ガンベッタ(英語表記)Léon Gambetta

精選版 日本国語大辞典 「ガンベッタ」の意味・読み・例文・類語

ガンベッタ

(Léon Gambetta レオン━) フランス政治家普仏戦争愛国主義立場から強硬抗戦論を主張戦後共和派指導者として下院議長、首相を務めた。(一八三八‐八二

出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報

デジタル大辞泉 「ガンベッタ」の意味・読み・例文・類語

ガンベッタ(Léon Michel Gambetta)

[1838~1882]フランスの政治家。進歩派・反帝政派の指導者として活躍。1870年、国防政府の成立とともに内相となり、ドイツ軍の囲むパリから気球で脱出、義勇兵を集めたことで有名。のち共和党党首・首相となった。

出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例

改訂新版 世界大百科事典 「ガンベッタ」の意味・わかりやすい解説

ガンベッタ
Léon Gambetta
生没年:1838-82

フランス第三共和政の樹立と安定に寄与するところの大きかった政治家。第二帝政末の1868年,ボーダン事件で逮捕されたドレクリューズの弁護士として,法廷で第二帝政を激しく糾弾して一躍有名になった。翌年の議会選挙にパリの労働者居住街区として知られたベルビルから立候補,このとき選挙民の要求に従って提出した〈ベルビル綱領〉は,急進共和派の路線を示したものとして知られている。70年,スダンにおけるナポレオン3世プロイセン軍への降伏の報に接するや,パリに樹立された国防政府の内相となり,プロイセン軍への徹底抗戦を主張,包囲されたパリを気球で脱出してトゥールにおもむき,戦争指導にあたった。パリ開城後も抗戦を主張して内相を辞任,71年2月の議会選挙で9県より選出され,急進派の指導者となった。3月のパリ・コミューンの蜂起に直面して,政治的安定は共和政の樹立によってしか実現しないと判断したティエールの支持をも得て,強力な王党派と対決し,とくに地方に足を運んで農民層の共和政への支持を固めて,第三共和政の基礎を築いた。反教権主義を唱えて共和派の結集に努め,その後の王党派の反攻を打破することにも成功し,79年に下院議長,81年には首相となった。しかしこの時点で彼の急進派的な性格は失われ,その立場は以後第三共和政与党を特徴づける穏健な共和主義(オポルチュニスム)となった。
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「ガンベッタ」の意味・わかりやすい解説

ガンベッタ
がんべった
Léon Gambetta
(1838―1882)

フランスの政治家。第三共和政初期を代表する共和主義者。第二帝政末期、法曹界から政界に入り、1869年に下院議員、1870年、プロイセン・フランス戦争で帝政が倒れたとき、国防政府に加わり、パリから軽気球で脱出、抗戦に努めた。1871年から下院議員、以後、第三共和政の確立に尽くし、1877年には王党派の動きを抑えた。共和政の定着につれて、妥協的で時宜にかなった政策をとり、それは「オポルチュニスム」とよばれた。1879~1881年に下院議長、1881年11月に首相となったが、選挙制改革を目ざして反対され、翌1882年1月辞任。拳銃(けんじゅう)暴発(情人とのいさかいの際ともいう)がもとで急死した。演説集、書簡集がある。

[山上正太郎]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ガンベッタ」の意味・わかりやすい解説

ガンベッタ
Gambetta, Léon

[生]1838.4.3. ロート,カオル
[没]1882.12.31. オードセーヌ,ビルダブレー
フランスの政治家。初め弁護士として共和主義の立場から第二帝政政府を激しく攻撃,異彩を放った。ベルビル綱領 (普通選挙制の実施,自由の保障,教会と国家の分離を訴える) を定めて 1869年議員となり,反政府運動を展開。第二帝政崩壊後,国防政府の内務相として抗戦継続を主張したが,パリが包囲されるに及び気球でパリを脱出。第三共和政後は君主政主義者に反対する L.ティエールを支持し,共和主義者連合を指導