摘されている。その一つは,インド最古の古典とされるベーダに現れるサンスクリットのブリーヒvrīhiで,アラビア語のウルズ,ラテン語のオリザをはじめとして,ヨーロッパ語のイネを意味する言葉は,すべてこれと同一系譜のものとされている。日本語のウルチもまたこれと語源を等しくするのではないかとされ,九州,四国で用いられていたウルシネのシネが転訛してイネとなったとする見方もある。一方,イネは飯根(いいね)に由来するともいわれる。もう一つの系譜は,中国で古くから用いられていた稌(トウー),稲(タオ)に始まるもので,日本語の稲(とう),朝鮮語のトやタイ語のカオが同系統とされる。またマレー半島やジャワではパディが一般的である。いずれにしても,その栽培の始まりは前4000年以前にさかのぼるとされ,有史前には東南アジア諸地域に広く伝播したものと考えられる。西方への伝播についてみると,前4世紀にはメソポタミアに達し,6~7世紀には地中海沿岸地域およびアフリカ東海岸に分布が拡大している。また南北両アメリカには17世紀末から18世紀に伝わり,19世紀末にはオーストラリアに達し,現在その栽培は六大陸のすべてにおよんでいる。

 日本へは中国より伝播したことには異論はないが,その経路については中国南部より琉球諸島を経由して南九州に伝来したという説,長江(揚子江)河口域より対馬海流に乗って南朝鮮を経由するかあるいは直接に北九州に伝わったという説,および中国大陸から陸地伝いに朝鮮半島を経て北九州に伝来したとする説など諸説がある。近年は農学,考古学,民俗学などの検討を通じ,対馬海流説が最も有力視されている。いずれにしても,北九州における稲作の始まりは縄文時代晩期にまでさかのぼるもので,時代の経過とともに稲作は東進し,1世紀初めには近畿地方に,さらに3~4世紀の間に関東地方にまで達したものとみられる。その後稲作は北上し,平安時代(9世紀ころ)には奥羽地方に拡大し,鎌倉時代(13世紀ころ)には本州最北部にまでおよんだとされているが,近年の考古学的な調査結果からは,その時代が弥生時代にまでさかのぼるのではないかとの見方も提出されてきている。北海道南部には江戸時代(18世紀)に導入されているが,北海道に本格的な稲作が始まるのは明治時代に入ってからのことである。

草高は数十cmからときに数mに達し,株基部から多数の側枝(分げつ)を出し,束状を呈する。葉は茎の節に互生し,長さ40~50cmに及ぶ。幅広い線形で先端に向かって細くなり,粗剛で葉縁に剛毛を有する。品種により葉が直立するものや下垂するものがある。茎の節間は基部では短縮しているが,生育が進むのにともない,上部の節間は著しく伸長し,頂部に円錐花序の穂をつける。穂軸は2~3回分枝して開張し,多数の小穂をつける。1小穂は1花よりなり,基部に退化した1対の護穎(ごえい)を有し,その上に外穎(これも護穎という場合がある)と内穎に包まれた穎花を形成する。外穎は先端に1本の芒(のぎ)を有することが多く,内穎とともに舟形を呈し,両者は縫合して扁平楕円形のいわゆるもみがらを構成する。おしべは6本で通常のイネ科植物の3本とは異なり,この点で類縁のサヤヌカグサやマコモと共通している。受精後の子房は発育して玄米(植物学的にいう果実に相当)となる。

日本型とインド型アジアイネは通常日本型とインド型に大別される。場合によっては,両者の中間的な形質を示す中間型(ジャワ型ともいわれる)が区別されることがある。日本型のイネは草型が小さく,低温に対する抵抗性が強い。穀粒は小型で丸みを帯び,炊いた場合に粘り気が強い。これに対してインド型のイネは草型が大きく,浮稲のように5mに達するものもあり低温には弱い。穀粒は細長く,食味はぱさぱさした印象を与える。世界の栽培地域をみると,日本型のイネは日本および中国中北部を中心として,北アメリカのカリフォルニア州などで栽培されている。一方インド型のイネは南アジアの熱帯・亜熱帯地域を中心として,中国南部,南アメリカおよびヨーロッパと北アメリカの南部で栽培されている。インドネシアなど南アジアの島嶼(とうしよ)部で栽培されるイネは中間型のものが多い。

日本型とインド型の別を問わず,イネは耕地の水条件に適応して分化したとみられる水稲と陸稲(おかぼ)に区別される。水稲は通常湛水(たんすい)した水田に栽培されるが,耐乾性の強い陸稲は畑に栽培される。世界的にみれば水稲の作付比率が圧倒的に高いが,東南アジアの山岳地帯などを中心として,水利のととのわない地域において,陸稲は重要な畑作物の一つとなっている。

 イネはまた米質の相違にもとづいて,うるち(粳)種ともち(糯)種とに区別されている。両者の相違は米のデンプンを構成するアミロースアミロペクチンの量的割合の違いによるもので,うるち種ではアミロース含量が高いのに対し,もち種ではほとんどがアミロペクチンからなっている。成熟した米粒はうるち種では半透明になるが,もち種では乳白色に濁る場合が多い。

イネは以上の分類基準にしたがって,たとえば日本型水稲のうるち種といったように分類されるが,それぞれの分類群には,栽培地の環境条件や栽培技術などに対応して,さらに多数の品種が成立している。全世界のイネの品種数は数万にもおよぶとみられ,とくに古くからの栽培地であるインドや中国には,数千におよぶ品種が記録されているという。日本でも古来の品種を総計すればその数は2000に達するとみられるが,近年,栽培される品種は,しだいに少数のものに限られてくる傾向にある。

 個々の品種についてみると,栽培上あるいは利用上のさまざまな形質が組み合わさって,それぞれの品種特性を構成している。生育期間の長短を示す早生(わせ),中生(なかて),晩生(おくて)などの早晩性は,品種を特色づける大きな形質となっている。早晩性は日長や気温など,栽培地の気象の推移に規定される面が強いため,それぞれの土地の作期に対応して,早晩性の異なる品種群が成立する。インドのアウス(早生種),アマン(晩生種),ボロ(冬季に栽培される)などはその代表的な例である。このほかにも,多収性,耐冷性,耐病性,耐肥性あるいは食味の良否など多面的な形質を考慮しながら,品種改良の努力が続けられてきている。

 日本の水稲品種の変遷をみると,明治時代には農家の手によって神力(しんりき),愛国,亀の尾などの著名品種が育成され普及したが,その後は国公立の試験研究機関によって多収性やとくに耐冷性を目標として育種が進められてきた。陸羽132号,藤坂5号,レイメイなどは冷害時に威力を発揮した品種として著名である。近年は広域適応性をもち関東以西に広く普及した日本晴,食味優良という点で,北陸・東北地方を中心に広く栽培されているコシヒカリ,ササニシキなどが有名である。外国に目を向けると,〈緑の革命〉をになう一方の旗頭としてメキシココムギと並び称されたIR-8(フィリピンの国際稲研究所で育成)や,韓国の稲作収量を飛躍的に向上させた日印交雑系品種(日本型とインド型のイネの交配による)が著名である。

十分吸水したイネの種子は,10~15℃の温度があれば発芽し,1本の根(種子根)を地中に伸ばし,同時に幼芽は地上に出現して主茎となり,鞘葉(しようよう),第1葉,第2葉が順次展開してくる。以後,茎の生長点で作り出される葉が次々と展開し,これと一定の関係を保ちながら,茎の基部の節から上位の節に向かって,多数の不定根(冠根と呼ばれる)が出現し地中に伸長する。生育初期の苗の体制はこのようにして整えられるが,主茎に数枚の葉が展開するころになると,葉腋(ようえき)に存在する側芽が基部のものから順次発育し,新しい茎(分げつと呼ばれる)として出現してくる。主茎の発育に対応して分げつ数は増加し,当初主茎1本であった個体は,20~30本の茎をもつ株となる。この時期は分げつ期と呼ばれ,個々の分げつからも多数の冠根が地中に伸長する。分げつ数が最も多くなる最高分げつ期と相前後して,それまで葉の形成を行っていた茎の生長点は,最高位葉である止葉(とめば)の形成を終え,穂の形成を行う方向へ転換する。この時期は幼穂分化期と呼ばれ,品種の早晩性とは関係なく,出穂前約30日の時期に相当する。以後約30日は穂の諸器官が形成され発育する期間となるが,出穂前12日前後には,花粉や卵細胞の形成される減数分裂期として注目されている。これら幼穂の形成と対応して,茎の上位4~5節間は基部から順次急激に伸長し,幼穂を押し上げるような形で出穂に至る。出穂した穂においては,直ちに開花・受粉が完了し,以後45~50日にわたって,胚乳中に養分の蓄積する登熟期が進行する。登熟期は養分の蓄積状況に対応して,乳熟期,黄熟期,完熟期などに区別されるが,完熟期に至って穀粒の形成は完了する。

イネの栽培方式は移植栽培と直播(ちよくはん)栽培とに大別される。移植栽培は別途に育苗した苗を,耕起し代搔き・整地した本田に田植する方式であり,直播栽培は耕起・整地した水田または畑に直接播種(はしゆ)して育てる方式である。日本で最も普通に行われている水稲の移植栽培を中心として,以下栽培法の概略を示す。栽培の時期すなわち作期は,春先に播種し,5~6月に田植を行い,秋に収穫することを基本とするが,地域によっては,作期をずらせた早期栽培,早植栽培,晩期栽培など各種の方式がある。西南暖地では,年2回の稲作を行う二期作もかつては行われていた。用いられる品種は,地域の自然条件や作期との関連で選定されるが,いずれの場合も播種に先立って,塩水選などによる優良種子の選別や種子消毒の行われることが多く,また発芽の斉一性をはかるため,温湯に浸漬(しんし)して芽出しを行うことも少なくない。各種の苗代あるいは育苗施設で入念に育成された苗は,機械または手によって本田に移植される。本田の施肥は,耕起時に元肥として施すことのほかに,イネの生育に対応して,分げつ期,幼穂形成期および登熟期にわたって,何回もの追肥が行われる。生育期間中の水田の水管理は重要な農作業の一つで,田植後の活着期および出穂期前後は深水とし,分げつ期は間断灌漑や中干しによって水田土壌の還元化を防止し,根の健全化をはかる。登熟期の後半からは徐々に落水し,乾いた水田で収穫作業が行われるようにするのが望ましい。収穫は人力または機械力によって行われ,稲架(はさ)で乾燥した後,脱穀・調製して収納する。

イネの生育期間中には,各種の災害に対処する農作業も行われる。その第1は雑草の防除対策である。日本では190種に及ぶ水田雑草が知られており,地域によって草種は異なるが,タイヌビエケイヌビエ,コナギ,キカシグサ,マツバイなどは,全国的に広く分布する強害草である。最高分げつ期になりイネが十分に繁茂するようになるまでは,これら雑草とイネとが競合関係になるため,除草剤や手取りによる雑草防除が随時行われる。第2は病害に対する防除対策である。菌類病の一種であるいもち病は,窒素肥料を多用した場合や冷害時などに多発し,激甚な被害をもたらすもので,最も恐れられている病気である。また同じく菌類病であるごま葉枯病や紋枯病,細菌による白葉枯病,あるいはウイルスによる縞葉枯病や萎縮病など多種類の病原がイネに被害を与える。それぞれの病気の発生に対応して,適期に殺菌剤の散布を行わねばならないが,また耐病性の品種を栽培することも対策技術の一つとなる。第3にあげられるのは害虫の防除である。イネに大きな被害を与える代表的な害虫としては,ニカメイチュウウンカ類(トビイロウンカ,セジロウンカ,イナズマヨコバイ,ツマグロヨコバイなど)がある。ウンカ類はまた,先にあげたウイルス病を媒介することからも注意されねばならない害虫である。地域的には,このほかにもサンカメイチュウイネドロオイムシイネハモグリバエイネツトムシなど多種類の害虫がイネを食害する。それぞれの発生に対応して,各種の殺虫剤を散布して防除することが主要な対策技術となっている。そのほか,登熟期のスズメその他の鳥獣害も地域によっては大きな問題となるもので,防鳥網をかけるなど各種の被害防止対策が講じられている。

 気象災害として最も恐れられているものは,冷害と台風害である。夏季,北日本の主として太平洋側の地域に吹き寄せる低温の偏東風(〈やませ〉と呼ばれる)は,イネが減数分裂期にある場合には,生殖細胞の不稔による障害型冷害を,また登熟期にある場合には,登熟不良による遅延型冷害をそれぞれ誘発する。広域にわたる冷害は,しばしば日本の米の総生産量を左右するほどの被害をもたらす。冷害対策技術としては,耐冷性の品種を栽培すること,早晩性の異なる品種によって被害を分散させること,窒素施用量を少なくし,また低温時には深水としてイネを保温して被害を軽減することなどが推奨されている。一方,出穂期から登熟期にかけての台風は,倒伏や冠水によってイネに大きな被害をもたらす。早期栽培など台風の季節を回避するような作期を選ぶことが有効な対策となる。このほか,局地的には夏季の干ばつ害が問題となるが,用水の確保が最重要の課題となる。

世界の米の9割以上はアジアの熱帯から温帯にかけての諸国で生産される。主要な生産国として,インド,中国,インドネシア,バングラデシュ,タイ,日本,フィリピン,韓国,パキスタン,ベトナムをあげることができるが,近年は南北両アメリカ,オーストラリア,イタリアなどで生産が拡大しつつある。イネはコムギやトウモロコシとは異なり,主要生産国の多くが発展途上国であるために国内消費が多く,国際市場への出回り量は少ない。

 熱帯起源とみられるイネの栽培地が,気候温暖な地域を中心とすることはいうまでもないが,近年は諸技術の発達により,中国東北部やヨーロッパ大陸においては北緯50°近くまで,またオーストラリアでは南緯40°近くまで,その栽培域を拡大している。また標高についてみると,ネパールや中国においては,2000m以上の高地で栽培の行われている場合がある。これら世界各地に拡大している稲作の主体をなすものは,水田における水稲栽培である。水田は程度の差はあっても,イネの生育期間中は湛水状態におかれるという点で,通常の畑とは異なる特殊環境を形づくっている。湛水下の水田土壌中では物質の分解がゆるやかで地力の損耗が少ないこと,灌漑水を通じて栄養分の天然供給が行われること,さらに畑ではつねに問題となる土壌浸食から免れることなどは水田の大きな利点とされている。また湛水下で栽培される水稲には,陸稲をも含めて多くの畑作物にみられる連作障害が起こらない。古来アジア諸地域で,ほとんど無肥料のまま連綿として水稲が栽培され,多くの人口を養ってきた理由は,このような水田の特殊性にもとづくものと考えられる。

 世界における稲作技術の現状はきわめて多様であり,欧米の先進国で行われている機械化による大規模栽培から,アジアの発展途上国で行われているような粗放で小規模な栽培まで各種のものがみられる。それぞれの技術水準に対応して,単位面積当りの収量は,オーストラリア,イタリア,スペイン,エジプトなど非アジア圏の諸国で高く,アジアでは日本および韓国が群を抜いている。
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日本におけるイネの栽培は,縄文時代末期遺跡から出土する炭化米や土器に付着したもみの圧痕,花粉などから考えて,前3~前2世紀に九州方面から開始され,100年未満のうちに伊勢湾を東限とする西日本に,つづく200~300年のうちに東日本の大部分にも広まった。当初の稲作は常時滞水する低湿地で行われたとみられるが,登呂遺跡で認められるように,割板による土止めを施した畦畔(けいはん)と人工の用排水路をもつ水田も比較的早く造成された。この場合の農耕具は木製のくわとすきであり,種もみは水田に直播され,収穫は包丁形の爪鎌(つめがま)(石製・貝製・鉄製)で穂首から摘み取られた。収穫された稲穂は高床の倉に収め,脱穀は竪杵(たてきね),竪臼で行われた。

 稲作の導入と並行的に行われた鉄の導入により成立したのが弥生時代で,さらに古墳時代に入り,5世紀には鉄製農具を所有する豪族層が韓人池のような灌漑排水のための池溝を開発して稲作の奨励を行った。そのため池溝の開発ひいては水田稲作の開発が進み,大和朝廷の直営地である屯倉(みやけ)の設置は当時の最も進んだ稲作技術をその周辺に普及させる契機となった。そして大化改新や律令制の土地制度である班田収授では,田租は上田1町に15束(成斤)というふうに稲束をもって納めるべきことが定められ,稲1束は穀1斗米5升であった。以来,イネの日本史上における地位は確固たるものとなったのである。

 そして奈良時代にはすでにうるち(粳),もち(糯),早生,晩生の区別が行われていたものとみられる。平安時代になると,さらに中生種が区別され,イネの栽培は南奥羽地方にまで延びて,それぞれの品種に固有名がつけられている。鎌倉時代末期からは灌漑水利の発達と牛馬ならびに犂耕(りこう)の普及により,水田表作のイネのあとに裏作としてのムギ(田麦)などを作る水田二毛作が行われるようになった。稲の品種も中世後期から近世前期にかけてはさらに多くなり,品種の特性および水田の条件に応じての品種の選択が広く行われることとなった。その間,戦国大名の勧農政策もイネの栽培を著しく発展させた。

 江戸時代には近世初期の検地によって確立された租税米納制を基本とする石高制と,それを支える米遣いの経済によって,農作物としてのイネの地位はいっそう確固たるものになった。貴穀賤金思想によって封建家臣の俸禄も米をもってし,稲作の奨励に力を注ぎ,他作物の本田への作付けを制限し,封建体制の経済的基盤の維持を図った。その結果,享保時代(1716-36)の田地面積は164万町歩となった。江戸中期以後はまた米の商品化に伴って,水田稲作にも魚肥などの金肥が使用され,備中ぐわ・千歯扱(こ)き・千石簁(どおし)・唐臼など比較的能率の高い農具が出現し,稲品種の改良さえも試みられた。またこの時代には多くの農学者が輩出し,稲作技術の面でも格段の進歩がみられた。

 明治維新後は一時米質が低下したが,殖産興業政策の一環としての勧農政策のもとに,稲作伸張のためのいろいろな努力が払われ,1883年には水田面積が260万町余となった。そして優良品種と改良技術を組み合わせた明治農法と呼ばれる一連の体系的な稲作りの技術が老農により普及した。それとともに明治の末期,農事試験場が設置され,人工雑種によってイネの新品種が作り出され,販売肥料(魚肥・大豆かす)が普及するに至って,反当り収量は急速に高まった。

 明治後期から大正期にかけての地主制のもとでも,多肥多収,耐寒耐病の特質をもつ優良品種が生まれ,塩水選・正条植えなどの奨励と同時に,他方において化学肥料とくに硫安が多く用いられることになって,いっそう反当り収量が増大し,外延的には北海道でも稲作が増大した。1918年には米騒動が起こり,21年には米穀法が制定され,後の食糧管理法の端緒となった。

 昭和の農業恐慌期には外地よりの移入米の圧迫もあって,日本内地における稲作は危機に直面し,稲作農家救済のための諸施策が行われた。準戦時から戦時にかけては農業資材と労力の不足から米の生産が減退し,戦後の食糧危機を迎えた。農地改革はその後における日本の農業とくに稲作に大きな影響を与えたが,イネの栽培技術も飛躍的に高まった。すなわち農薬と化学肥料の発達,耕耘(こううん)・運搬の機械化,寒地稲作と暖地稲作の安定などにより1955年以来の稲作はついに8000万石の収穫高となり,明治初年に比べて2倍以上の収穫を得て毎年豊作の状態を続け,70年からは米の過剰生産に対して史上かつてなかった稲作減反政策さえとられている。
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明治時代以降の日本の稲作技術の発展には目ざましいものがあるが,その中心をなすものは,先に述べた品種改良のほかに施肥技術の改善,土壌環境の整備,農機具の発達およびその他の栽培技術の発展である。

(1)肥料および施肥技術 明治時代初期の施肥技術は,徳川時代に引き続き,刈草,堆厩肥(たいきゆうひ),人糞尿(じんぷんによう)などの自給肥料を施用することを主体とするものであった。明治時代中期以降となると,それまで畑の換金作物に使用されていた魚肥や大豆かすなどの有機質販売肥料が稲作にも導入され,しだいにその使用量が増加してくる。大正時代に入ると,化学工業の発展とともに化学肥料の普及が始まり,まず過リン酸石灰が,ついで昭和時代に入ると硫安の使用が増加し,品種改良とともに収量の増加に大きな貢献をしている。第2次世界大戦後の混乱期を過ぎると,各種の化学肥料の使用は質量ともに飛躍的に増加し,これら化学肥料の単位面積当りの使用量は,世界最高の値を示している。またこれとともに,追肥などの施肥技術が著しく細密化されてきたことは先に述べたところである。しかし一方,多用される化学肥料が耕地から流出し,河川や湖沼の富栄養化の一要因となることや,化学肥料のみに依存する農法に対する批判が,新たな問題を提起している。

(2)土壌環境の整備 明治時代から現在に至るまで続けられている国家的事業として,水田の基盤整備(〈農業基盤整備〉の項目を参照)がある。その内容は常時湛水状態にある湿田を排水して乾田化し,用水路を整備して灌漑・排水を自由に調節できるようにすること,また同時に水田区画を方形に整理し大区画にすることにある。このような基盤整備は水管理を容易にし肥効の発現を増進するなど,イネの生育に有利な条件をととのえ,また湿田では困難であった畜力や動力機械の使用による深耕を可能とし,作業能率を飛躍的に向上させるなど,高度の技術の導入に道を開いてきている。第2次世界大戦後に行われた耕土培養事業は,客土や土壌改良資材の投入を通じて,低位生産地の水田や老朽化水田の土壌改良に大きく貢献している。

(3)機械化と栽培の諸技術 まず育苗・移植方式についてみると,古くは,水田の一部に短冊型の苗圃(びようほ)を設けて育苗する水苗代の方式が一般であったが,昭和10年代には,春先の低温期を油紙で被覆して保護する保温折衷苗代が開発され,寒冷地の稲作の安定化に大きな役割を果たしてきた。昭和40年代の後半には,田植機がまたたく間に全国に普及し,稲作の農繁期の一つであった田植期の労働が著しく軽減されるようになった。またこれに伴って,育苗方式も苗代による育苗から施設内での箱育苗方式に全面的に改められている。稲作におけるもう一つの農繁期として問題とされてきた収穫期の労働も,手刈りから機械による刈取り・脱穀へと変化することによって軽減されてきている。

 除草作業は,古くから炎天下の水田にはいつくばり,素手か熊手状のがんづめで行ってきたもので,最も過酷な労働の一つであった。明治時代の末期から大正時代にかけては,手押式の各種の中耕除草機がしだいに普及してきた。第2次世界大戦後には,2,4-Dをはじめとする各種の除草剤が導入され,除草作業は一気に化学的除草へと変身してきている。

 また害虫の防除についてみると,明治時代にはウンカ類に対する注油法(田面に鯨油や灯油をまき,虫をそこに払い落として殺す)など限られた方法のほかは有効な手だてはなかった。大正時代にはニカメイガの誘蛾灯による誘殺のほかは,卵や幼虫の捕殺が行われているに過ぎない。昭和時代に入ると,水稲の作期を遅らせて害虫の発生期を回避する晩化栽培が一部の地域で行われるようになり,ヒ酸石灰など,園芸作物に使用されていた殺虫剤が一部適用されるようになる。しかし殺虫剤の大量使用は第2次世界大戦以後のことであり,新たに導入されたDDT,BHC,パラチオンなどの強力な殺虫剤は,害虫防除に新しい時代を切り開いてきた。

 一方病害の防除についてみると,明治時代末期より硫酸銅やホルマリンが,また昭和時代に入ると水銀剤が,種子消毒用の殺菌剤として使用されている。また昭和時代には本田にも各種のボルドー液が散布されるようになるが,殺虫剤と同様,殺菌剤による病害防除の目ざましい発展は,第2次世界大戦後のセレサン石灰などの有機水銀剤の普及によるところが大きい。

 しかし以上述べた除草剤,殺虫剤,殺菌剤の著しい普及は,同時に各種の農薬禍を生むことにもなり,大きな社会問題にまで発展してきた。現在は毒性の強い農薬の製造使用は禁止されており,低毒性の農薬の開発が進められている。また農薬のみに頼らず,天敵の利用をはじめ栽培諸技術の組合せなどによる総合的な防除対策が追求されている(〈農薬〉の項目を参照)。

 以上栽培管理上の諸技術の進展と並行して,それら技術を行使するための農機具もまた目ざましく発展してきている。従来の人力による手作業はしだいに畜力に代り,さらに動力機械に置き換えられ,また動力機械も歩行型から乗用型へとしだいに大型化する傾向を示している。しかし小規模な個々の農家が稼働日数の少ない多種類の農機具を購入することは,いわゆる機械化貧乏に通ずるものであり,一方エネルギー多消費型の機械化は,省エネルギー時代の一つの大きな問題点となるものと考えられる。
農業機械

生産物としてのイネの主要な利用部分は穀粒すなわち米である。収穫して脱穀されたもみ米は,もみすり機によって玄米ともみがらとに分離される。自然食品として,玄米がそのまま食用に供される場合もないではないが,一般に玄米はさらに搗精(とうせい)機にかけ,周囲のぬか層を除き白米として利用する。米の大部分はこのようにして飯米に供されるが,炊飯や調理の様式は世界各地で多様であり,粒状で食するほかにも,ついて餅とし,あるいは製粉したものをだんごとして食する場合などがある。飯米以外の米の用途としては,日本酒の醸造,こうじ,みそ,しょうゆの原料としての利用,また菓子製造原料としての利用があげられる。近年は米を家畜の飼料として利用することが検討されている。また米の精白時に生ずるぬかは,米油製造用として利用されるほか,ぬかみその製造や家畜飼料としての利用面がある。

 そのほか,副次産物として生ずるもみがらは農産物輸送の際の充てん料として,また稲わらは,むしろ,俵,縄など組編料として利用される面が多かったが,現在はビニルやプラスチック製品にその座をゆずり,家畜の飼料や敷料とし,堆厩肥の原料としての利用が最も一般的である。

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イネの主要な栽培過程に行われる一連の儀礼を稲作儀礼と総称する。イネの栽培には水稲と陸稲とがあるが,水稲栽培が定住農耕民のあいだで広く営まれているのに対して,陸稲栽培は焼畑耕作を営む山地居住民のあいだで行われ,その分布も限定されている。一般に,水稲栽培は種つけ,苗代ごしらえ,種まき,本田の代搔き,田植,草取り,収穫などからなるが,稲作儀礼はこうした栽培過程に対応して行われる。種まきにはイネの豊穣を祈願する播種儀礼,田植にはイネの生長促進を祈願する田植儀礼,田植後には害虫駆除を祈願する虫送り雨乞い,収穫には豊穣を感謝する収穫儀礼が行われ,これらの儀礼が稲作儀礼の基調になっている。日本の水稲栽培は,春から秋にかけて行われる。春には播種が,春と夏の境の梅雨の季節に田植が,秋には収穫が行われるが,その周期は,田の神と呼ばれる稲田の守護神が去来する周期と重なっている。民間信仰によると,田の神は春の播種のころになると,天または山,家からたんぼに出かけ,そこに滞在してイネの生長を見守り,秋の収穫が終わると,たんぼから天または山,家に帰る。播種儀礼のとき,苗代田に田の神の腰掛けとか田の神の宿木と呼ばれる木の枝が立てられるが,その枝は,苗代田を訪れた田の神の依代(よりしろ)であろう。収穫儀礼のとき,農家では神棚とか床の間,土間,庭先,納戸,倉などに,稲束とか大根,飯,餅などを供えて田の神を祭る。北九州の農村では収穫がすむと,農家の主人がたんぼに刈り残しておいた数株のイネを刈り取って,これを束にして家に持ち帰り,土間に臼を置いて祭壇をつくり,その上に稲束や赤飯,魚などを供えて田の神の祭りを行う。最後に刈り取った稲束のなかに,田の神が宿るという考えがかいま見られるが,この田の神の祭りは,ヨーロッパに広く伝えられている,刈り残されたムギの束のなかに穀霊が宿るという最後の束型の習俗とよく似ている。また,石川県の能登半島の一部の農村では,収穫儀礼をアエノコトといって,その日,田の神がたんぼから家に帰ると伝えられ,農家の主人が正装して,たんぼに出かけて田の神を迎え,家にお連れしてふろ(風呂)に入れ,ごちそうをととのえて田の神を供応する。ここでは,東南アジアの稲魂(いなだま)と同じように,田の神が擬人化され,男神とも女神ともいわれている。田植儀礼もこうした播種儀礼や収穫儀礼と同じように,田の神の祭りである。この儀礼は,田植前と田植後に行われ,水田の隅または屋内で,木の葉を敷いて,そこに3把の苗や餅,飯,昆布,酒,魚などを供えて田の神を祭る。なお,田植が終わると,雨乞いや虫送りが行われる。雨乞いには,山の上で火をたいたり,霊石を淵(ふち)に沈めたりする。虫送りには,害虫を隣村との境や海,川などに追い出すが,近年,衰退しつつある。日本の稲作儀礼には,こうした儀礼のほかに,呪術(じゆじゆつ)的な要素をともなった予祝儀礼が高度に発達している。この儀礼は,秋の収穫と春の播種のあいだの1月上旬から中旬にかけて行われ,この日,農家の主人は田畑に出かけ,そこで種まきや田植,草取り,稲刈りなどの模擬的な所作をして,きたるべき年の豊作を祈願する。一種の類感呪術といってよいだろう。

 東南アジアの稲作儀礼も,日本の稲作儀礼と同じように,播種や田植,収穫などをめぐって行われているが,日本や朝鮮半島などとちがって,稲魂の観念が顕著にみられる。スラウェシ(セレベス)島の中央に住む焼畑耕作民のバダ族は,イネに父稲と母稲があると信じ,子稲は,父稲と母稲のあいだから生まれると考えている。ジャワ島東部では,イネの収穫がすんで,これを倉入れする日に,普通のイネともち(糯)イネをそれぞれ二つの束にくくり,これを新郎と新婦にみたてて夫婦稲にし,呪術師の供養がすんでから,夫婦稲を箕(み)にのせて家にもち帰って米倉に安置する。イネに男性と女性とがあって,子稲は,両者の婚姻によって誕生するというわけだが,東南アジアには,こうしたイネを擬人化する思想がかなり普及している。タイを中心にインドシナ半島の中央部の平地に住むタイ族のあいだには,クワンと呼ばれる観念が発達している。クワンとは人間の体に宿る生霊のことで,この霊魂が体内に落ち着いているあいだ,人々は健康と幸福を保つことができるが,ひとたび体を離れると病気になると信じられている。このクワンはイネにも宿ると考えられていて,播種から収穫に至る一連の稲作儀礼は,イネにクワンをつなぎとめるための呪術・宗教的な行為にほかならない。このクワンがイネから逃げ出すと,凶作になるという。なお,タイの中部・南部では,イネのクワンに豊かな人格が与えられると,メー・ポソプと呼ばれる。メー・ポソプはイネの母とか穀母神のことで,東南アジアでは,タイばかりでなく,稲魂は一般に母性的な人格をそなえていると考えられている。マレー半島の一部では,イネが熟してくると,呪術師によって稲魂取りの儀式が行われる。呪術師は稲魂を呼び集めるために,二晩つづけて田のあぜに出かけるが,この稲魂はクマン婆という女性の霊の姿になって現れるという。タイの北部のミャンマーの国境近くに住むシャン族のあいだでは,稲魂はナン・チャン・カイ(卵の黄身のお姫さま)と呼ばれ,この稲魂は女性が子どもを産み育てるように,イネを育て,豊かな実りをもたらしてくれると信じられている。このほかに東南アジアには,稲魂を吉祥天女とみなす思想が広く認められるが,吉祥天女はインドの繁盛・招福の女神であるから,この思想は稲魂を女性とみなす東南アジアの稲作民のあいだに受け入れられやすかったのであろう。ちなみに,日本や朝鮮半島では稲魂の観念はあまり発達していない。
稲作文化 →農耕儀礼
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種子植物の単子葉植物に属し,ラン科,カヤツリグサ科,ユリ科,ヤシ科とともにその五大科をなす一つの科である。イネ,コムギトウモロコシなどの重要な穀物,牧草,雑草も多く,またタケやササも含まれ,人生との関係のひじょうに深い重要な植物群である。かつては禾本(かほん)科ともいった。

 イネ科植物の大半は細長い葉と茎をもった一年生または多年生の草本であるが,タケ類には大型で太く,何年も生き続ける茎,つまり稈(かん)があり,同じ性質の稈をもったササ類とともに木本性のイネ科の一群となっている。茎は円柱形で節があり,節間は麦わらや竹稈のようにたいていは中空であるが,サトウキビモロコシの茎のように中実のものもある。根はひげ根で,多年生の草本型のものの一部と,タケ・ササ類の大部分では横にはった地下茎もある。葉は茎の根もとと節につき,葉身は原則的にはススキヨシのように線形か幅の狭い披針形であるが,タケササササクサの葉のように幅の広いものもあり,いずれにも細い平行脈が走っている。葉身の基部にある葉鞘(ようしよう)は巻いて筒形となり茎の節間を包み,その基部が茎の節につく。葉身と葉鞘の境に葉舌がある。イネ科植物の花は稲穂やムギの穂のように穂であるが,これは花序であり,多くはヨシ,キビ,イネのように円錐花序となっている。コムギやエノコログサの単一の花序は円錐のつまった円柱状の穂状であり,オヒシバアイアシ,ススキなどでは穂状または総状の花序の枝が数個,束のように並んで掌状となっている。花序の枝についた小穂は小さな花が1個から数個集まったもので,その形状がイネ科の分類や種の同定にひじょうに重要である。小穂は普通,披針形か楕円形で,中軸の上に穎(えい)と呼ばれる小型の鱗片が何枚か密に交互に並んでいる。小穂の基部の2枚の穎はからで,内側に花がなく,それぞれ第一穎・第二穎という。第三番目から上の穎はその内側に,内花穎という薄い鱗片に包まれた花を抱き込んでいるので花穎と呼ばれる。花穎と内花穎は花を挟み込んだ位置関係にあり,花穎,内花穎,花を一体として小花と呼ぶ。1個の小穂の小花の数は属によって異なり,タケ・ササやコムギ,カモジグサのように1個の小穂に数個の小花のつくものから,イネ,ヌカボオオムギのようにただ1個の小花に減数したものがあり,アワ,キビ,モロコシの類では1個の小穂はきまって2個の小花をもつ。花は目だたない風媒花で,羽毛状の柱頭がある1本のめしべと3個(まれに6個)のおしべのみとなり,花被は退化して鱗被と呼ばれる2,3枚の微細な鱗片となって,めしべの基部にある。果実は穎果と呼ばれ,穀粒がそれであるが,玄米やトウモロコシの粒に見られるようによく発達した胚乳の片隅に小さい胚が付着した状態になっている。

 イネ科は世界中のあらゆる生態条件の地に生育し,南極に生育する種子植物4種のうちの2種がイネ科である。イネ科の多い禾本草原としてアジアのステップ,北アメリカのプレーリー,南アメリカのパンパがある。全世界に約600属9500種余りがあると推定される。日本には約100属500種内外が知られているが,属の数は学者の意見によってかなり異なるし,種の数はタケとササの分類が確立するまでは正確にはいえない。イネ科の亜科や族の分類は外部形態のほかに,最近研究された葉の解剖学的特徴,染色体の数や大きさ,デンプン粒の形質なども併せて行い,亜科としてはタケ亜科(タケとササ),イネ亜科(イネ,マコモなど),ウシノケグサ亜科(コムギ,ヌカボ,ウシノケグサなど),カゼクサ亜科(カゼクサシバオヒゲシバなど),ヨシ亜科(ヨシ,ダンチク,ササクサなど),キビ亜科(キビ,アワ,サトウキビ,モロコシ,ハトムギ,トウモロコシなど)の六つに分ける見解が一般に認められている。

 イネ科は人間や家畜の食料源として重要な科である。世界全人類の主食を二分するコメとコムギをはじめとし,重要な穀物にオオムギ,トウモロコシ,ライムギエンバクがあり,雑穀と呼ばれるものにヒエ,アワ,キビ,モロコシ,アメリカマコモ,テフシコクビエなど多数ある。糖工業用植物としては甘蔗(かんしよ)糖用のサトウキビやサトウモロコシがよく知られ,食用油としてはトウモロコシのコーンオイル,香料用の精油はコウスイガヤレモングラスなどのオガルカヤ属,それに近い一種のベチベル,ヒメアブラススキ類が用いられ,さらに将来はコウボウ属やハルガヤ属も有望視されている。野菜として若い茎を食用とするのがたけのこであるが,中国の菰角(こもづの)はマコモの若い茎が黒穂菌の寄生によって軟らかいたけのこ状に異常生長したものである。

 飼料植物はイネ科とマメ科に多いが,イネ科では大量に生えて,生長が早く,無毒で動物が好むものならよいわけで,実に多数の種類が各地に知られている。おもなものを挙げると,とくに乾草用としてはチモシーオーチャードグラス,コヌカグサ,フェスクダリスグラスなどがあり,そのほかの牧草としてケンタッキーブルーグラス,イヌムギ,コスズメノチャヒキ,ギョウギシバ,ツルメヒシバ,ハトムギ,パラグラス,タチイチゴツナギなど枚挙にいとまがない。庭園の芝草もイネ科植物で,シバやコウライシバのほかに,北地ではナガハグサ,オオスズメノカタビラ,コヌカグサも用い,暖地ではツルメヒシバやギョウギシバを使う。砂防用や土堤の土留め用としては,最近日本へ移入されたウィーピングラブグラスがあるが,外国ではこのほかに欧米のビーチグラス(Ammophila属),北アメリカの類似属のCalamovilfa,耐塩性のある北アメリカのSpartina,北海道などに帰化したシバムギも使われる。

 タケ類の幹は,中空で強いので,建築,細工用編料,容器,結束用など,実に多く利用されているし,ヨシのようにすだれ原料になったり,敷物の原料となるものも多い。たけのこの皮,ヨシやササ類の大きな葉は物を包むことや,ちまきを作るのに使われる。紙を作る植物は中国に源を発する竹紙のタケ類をはじめとして,地中海地方のエスパルトや大型のワセオバナ属,ヨシ属,ダンチク属が用いられている。観賞用植物ではクマザサオカメザサクロチクなどのタケ・ササ類の多数のほかに,盆栽などにするウラハグサ,チグサ(クサヨシの斑入品),バスケットグラスというチヂミザサの1種,大型のダンチク,パンパスグラス,ラベンナグラス,ススキ,ムラサキススキ属などが見られる。手芸用,生花用には首飾や数珠を作るジュズダマの実のほかに,近年ドライフラワーの材料として変わった形をしたイネ科の花序を乾燥し,ときに染色したものが売られるようになった。普通に見るものにはウサギノオ,コゴメカゼクサ,カラスムギ,ムラサキススキがある。

 楽器のクラリネットの口もとの部品のリードはダンチクの茎の皮層が最も良いとされる。また,ヨシも同様に和楽器に使われる。イネ科には有名なハトムギを除くと薬用植物はほとんど見られない。
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イネ科植物は新生代の中新世になって,世界的に乾燥地帯が拡大するとともに分布を広げ,草原植生を構成する主要な植物群に進化してきた。また,このイネ科植物を主とした草原は,そこに適応放散的に進化した多くの動物群の生活をささえた。草食性の偶蹄類(ウシ,ヤギ,レイヨウ類),奇蹄類(ウマ類)などはやわらかい森林の樹木の葉を食べていたものから,この時代にシリカを含む硬いイネ科植物を食草として利用する方向に適応進化をして,草原で大分化した動物群で,歯の構造や消化器官の形態にイネ科植物を食草として利用できる特殊な形質を発達させている。また,イネ科の種子は良質のデンプンを含み,それも主要な動物,とくに鳥類の食料源となった。しかしイネ科植物の多くは風媒花の方向に進化したため,訪花昆虫との関係はほとんど発展させなかった。わずかな例だが,南アメリカのものにカが訪花送粉昆虫となっていることが知られているだけである。
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出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「イネ」の意味・わかりやすい解説

イネ
いね / 稲
[学] Oryza sativa L.

イネ科(APG分類:イネ科)の一年草。アジアのモンスーン地帯を中心に世界の温帯と熱帯に広く栽培され、その子実である米は、世界の人口の半分以上が主食としている。日本では古名を志泥(しね)(『古事記』)、之禰(しね)(『和名抄(わみょうしょう)』)、伊奈(いな)(『万葉集』)などとよび、漢字では稲を用いているが、中国ではさらに粳(こう)(粳(うるち)種)と、稌(糯(もち)種)とに使い分けている。

[星川清親]

起源

栽培イネに近縁の野生イネは、多年生のオリザ・ペレニスO. perennis Moenchで、南アフリカからインド、インドネシア、ニューギニア、南アメリカに及ぶ広い地域に分布する。このうち、アジア型(subsp. balunga)が栽培化され、一年生の栽培イネであるオリザ・サティバO. sativa L.が生じたと考えられている。インド東部を中心とする地域では、いまから4000~5000年以前に、すでにイネが栽培されていたといわれ、最近の研究では、原産地は中国南部の雲南(うんなん)からインド最東部のアッサムにかけての地域と推測されている。一方、西アフリカのニジェール川中流地域からチャドに至る地域には、イネに近縁なアフリカイネO. glaberrima Steud.が小規模ながら栽培されていて、オリザ・サティバと同じころか、あるいはもっと古くから栽培化されたとみられている。

[星川清親]

系統と特徴

イネには日本型(subsp. japonica Kato)とインド型(subsp. indica Kato)の2亜種がある。日本型は日本、朝鮮半島、台湾、中国大陸北部などのほか、ブラジル、アメリカのカリフォルニア州など比較的高緯度地域で栽培され、米粒は丸く短く、炊くと粘り気があり、日本人の好みにあう。インド型は日本で普通、インディカ米、タイ米、南京米(ナンキンまい)などと称され、東南アジアを中心にアフリカ、アメリカ南部、イタリアのロンバルディア地方に代表される地中海沿岸など、主として低緯度地域に栽培される。米粒は細長く、炊いても粘り気が少ない。このほか両型の間には、植物体の形状、病害に対する抵抗性、肥料に対する反応など多くの点で差異がある。

 イネは元来、水生植物で、水田に栽培される水稲(すいとう)(みずほ)が主であるが、大きな変異性をもち、種々の自然環境に適応できる能力をもつ。その一つに浮稲(うきいね)とよばれる生態型がある。熱帯アジアのメコン川やガンジス川流域では、雨期になると水が増し、水田は1~3メートルの水で覆われるが、浮稲は、水が増すにつれて節間が伸び、数メートルの高さとなり、水面上で実を結ぶ。また、水が少なくても生育でき、畑に栽培される陸稲(りくとう)(おかぼ)がある。東南アジアの山地での焼畑農業の主作物になっており、日本でも東北、関東、九州の畑地に少量栽培される。

 いずれの生態型も胚乳(はいにゅう)デンプンの性質として粳と糯がある。粳米デンプンは15~30%のアミロースと70~85%のアミロペクチンとからなり、糯米のデンプンはほとんど100%がアミロペクチンで、粘りが強い。ヨウ素反応は粳米では青色を呈し、糯米は反応が弱く赤褐色となる。糯米の胚乳は、乾燥すると不透明な乳白色となることが多い。なお、アフリカイネはすべて粳種で、糯種はない。

[星川清親]

栽培の歴史

日本の稲作の歴史は、縄文時代晩期に中国大陸の南部から、稲作技術をもった人々が渡来したことにより始まったと考えられる。渡来した当初は北九州で栽培が行われ、1世紀の初めころには中国、四国に、さらに近畿地方にと徐々に伝播(でんぱ)し、3、4世紀ころには関東に及んだ。こうして弥生(やよい)時代には、静岡の登呂(とろ)遺跡に代表されるような、かなり高度の技術をもった水田稲作が広い地域で行われていた。平安時代に入るころ(8世紀)には稲作は東北地方にまで広まり、9世紀初めには栽培面積は100万ヘクタールを超えていた。さらに鎌倉時代には本州最北端の津軽まで稲作が及び、江戸時代末期までに栽培面積は250万ヘクタールとなった。なお、最近の考古学的研究によって、津軽地方で縄文時代の終わりに水稲栽培があったとみられるなど、東北地方でのイネの栽培史はもっと古いとみられるに至っている。明治以降は耐寒性品種の育成や栽培技術の進歩によって北海道での栽培を可能にし、大正時代には栽培面積は300万ヘクタールに達した。

 技術的には、初期は籾(もみ)を直接水田に播(ま)いて育てていたが、奈良時代には苗をつくって移植する栽培法が一般化した。収穫も、穂をとっていたものが、株を刈る方法にと変わってゆき、遅くとも平安時代初期までには、田植、株刈りの稲作技術が確立した。鎌倉時代には品種、熟期、品質への関心が増し、施肥、除草、裏作などの技術も進んだ。江戸時代に入ると、水や風、篩(ふるい)などを利用して、良質の種籾を選ぶ技術が普及し、苗代(なわしろ)管理や播種(はしゅ)法が集約化した。また、溝を掘って排水を早めたり、客土などの土地改良も行われた。この結果、江戸時代末期には10アール当りの玄米収量は150~170キログラムとなった。明治時代になってからは、総合科学としての農学的な視野からの研究が始まり、また遺伝学に基づく育種が国の試験研究機関によって組織的に行われるようになった。これに伴い、10アール当りの玄米収量は、大正時代初期には250キログラムほどに伸び、昭和中期に300キログラム台となり、1965年(昭和40)には400キログラムを超え、1980年代以降は平年作で500キログラムに達している。

 品種は、古くから早生(わせ)、晩生(おくて)の分化があったが、平安時代には中生(なかて)品種も現れ、江戸時代には災害回避のために、早・中・晩生の数品種を組み合わせた栽培が行われていた。

[星川清親]

生育と栽培

種籾・発芽

イネの栽培はよい種籾を選ぶことから始まる。塩水の比重を利用した塩水選により、浮いた籾を取り除き、種籾を得る。塩水の比重は、一般的な粳無芒(うるちむぼう)品種の場合は1.13、芒(のぎ)のある粳品種や糯品種の場合は1.08~1.10とする。塩水のかわりに硫安を水に溶かして用いることもある。選種後はよく水洗いし、種籾消毒剤で消毒する。これは、籾には前年に発生した、いもち病やごま葉枯(はがれ)病、馬鹿苗(ばかなえ)病などの胞子が付着しているからである。

 籾の発芽は水分の吸収から始まる。まず胚が肥大して籾の稜線(りょうせん)基部を押し破って白く露出し、ついで鞘葉(しょうよう)と種子根が現れる。この状態をハト胸期とよび、種播きの目安となる。イネの発芽の最適温度は30~34℃であるが、約10℃以上であれば適当な水分と酸素のもとで発芽する。現在は機械移植なので、生育をそろえるために、ハト胸期にそろった催芽籾(さいがもみ)を播くことがたいせつである。このため、低温下で十分に水を吸わせた種籾を、ほぼ24時間、32℃前後に置き、発芽させる。

[星川清親]

育苗

これを、土(床土)を入れた育苗箱に播く。紙、パルプ、石油系発泡樹脂、ロックウールなどでつくられた人工培地も用いられている。一般的な育苗箱は、60センチメートル×30センチメートル、深さ3センチメートルの木製またはプラスチック製である。機械で播く場合、催芽籾の芽が伸びすぎていると、播種機が詰まったりして均一に播けない。播種後、灌水(かんすい)し、薄く土で覆い(覆土)、電熱育苗器に入れ、32℃で2昼夜置くと、ほぼ1センチメートルに芽が出そろう。暖かい地方では、育苗器を用いないで、ビニルフィルムなど被覆材料による太陽熱の保温による簡易な無加温出芽法も行われている。

 出芽後は、筒状の鞘葉を破って第1葉が現れる。イネの葉は葉身と葉鞘(ようしょう)とからなるが、第1葉は葉身がなく、不完全葉ともよばれる。その後、第2葉、第3葉と次々に新しい葉が現れる。また、1本の種子根に次いで各節部から多くの冠根が出現する。出芽後、育苗器から急に強い光の下に出すと、苗が白化してしまうので、弱光下で光に慣らし(緑化という)、25℃前後で2日間置く。その後、ビニルトンネルやハウスに出して並べ、初期には20℃前後に保温し、徐々に自然の気温に慣らす(硬化という)。苗は、初期には種籾中の貯蔵養分を吸収しながら成長するが、第4葉が出るころには籾の養分はすっかりなくなり、その後は苗床の養分を吸収して成長することになる。

[星川清親]

苗の種類

育苗の方法は、今日の田植機による移植用の苗の育成と、従来どおりの手植えによる苗代を利用した苗作りとでは、大きな違いがある。田植機で移植する苗には、稚苗(ちびょう)と中苗とがある。稚苗とは、第3葉が展開し、第4葉がその2割ほど抽出した苗(3.2齢苗)をいう。この齢の苗は比較的低温に強く、また新しい根が出る直前で、移植後の活着が早い。稚苗をつくるには、育苗箱に約200グラムの催芽籾を播き、20日間ほど置くと、箱当り約7000本の稚苗が完成する。これは作物育苗中でもっとも密播き・密植な育苗で、この密度では、3.2齢を過ぎると、苗はほとんど成長せず、衰弱し始める。このため、移植適期が短く、大量の苗を扱う育苗センターや、休日にしか農作業のできない兼業農家にとって、大きな問題点となっている。この解決策の一つとして、育った苗を貯蔵しておいて移植する苗貯蔵法などが行われている。中苗とは、従来の手植え用苗と稚苗との中間的な苗のことで、4~6枚の葉をもつ苗をさす。暖地の二毛作晩植や高冷地など、稚苗より齢の進んだ苗が要望される場合に使用される。播種量は催芽籾で100~150グラム、育苗箱の底に穴をあけ、根を箱下に伸び出させる。育苗日数は30~40日を要するが、移植適期の幅は稚苗より長い。

 これらの苗に対し、従来の手植え用の苗を成苗とよび、苗代で育てられる。苗代には、湛水(たんすい)(水をたたえること)状態に保つ水苗代と、畑状態の畑苗代、両者の利点をあわせた折衷苗代とがある。水苗代は古くからの技術で、水分不足はなく、雑草の発生も少ないが、根の発育が悪い。畑苗代は、根の発育がよく、活着力の強い健苗育成に適するが、水分不足や雑草の害などが出やすく、根が強く張って苗取りに手間がかかる。折衷苗代は、育苗の前半を水苗代にし、後半には畑状態にする。折衷苗代で、前半の出芽とそれに続く過程をビニルフィルムなどで保温するものを保温折衷苗代といい、当初油紙が用いられ、昭和30年代から寒冷地の早植えや暖地の早期栽培に普及され、近年の水稲作の安定・増収に顕著な貢献をした。苗代では、50日前後かけて6~8齢の苗を育てる。最近では、田植機による移植が、イネ栽培面積の95%を超し、苗代での育苗(成苗の手植え栽培)はほとんど消滅した。

[星川清親]

耕起・施肥

田植に先だって本田を耕起し、肥料を施し、代掻(しろか)きを行う。耕起は前年秋に行う場合を秋耕、春に行う場合を春耕というが、秋耕は耕した土を冬中さらしておくので、土質をよくし害虫を殺すなどの効果がある。耕起は12~15センチメートルの深さが望ましいが、最近のトラクターによるロータリー耕では、耕うんによる土の偏りはないものの、耕起が浅く、乾土効果が少なく、このためイネの生育に種々の障害が出ている。本田には、一般に10アール当り窒素10キログラム、リン酸およびカリをそれぞれ8キログラム程度施肥するが、このうち一部を耕起の際に基肥(もとごえ)として与え、残りは追肥(ついひ)として生育期間に分施する。この割合や量は、その土地の気象条件や土質、品種によって異なる。肥料には化学肥料のほかに、堆肥(たいひ)や、レンゲソウなどの緑肥をすき込むこともある。施肥後、代掻きを行う。代掻きは、田に水を入れてから耕起した土塊を砕き、田面を平らにして苗を植えやすくし、田からの漏水を防ぐなどの目的をもつ。昔は馬鍬(まぐわ)やレーキで、粗代(あらしろ)、中代(なかしろ)、植代(うえしろ)と3回行ったが、現在はロータリーティラーを1回かけるのが普通である。代掻き後、除草剤を散布し、数日して田植をする。第二次世界大戦後、日本では耕起や代掻き作業は小形耕うん機の普及により、ほとんど機械化され、昔の馬耕や牛耕がみられなくなった。現在はトラクターによる作業が主流となっている。

[星川清親]

田植

田植は、一般的には田植機によって行われる。育苗箱で育てられた苗はお互いに根が絡み合い、長方形のマット状になっている。これを田植機の爪(つめ)が掻き取って30センチメートルごとの列に、約15センチメートル間隔で植え付ける。普通、歩行式で一度に2列、または4列や6列ずつ植え付ける。乗用式で6列(6条)、8列、10列植えの機械もある。栽植密度は1株が4~5本で、1平方メートル当り20~25株となる。これは手植え時代の1株が2~4本、1平方メートル当り12~20株植えよりかなり密植となっているのが一般である。田植機移植によって、従来もっとも重労働であった田植作業が省力化され、農民の健康に利した一方、古来からの共同田植作業の慣習が消え、また田植に伴う農村生活の慣習が変化した。

 田植の時期は、気象や前作物の収穫期、灌漑(かんがい)水の事情、品種の早晩性の別、労力の都合などを考慮して決める。稲作期間の短い北海道や東北地方、また、秋の天候が悪く収穫を急がねばならない北陸地方などでは、極力早期に田植をする。しかし、移植後活着するのには日平均気温が稚苗で12℃以上、中苗では13~14℃以上であることが必要であり、これらの地方では5月上旬から中旬となる。関東地方以南の田植時期は5月下旬から6月上旬で、暖地ほど遅くなる。これらは、従前の手植え時代の田植よりも1か月ほど早まっている。暖地でも、秋の台風による被害や、秋落ちとよばれる生育障害などを避けるために、早生品種を使った早期栽培が普及してきている。

[星川清親]

活着

田植後、数日すると節の部分から新しく根が生え、苗は活着する。その後、成長につれてある一定の間隔で次々に節が増え、それに伴って葉数が増す。また、下位の各節から分げつが出、さらに分げつの基部からも第二次の分げつが出て、分げつ数は1株当り20~40本にまで増える。分げつがもっとも多くなるころを最高分げつ期といい、水田は一面に茂った青田となる。この期を過ぎると各茎(主茎と分げつ)は葉を増やすのをやめ、幼い穂を形成する。しかし遅くなって出現した分げつには穂ができず、のちに枯れる。これを無効分げつといい、全体の約2、3割ある。穂数は収量と関係が深いので、できるだけ無効分げつを少なくし、有効な分げつを多くするように栽培する。茎は約13~20個の詰まった節があり、開花期近くになると上位の4、5節の間が伸長して穂が外に現れ、草丈は1メートルほどになる。節間は中空で、力学的に折れにくい構造になっている。

[星川清親]

田植後の管理

田植後は田に水をたたえる。これは保温や養分の供給、雑草防除などの効果があるが、イネにとっては湿った畑程度の水分さえあれば順調に発育できる。むしろ過度の湛水は根を弱めたり、分げつ増加に害があるから、水は浅めにし、とくに最高分げつ期を過ぎたころには一時排水して、土面が亀裂(きれつ)するまで乾かす。これを土用干しとよんでいる。以前は田植後何回か中耕・除草を行ったが、最近は、中耕の効果がほとんどないことがわかったし、優れた除草剤の出現で雑草も防げるようになったので、中耕・除草作業はほとんど行われなくなった。

 なお、陸稲は真夏の日照りによる水不足に弱く、雑草も多いので、中耕・除草や敷き藁(わら)などの管理が必要である。

[星川清親]

直播き栽培

苗代から移植する方法をとらず、直接本田に種籾を播く直播き栽培(じかまきさいばい)は、田植の労力が省ける利点があり、耕起から収穫まで一貫した機械化・省力化が可能であるが、日本では鳥害や雑草害が多く、二毛作も困難なことなどから、特殊な地域でわずかに行われているにすぎず、総栽培面積の1%ほどである。しかし、経営の大規模機械化、生産費の低減を目的として、湛水直播き(水田に種籾を直に播く)や乾田(かんでん)直播き(畑状態のところへ籾を播いて、すこし生育してから水を入れて水田化する)などの新しい直播き技術が研究されつつある。外国では中国、タイ、インドシナ半島東部などは移植栽培が中心であるが、インドその他の熱帯では水田へのばら播き直播きが主であり、またアメリカやヨーロッパ諸国では大型機械や航空機によるばら播きや播種機による条(すじ)播きの直播きが行われている。ヨーロッパでも機械直播きが主であるが、輪作の都合から移植栽培も行われている。なお、陸稲は日本でもほとんどが直播き栽培で、関東地方では4月中旬から6月中旬ころに条播き、または点播きする。ムギの畝間に播くこともある。

[星川清親]

稔実

イネの穂の分化には、日長(昼間の長さ)と温度が関係する。イネは一般に短日植物で、夏至を過ぎるころから穂をつくり始める。しかし、日長に関係なく、高温にあうと穂を分化する性質の品種もある。東北や北海道では、夏至を過ぎてから穂を分化したのでは稔実期に寒さがきてしまう。そこで夏至前でも高温に感じて穂を分化する品種が栽培される。また暖地では早く高温になるので、高温には感じないで栄養成長を十分にしてから日長に感じる品種が栽培される。熱帯のイネはすべて短日感応型のものである。

 イネの穂は、原基が分化してから約30日間の幼穂(ようすい)形成期を葉鞘に包まれて発達し、いちばん上の葉(止葉(とめは))の葉鞘が膨らんだ穂ばらみ期を経て出穂(しゅっすい)する。出穂期は、早期栽培の早生品種では7月中旬、九州地方の晩生品種では9月下旬である。穂を大きく強く育てるために、出穂約25日前に追肥(穂肥(ほごえ))をする。

 イネの穂は複総状花序で、中心の穂軸は約10節からなり、各節から枝梗(しこう)が分かれ、それらはさらに枝分れして小穂をつける。小穂は1花からなり、花はそれぞれ下部から副包穎(えい)2、包穎2、護穎、内穎、鱗被(りんぴ)2、雄しべ6本、雌しべ1本とからなる。護穎と内穎はいわゆる籾殻(もみがら)で、護穎の先端が芒(のぎ)となる品種もある。雌しべの先端(柱頭)は二分し羽毛状。1穂の花数は品種や生育状態によって異なるが、50~200個ほどである。出穂した当日から次々と開花し、1穂の全花が咲き終えるのに3~5日を要す。開花は普通、午前10時から12時の間に限られ、1花の咲いている時間はわずかに90分間である。ほとんどが開花またはその直前に自家受粉し、開花日の夕刻までには受精を終える。

 受精後、雌しべの子房内部では胚乳組織が急速に形成されるとともに、茎葉部から炭水化物が穂に流れ込み始め、胚乳細胞中にデンプン粒として蓄積される。胚乳細胞の分裂増加は開花後9日目に終わり、15日目で見かけは完成した玄米と似た形に発達するが、デンプンの貯蔵は35日目まで増え続ける。イネのデンプンは、微小な多角形の結晶がたくさん集まって1粒となる複合デンプン粒である。籾は未熟のうちは、押しつぶすと乳状の胚乳デンプンが出るので乳熟期という。さらにデンプンが増すと、胚乳は中心部から充実して透明になり、籾は重くなって穂は垂れ下がる。籾殻が黄色になると黄熟期といい、開花後40日以上たち胚乳がすっかり充実すると完熟期となる。なお胚は、胚乳の基部にあって発達し、開花後15日目までに幼芽や幼根の原基が分化し、形態的にはほとんど完成する。出穂後20日もたつと田の水を引いて田面をしだいに乾かし、収穫作業のために人や機械が入れるようにする。

[星川清親]

イネの収穫

収穫の適期は完熟期に達したころであり、早期栽培や早生品種のように実りの季節が高温の場合は出穂後40日目ころ、晩生品種のように秋遅くなって完熟するものでは60日目ころである。収穫期が早すぎると、緑色の米(青米)や未熟米が多く混じり、品質を下げる。また遅れると、胴割米(どうわれまい)が多くなって精米時に砕ける原因となり、また粒の光沢を失ったり、籾が穂から落ちて収量が減るおそれがある。刈取り期は栽培条件によって異なるが、普通栽培の場合には、北海道、東北地方では9月下旬から10月上旬、南にいくほど遅く、九州では11月中旬から下旬に及ぶ。日本では従来、鎌(かま)で株を地際から刈って収穫し、束にして稲架(はさ)に架けて乾燥した。東南アジアでは穂だけを摘み取る方法が広く行われている。手刈りは、田植とともに多くの労力を要する作業である。1960年代後半に刈取結束機(バインダー)が使われるようになり、また、1970年代以降は刈取りと同時に脱穀する自脱式小型コンバインが普及した。手刈りと比べ、コンバインは約50倍の作業能率をもつ。

 手刈りやバインダーで刈り取った株は、地面に広げたり、稲架に架けたりして乾燥させる。稲架は棒架けや横木を渡して架けるなど地方により独特の形式があり、秋の田園の風物詩となる。この乾燥により、刈取り期に20~25%あった籾の水分は約15%に減る。次に穂から籾をこき落とす稲こき、すなわち脱穀を行う。脱穀には動力式回転脱穀機が用いられる。昭和初期以前の脱穀機は足踏み式であり、さらに明治中期以前は千歯扱(せんばこき)を用いた。東南アジアで栽培されるインド型のイネは日本型に比べると脱穀されやすいので、刈った穂を踏んで脱穀している地域もある。

 脱穀した籾は天日に干したり、火力乾燥によってさらに乾燥させる。この過程を調整という。火力乾燥の場合、急激に行うと玄米の胴割れをおこすので、熱風の温度や処理時間に注意を払う。乾燥後、籾摺(もみすり)機で籾殻を除き、籾の重量の約7、8割の玄米を得る。日本では出荷は玄米で行われ、60キログラムを1俵として袋(以前は米俵、現在では紙袋や合成樹脂製)に詰める。最近は、各地の農村にライス・センターやカントリーエレベーター(貯蔵もする)などの大形共同乾燥施設が建設され、農家は予備乾燥して脱穀した籾、あるいはコンバイン脱穀の生籾を搬入し、乾燥以降の過程を委任することが増えている。なお、東南アジアなどでは、生産者は籾のままで出荷する。このため、日本では生産量を玄米の重量で表すのに対して、外国では籾のままの重量で示す。

 イネを1年に2回栽培することを二期作という。日本でも暖かい太平洋岸(四国南部や沖縄)で二期作が可能である。第一期作は、3月中旬から4月上旬に種播きし、7月上旬から8月上旬に収穫、一方、苗代に6月下旬から7月上旬に種播きして苗を育てておき、第一期作の収穫後ただちに田植をして、11月上旬から中旬に収穫する。収量は第一期作のほうが多い。台湾や中国大陸南部でも二期作が行われる所がある。熱帯では、一般的に5月から10月ころまでの雨期にイネを育て、11月から翌年1~2月ごろまでの乾期に収穫するが、一年中適当な雨量がある所では二期作も行われる。

[星川清親]

気象障害と病害虫・雑草

幼穂形成期から出穂、開花期までの環境条件は収量に大きな影響を及ぼす。出穂の25日前の小花の分化期や、約10日前の減数分裂期(花粉の形成期)に低温にあうと、花粉の能力不全で受精できず、実りが得られない。これがいわゆる障害型冷害である。冷害にはこのような機構によっておこるもののほかに、遅延型冷害とよばれるものがある。これは、生育期間に20℃以下の低温が続き、また日照不足となって生育が遅れ、出穂、開花とそれに続く稔実の期間が秋冷期になってしまうためにおこる。冷害により稔実皆無の場合は俗に青立(あおだ)ちとよばれ、穂はいつまでも緑色のまま立っている。昔から東北地方などではしばしば冷害にみまわれ、凶作となり、大飢饉(ききん)をもたらした。明治以降の日本での稲作技術の研究は、冷害克服技術の確立に主力を注いできたといっても過言ではない。その結果、冷害を防ぐ栽培技術が発達し、早生や耐冷性の品種が育成された。この結果、好天にも恵まれて、1953年(昭和28)の冷害以降は、大きな冷害もなく、冷害は技術によって克服されたかにみえた。しかし、気象がふたたび寒冷化したといわれる近年は、1976年の冷害をはじめ、1980~1982年と続けて大きな冷害がおきた。これは異常な低温だけでなく、昭和30年代、40年代と続いた好天に慣れてしまった安易な栽培法が被害を大きくしたためと指摘されている。冷害のほか、出穂から完熟までの実りの期間は、二百十日前後の台風や洪水による被害がある。開花期に強風にあうと受精ができず白穂(しらほ)となったり、籾に傷がついて褐変し、品質が下がる。また茎が倒伏すると実りが悪くなり、洪水により泥水につかると穂が腐ったりする。完熟期ころに倒伏して長期間穂が湿った状態にあると、そのまま籾が発芽(穂(ほ)発芽)してしまうことがある。病害虫もこの期間に多い。また、これら外的環境による害のほかに、出穂前まではよく育っていたのに、稔実期に生育が衰え、収量が少ないことがあり、これを秋落ちと称する。秋落ちは田の土壌中の鉄、マンガンなど微量元素が長い間の湛水で流脱して欠乏することが主因らしく、いわゆる老朽化水田でみられる。

 イネの病気は日本では50種以上あり、重要なものは、いもち病、紋枯(もんがれ)病、ごま葉枯(はがれ)病、白葉枯(しらはがれ)病、小粒菌核(しょうりゅうきんかく)病、縞葉枯(しまはがれ)病、萎縮(いしゅく)病、黒穂(くろほ)病などである。なかでも、いもち病は生育全期に発生し被害が大きく、空気伝染し、夏が低温、多雨、日照不足の年に大発生し、また晩植、密植、窒素過多のイネに多発する。

 害虫には120種以上が知られ、全国的にはニカメイチュウ、寒地ではイネドロオイムシやイネハモグリバエ、暖地ではウンカ類やサンカメイチュウなどが重要な害虫である。メイチュウ類は幼虫が茎に食入して枯らし、とくに被害が大きい。ウンカ類のトビイロウンカは幼虫、成虫ともにイネの汁液を吸い、大発生したときには数日で田を枯らす。ヒメトビウンカ、ツマグロヨコバイは縞葉枯病や萎縮病などのウイルス病の媒介もする。イネの病気も害虫も現在ではほとんど薬剤で防除する。

 水田に生える雑草には、コナギ、キカシグサ、タマガヤツリ、カヤツリグサ、アブノメ、マツバイ、タイヌビエ、アゼナなどがある。なかでもタイヌビエはイネ科の一年草で、生活型がイネとほとんど同じであるから、人間がイネのために与えたよい環境をそのまま横取りして繁殖し、イネの生育を害する。また、収穫時にはその種子が米に混入して米の品質を下げる。熱帯から温帯にかけて世界中に分布し、世界各地の稲作の最大の雑草となっている。以前はヒエ(タイヌビエ)抜きが夏の仕事の一つとして重要なものであったが、最近はヒエを選択的に殺す除草剤ができ、またその処理技術も発達し、ヒエの害を除くことができるようになった。またヒエの幼植物は水に没すると枯れるので、これを利用して田植後まもないころに水田の水を深くして、ヒエを防ぐ方法も有効である。アメリカのように直播きの水田ではヒエその他の雑草の害が大きいので、薬剤による除草だけでなく、田の水深を10~15センチメートルにして栽培する方法が広くとられている。

 陸稲栽培ではメヒシバなど畑地雑草が多く、とくに株間の雑草は除草剤による完全防除がむずかしいので、ポリエチレンフィルムで畝間を覆うマルチ栽培が最近多くみられるようになった。

[星川清親]

品質と用途

日本で生産された米は、すべて農産物規格規定によって品質が評価され、一般飯米用の米は1~3等に格づけされる。各等級ごとに容積重と整粒歩合の最低限値、また、水分や被害粒、死米、着色粒、異種穀粒などの混入許容の最高限度が決められている。これらの等級のほかに、需要の多い食味がよいものを銘柄米として買入価格を高くしている。

 日本では総生産量の95%以上を飯や粥(かゆ)にして主食とする。一般には玄米は搗(つ)いて七分搗米(しちぶづきまい)や白米とする。この作業を精白または搗精(とうせい)という。搗精は昔は臼(うす)に入れて杵(きね)で搗いたが、現在では動力精米機で行っている。精白程度が強いほどタンパク質や脂肪、ビタミン類などが減るが、消化はよくなる。最近では、胚をつけたまま皮部を除き、栄養的には白米よりもよい胚芽米も搗精されている。

 近年、タンパク質や脂肪の多い副食物を多くとる食事に変わってきたため、米の消費は減少し、第二次世界大戦前は1年間に1人1石(150キログラム)を消費するといわれたが、1962年(昭和37)をピークに減少し、2016年(平成28)には54キログラム程度となっている。従来は、一部輸入米に頼ったが、消費量の漸減も手伝って、1967年(昭和42)の大豊作以来、生産過剰の状態にある。

 インドを中心とした熱帯・亜熱帯地域や欧米では粘り気の少ないインド型の米が好まれ、多くは主食とされる。欧米では調理して副食ともなるが、イタリアの米作地帯では主食にもされる。一方、タイやインドシナ半島北部では糯米(もちごめ)を蒸した強飯(こわめし)を主食としている。

 日本でも古代は強飯をかわらけやシイの葉に盛って食べたらしいが、しだいに粳米の飯に変わり、現在では祝い事のときに赤飯に炊いたり、餅(もち)に搗いたりして食べる風習として残されている。また、特殊な品種として、神事に使われる赤米(あかごめ)や、古米の香りづけに利用される香米(かおりまい)が、各地で小規模に栽培されている。

 このほか全生産量の数%が日本酒、みそ、しょうゆ、米酢(こめす)などの醸造原料とされる。清酒用には発酵に適した酒米(さかまい)とよばれる粳米品種群がある。なお、中国では糯米からも酒をつくる。日本では糯米を醸造してみりんをつくる。屑米(くずまい)はビールの主要な補助原料にされる。製粉した米粉(こめこ)は菓子やビーフン、糊(のり)などに用いる。なまの粳米からは上新粉(じょうしんこ)や上用粉(じょうようこ)、糯米からは白玉粉(しらたまこ)や求肥粉(ぎゅうひこ)が、またα(アルファ)化した糯米からは寒梅粉や微塵粉(みじんこ)、道明寺粉(どうみょうじこ)などがつくられる。玄米の粉は玄米パンの原料となる。

 精米時に出る糠(ぬか)は、飼料や肥料とするほか、ぬかみそ漬けに使われる。また上質の油がとれ、食用、工業用とされる。

 藁(わら)は、俵、かます、莚(むしろ)、縄、草履(ぞうり)、畳の床、クッションの詰め物、納豆のつとなど、日本人の伝統的な生活の多方面に利用され、農業においても、飼料に混ぜたり、堆肥(たいひ)としたり、畜舎や畑の敷き藁と広く利用する。注連飾(しめかざ)りや民芸品の材料にもなる。最近では、穀物の飼料化が進むなかで、イネの飼料としての利用も研究されている。

[星川清親]

生産

世界の稲作(水稲)総面積(2016)は1億5981万ヘクタール、うちアジアが1億4049万ヘクタールを占める。生産量は籾のままで約7億4096万トン(2016)で、年々増大している(1950年ころは1億7000万トン)。国別では中国、インドが多く、ついでインドネシア、バングラデシュ、ベトナム、ミャンマー、タイと続き、これら東南アジアの地域を中心に、アジアで世界の90%以上の米を生産している。そのほか、ヨーロッパは0.57%(422万トン)、アフリカは4.38%(3250万トン)、アメリカ合衆国は1.37%(1016万トン)である。稲作の北限は、日本の北海道、中国の東北部、ロシア南部、アメリカのカリフォルニア州などである。

 日本では、10アール当りの水稲収量は明治初期は玄米で190キログラム前後だったが、1990年代以降では約500キログラムで、約2.6倍となった。総生産量は、明治初期500万トン以下であったが、1950年代なかばには1000万トン前後の生産能力をもつにいたった。1967年(昭和42)には1445万トンという史上最高の記録をたてたが、米の余剰問題から1970年に生産調整が始まり、第二次世界大戦後、徐々に増加していた栽培面積が初めて減少した。日本全国で栽培されているが、主産地は北海道、新潟や東北地方の各県などである。なお、陸稲は10アール当り収量が200キログラムほどで、栽培面積はイネ全体の作付面積の0.06%ほど、生産量は0.03%程度を占めるにすぎない。

[星川清親]

栽培品種

現在、日本で実用的に栽培されているイネの品種は、各都道府県がそれぞれの地域に適した品種を奨励品種に指定して普及に努めているものや、農家に小規模に栽培されているものなどを含め、数百種以上ある。また、現在では実用栽培されていないが、試験研究機関に保存栽培されているものを合計すると、日本だけで数千品種にのぼる。さらに、品種改良によって新しい品種がつくりだされ、それらは徐々に従来の品種と交替してゆく。昭和初期ころまでは、在来品種やその純系分離品種が主であって、神力(しんりき)、愛国(あいこく)、旭(あさひ)、亀ノ尾(かめのお)、坊主(ぼうず)などの品種が有名であった。昭和中期から国の研究機関によって育成された陸羽(りくう)132号や農林1号などの品種が普及し始め、近年ではコシヒカリ、ひとめぼれ、ヒノヒカリ、あきたこまち、ななつぼし、はえぬき、キヌヒカリ、まっしぐら、あさひの夢、ゆめぴりかなどの品種が多く栽培されている。とくに最近では、食味や品質のよい品種が好まれ、その代表的なコシヒカリは総栽培面積の35.6%と、1品種で日本のイネ栽培面積の4割弱を占めている(2017)。中国やインドなどにもそれぞれ数千品種があり、全世界では数万の品種があるものと推定されている。

[星川清親]

イネと人類

イネは、とくにアジア諸地域において古くから人々の生活に大きな意味を占めてきた。中国では神農によって紀元前2800年ごろに制定された儀式で播(ま)かれた五穀(米、麦、豆、アワ、キビ)のうち、イネだけが皇帝自身によって播かれなければならなかったという。この伝説はかつてイネの中国起源説の一理由と考えられ、河南省仰韶(ぎょうしょう)の遺跡からは、前3000~前2000年の間のものと推定される籾(もみ)が出土している。インドにおいてもイネに相当する語が『ベーダ』の賛歌のなかにみられ、前2300年ごろと推定されるビハール州チランド出土の炭化米をはじめ、ガンジス川流域を中心として古代の出土米が多数発見されている。タイのスピリット・ケーブやノンノクターの遺跡からはさらに古い出土米が発見され、ノンノクターの籾粒圧痕(あっこん)は、異論も多いが、前3500年あるいはそれ以前のものと推定されている。

 東南アジアは現在もなお世界の稲作の中心を占めているが、そこでは平地での水稲(すいとう)(みずほ)耕作ばかりでなく、山地の焼畑においても陸稲(りくとう)(おかぼ)が栽培されて焼畑初年次作物として卓越している。そして稲作とそれを可能にさせた風土条件(モンスーンによる乾雨2期の交代および高温多湿)が、人々の生活を律するものとして、社会生活や数々の儀礼のうえで重要な役割を果たし、いわゆる稲作文化を形成している。また東南アジアの人々にとって米は単なる主食ではなく、たとえばビルマ(ミャンマー)では食事はすなわち米飯をとることを意味し、米を伴わない朝食は食事の回数に数えられない。この考え方には、米が美味であり、しかも栄養価が高いということも少なからず原因している。中国やインドなどの米と小麦を選択できる地域でも一般に米食が好まれ、したがって米価のほうが高くなるという。このことは米の優れた性質を物語るものであるが、そのために水田の所有が社会的権威に結び付き、さらに米が政治的、社会的基準に用いられることとなり、農業がイネの単作にのみ集中しすぎる現象をも生み出している。

 こうした稲作文化地帯の東端を占めている日本でも、「めし」が米を摂(と)る意味と同じであったことは、東南アジアと同様である。日本や東南アジアでは、イネの豊かな実りを目ざしてさまざまな儀礼や祭りが行われる。日本の場合、大正月・小正月に鍬(くわ)入れや田打ちなどの予祝的行事が行われ、実際の農作業の模倣などもなされる。そして、播種(はしゅ)や田植のときには、田の神の降臨を仰ぐ儀礼が行われる。これに比して東南アジアでは、土地の耕起時、すなわち雨期の始まる前に行われる儀礼が特徴的である。かつては、ビルマやタイ、カンボジアの王室では、王が農耕の開始前に自らの御料地を犂(すき)で耕す「親耕(しんこう)」の儀礼が行われ、天を表す王と母なる大地との結合を象徴するとともに、豊作の前兆とされた。また山地民にあっても同様で、たとえばトンキン高地の黒タイの人々は、土地の神に供え物をしたあと、若い男女が両側に分かれ、竿(さお)に下げられた竹の輪を通してまりを投げ合ったり、綱引きや歌の交歓を行った。これらは農耕の開始をしるしづけると同時に、競争の結果により年占(としうら)を、また象徴的な男女間の結合により豊穣(ほうじょう)の観念を表す。さらに東南アジアの収穫儀礼には、「稲魂(いなだま)」の観念が顕著である。稲魂はその逃亡神話に語られているように、移り気で不安定なものとされ、したがって、よい収穫を得るため、さまざまな供え物がなされて丁重に取り扱われる。タイでは「稲の母」とよばれ、収穫、脱穀ののちに接待の儀礼が行われる。またその女神を表す藁(わら)人形と米粒は、米倉にしまわれて翌年取り出され、他の籾と混ぜられて播種される。島嶼(とうしょ)部でも、稲魂を表す親稲や初穂が家の中や米倉に迎えられ、神霊や祖先に供えられて、食い初めの儀が家族や村落の間で行われる。日本でも古くから宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)(『古事記』)のように、稲魂の観念や田の神を迎え入れて祀(まつ)る収穫儀礼がみられる。

[田村克己]

イネの民俗

イネはかつて菩薩(ぼさつ)とかお米菩薩とよばれていたように、呪(じゅ)的、霊的な力が宿る穀物と考えられていた。そのため、古代よりイネをめぐってさまざまな神話や伝説が生み出され、イネの豊穣を祈願したり感謝する儀礼が盛んに行われてきた。

 日本の穀物起源神話には二つの型があるが、その一つは死体化生(けしょう)モチーフの神話で、穀物が神の死体から発生したことが説明されている。『古事記』によると、イネはムギやアワ、ダイズ、アズキなどといっしよに、素戔嗚命(すさのおのみこと)に殺された女神大気都比売(おおげつひめ)の死体から生じたと伝えられており、『日本書紀』の一書には、イネやムギ、アワ、ヒエ、ダイズ、アズキが、月神月読命(つくよみのみこと)に殺された保食神(うけもちのかみ)の死体から生じたと記録されている。もう一つは穂落とし神モチーフの神話で、これによるとイネは鳥によって地上にもたらされたと伝えられ、死体化生モチーフの神話が五穀の起源を説明しているのに対し、イネの起源しか取り上げていない。またその記録は、ほとんどが近世の記録や民間伝承に認められているにすぎず、もっとも古いものは『倭姫命世記(やまとひめのみことせいき)』(13世紀後半)に、垂仁(すいにん)天皇28年秋、ツルが奇跡の稲穂をくわえてきたとある。また鈴木牧之(ぼくし)の『北越雪譜(ほくえつせっぷ)』にも、報恩モチーフを織りまぜたイネの起源伝説があり、このような鳥がイネを地上にもたらしたという伝承は、東北地方から奄美(あまみ)、沖縄の島々にまで広く分布している。なお、イネだけにこうした伝承が伴っているのは、とりわけイネが貴重な穀物と考えられていたからで、このほか、イネは弘法(こうぼう)大師が海のかなたからとってこられたとか、作神(さくがみ)様が外国から持ってこられたという伝承もあり、沖縄などでは聖なる国ニライカナイからもたらされたと伝えられている。

 『古事記』に出てくる宇迦之御魂神や、『日本書紀』の一書に登場する倉稲魂(うかのみたま)は、どのような神なのかはっきりと説明されていないが、稲の精霊のことと考えられていたらしく、『延喜式(えんぎしき)』の大殿祭(おおとのほがい)(古代からの宮中の祭事で、宮殿の火災やそのほかの災難を祓(はら)う)の祝詞(のりと)では、宇賀能美多麻(うかのみたま)が稲霊として解説され、『神道五部書(しんとうごぶしょ)』(13世紀ごろ)によれば、豊宇気姫(とようけひめ)や豊宇可能売命(とようかのめのみこと)という女神も稲霊とされている。『摂津国風土記(せっつのくにふどき)』逸文に、稲倉山という名のおこりは、止与可乃売神(とようかのめのかみ)が山の中に住んで飯を盛ったからだという地名伝説がある。石川県能登(のと)半島の農村の一部では、「あえのこと」とよばれる、春から秋にかけて水田を守護していた田の神を供応するイネの収穫儀礼が現在でも行われているが、この田の神は稲霊の一種で、このような擬人化は東南アジアに広くみられる稲霊信仰とよく似ている。なお、この田の神は男性とも女性とも伝えられているが、古代日本では女性と考えられていたらしい。

 古くから宮廷で行われている新嘗祭(にいなめのまつり)は、その年の新穀を神に捧(ささ)げ、これを天皇も共食するというイネの祭りである。なかでもイネの栽培に直接携わる農民の生活は、イネの栽培過程にあわせて営まれ、彼らの間にはイネの生育を守護する田の神の信仰が広くみられる。日本の稲作儀礼の多くは、こうした田の神の信仰に基づいている。

 民間信仰によると、田の神は春の種播きが近づくと天または山、家から田に訪れ、そこに滞在してイネの生育を見守り、秋の収穫が終わるとまた帰られるという。イネの栽培はこうした田の神の去来と呼応して行われているが、1年の初めにあたる正月にはその年のイネの豊作を予祝し、庭の一部を苗代に見立てて、そこに豆の皮をまき散らす所作を種播きとよぶほか、稲藁(いねわら)や葦(あし)などを束ねて、これを雪の上に植える行為を田植とよんでいる。いずれもイネの栽培過程を模擬した行為であるが、種播きのころになると苗代の一部に棒が立てられる。この棒は田の神の依代(よりしろ)で、「田の神様の腰掛」などとよばれ、これが枯れると家族に不吉なことがおこると伝えられている。また田植にも田の神の祭りが行われ、田植前の祭りはサオリ、田植後のそれはサノボリとよばれ、いずれも田または家で木の葉を敷いた上に3把(ば)の苗や餅(もち)、昆布、酒などを供え、田の神を祀る。サオリのとき、1枚の田を植え終わると田の神が去られるといって、種播きのときと同じように柴(しば)を折って畦(あぜ)に立て、そこで田の神に休んでもらうと伝える土地もある。収穫の祭りは、くんちとか十日夜(とおかんや)、案山子上(かかしあ)げ、亥の子(いのこ)、丑の日(うしのひ)などとよばれるが、いずれも田の神の祭りで、神棚とか床の間、土間、納戸(なんど)などに、稲束とか大根、餅などを供えて田の神を祀る。北九州の農村では、収穫が終わると、田に刈り残しておいた数株の稲を農家の主人が刈り取って、これを束にして家に持ち帰り、土間に臼を置いて祭壇をつくり、その上に稲束と赤飯などを供えて田の神を祀る。最後に刈り取った稲束の中に田の神が宿るという考えがうかがわれるが、こうした習俗は東南アジアの稲栽培民の間にも認められる。

 このように、日本のイネの祭りは田の神を対象にして行われているが、田の神の観念は長い歳月の間にほかの民間の神々と習合し、田の神は恵比須(えびす)とか大黒(だいこく)、地神(じがみ)、歳神(としがみ)などと考えられるようになった。しかしどの神もイネの豊作をもたらし、農民の生活を豊かにする働きをもっている点で共通しており、田の神は本来祖霊ではなかったかという仮説が唱えられているが、田の神には稲霊としての性格が認められている。

 いまでも家を建てる棟上げのときに、棟の上から餅やお金をまいたり、節分に豆をまいたりするが、これとよく似たものに「ウチマキ」といって、邪気を払うために米をまき散らす風習がある。精霊が宿ると信じられたイネには、邪気を退ける神秘的な力があると考えられ、『延喜式』の大殿祭のなかに「米を屋中に散らす」とあるのも、このウチマキのことであろう。宮中の儀式を記した『貞観儀式(じょうがんぎしき)』(871~872)にも、大殿祭に米や酒がまき散らされたと記録されており、この風習は『うつほ物語』や『源氏物語』『今昔物語』『栄花物語』などにも散見される。『日向国(ひゅうがのくに)風土記』逸文にも、高天原(たかまがはら)から降(くだ)った瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が高千穂で米をまいたところ周囲の闇(やみ)が晴れて明るくなったとある。民間伝承によると、東北地方の山村などでは、かつて「振り米」といって病人の枕元(まくらもと)で竹筒に入れた米を振ってみせたという話が伝えられている。この風習も、イネに宿る呪的、霊的な力によって病気が治るという俗信に根ざしたものであろう。

[伊藤幹治]

『大林太良著『稲作の神話』(1973・弘文堂)』『星川清親著『米・イネからご飯まで』(1979・柴田書店)』『菅洋著『稲――品種改良の系譜』(1998・法政大学出版局)』『大森志郎著『米の話』(潮新書)』


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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「イネ」の意味・わかりやすい解説

イネ
Ine

[生]?
[没]726以後
イギリス,アングロ・サクソン時代のウェセックス王 (在位 688~726) 。南西部に領土を拡大,王国の基礎を固めた。この王の発布した法典は初期イギリス史研究上最も重要な史料の一つ。

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栄養・生化学辞典 「イネ」の解説

イネ

 [Oryza sativa].カヤツリグサ目イネ科イネ属に属するコメをとる植物.

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世界大百科事典(旧版)内のイネの言及

【陸稲】より

…〈りくとう〉ともいわれ,畑地環境に適応して分化してきたイネで,ふつう水田で栽培される水稲と区別される。その起源についてはなお不明な点が少なくないが,イネの起源地において,多様な立地条件に対応して,しだいに陸稲と水稲の区別ができてきたものと考えられる。また一方,世界各地に伝播(でんぱ)した水稲から,個別に分化した陸稲品種も少なくないとされている。現在,アジアイネやアフリカイネ,あるいはインド型イネや日本型イネなどの,いずれの分類群にも陸稲の存在が認められ,東南アジアの山岳地帯を中心に,その分布はアジア,アフリカの各地に広がっている。…

【農耕文化】より

… さらにこの雑穀農耕文化は,アフリカやインドの雑穀のセンターの周縁地域で,湿地にも適応しうるミレットであるイネを栽培化した。このうちアジアのイネ(オリサ・サチバOryza sativa)は,アッサムから雲南にかけての高地で栽培化され,インド平原や華中・華南,あるいは東南アジア北部の平野に展開し,そこで他の雑穀類の栽培から分離・独立して水田稲作農耕の技術を確立した。水利・灌漑をはじめ,各種の協働を必要とする水田稲作農耕では村落を基盤とする強い社会的統合が生じ,また予祝や収穫(新嘗(にいなめ))の儀礼など,さまざまな農耕儀礼が発達し,それらにいろどられた特有の〈稲作文化〉が,水田稲作農耕の展開に伴って形成された。…

【米】より

…イネの種実をいう。収穫された米はもみ殻をかぶっており,これを〈もみ(籾)〉という。日本では,もみ殻をはずした玄米の形で包装,集荷,貯蔵するのが多いが,最近一部ではもみのばら集荷,貯蔵が行われている。外国では米はすべてもみの形で集荷,貯蔵される。玄米を精米機にかけて,ぬか層や胚芽を取り除いたものが精米(白米)である。米は小麦とともに人類の最も重要な食糧だが,小麦がソ連やアメリカなど冷涼で比較的乾燥した地域で生産されるのに対し,米は日本をはじめアジア南部など高温で水の豊富な地域で生産される。…

【青立ち】より

…イネの地上部が青々と直立している状態をいうが,一般には,災害によってこのような状態がもたらされた場合に,とくに使われる用語である。登熟期のイネでは,茎葉部の養分が穂へ移行するのに伴い,穂は垂れ下がり,茎葉部は緑色からしだいに黄褐色に変化していくのが一般である。…

【稲作文化】より

…それが稲作にもとづく自律的な社会発展の型であり,国家形成の道すじであったとすれば,このような社会の進化過程の上に,上記のごとき稲作文化の諸要素が結びつくことによって,やがてそこに成熟した稲作文化の姿を見いだすことになるのである。イネ照葉樹林文化農耕文化焼畑【岩田 慶治】。…

【倉稲魂】より

…食物(稲)の霊魂のこと。ウカはケ,ウケと同じく穀物・食物を意味しており,記紀の神話には,倉稲魂命(うかのみたまのみこと)はじめ大気津比売神(おおげつひめのかみ),保食神(うけもちのかみ),登由宇気神(とゆうけのかみ)等々共通する性格の神が多くあらわれている。ほとんど女神として語られるのは穀物をはぐくむのが女性としての大地だからであろう。現在にいたる民間信仰の世界では宇賀神(うがじん),オガノカミ,おうか様などの農神があり,いずれも倉稲魂より発したものである。…

【古代社会】より

…日本の原始・古代の社会は,採取,漁労,狩猟の社会から,水田耕作を中心とする農耕社会へと発展し,農耕社会の基盤の上に古代の文明が形成された。先土器時代と縄文時代とは採取,漁労,狩猟を中心とする労働によって営まれた時代であり,弥生時代以後は農耕を中心にする社会である。日本の原始・古代の社会は大きくはこの二つの段階にわけられ,文明や社会的な階級,国家形成は後者の段階の社会における歴史的発展の中で行われたものである。…

【栽培植物】より

… いろいろな栽培植物のうちでも,もっとも初期に栽培化されたものは穀類やいも類であろう。ムギ,イネ,トウモロコシなどのイネ科穀類の栽培は,一定の時期に土地を耕し,種子をまき,一定の時期に収穫するという1年を通しての農業活動が要請されるので,人間の生活様式は急速に定着化していくことになった。しかし,栄養繁殖を主とするいも類などを主要作物とした農耕が起源した地域では,穀類栽培にみられるような播種(はしゆ)期や収穫期が厳密に規制されておらず,またいも類は穀類にくらべ長期間貯蔵することはむずかしいものが多いので,人間の定着化はきわめてゆるやかに起こったものであろう。…

【農耕文化】より


[雑穀農耕文化]
 サハラ砂漠南縁のスーダンから東アフリカにかけてのサバンナ地帯と,インド中部および北西部のサバンナ地帯には,麦作・根栽と異なる農耕文化が生み出された。この文化はモロコシ,トウジンビエ,シコクビエ,キビ,アワ,ヒエその他きわめて多種類の雑穀類(イネ以外の夏作の禾本(かほん)科作物)を主作物とし,ほかにゴマなどの油料作物,ササゲ,キマメ,ダイズなどの豆類,さらに多くの果菜類などがそれに加わった複雑な作物構成をもつものである。もともとこの文化は,手鍬(てぐわ)を用い,焼畑農耕によって作物の栽培を行うもので,木臼と竪杵(たてぎね)を用いて脱穀と加工を行っていた。…

【麦】より

…単に麦といえばとくにオオムギとコムギとを区別せずに示す場合が多い。いずれも子実を食糧や飼料などにするために栽培されるイネ科の一・二年草である。この〈麦〉は,日本や中国などで使用されてきた多面的な内容をもつ独特な用語で,これに相当することばは欧米にはない。…

【弥生文化】より

…日本列島で稲作を主とする食料生産に基礎を置く生活が始まった最初の文化。鉄器,青銅器が出現して石器が消滅し,紡織が始まり,階級の成立,国家の誕生に向かって社会が胎動し始めた。弥生文化の時代,すなわち弥生時代は,縄文時代に後続して古墳時代に先行し,およそ前4世紀中ごろから後3世紀後半までを占める。弥生文化は,基本的に食料採集(食用植物・貝の採取,狩猟,漁労)に依存する縄文文化と根本的に性格を異にする一方,後続する古墳文化以降の社会とは経済的基盤を等しくする。…

※「イネ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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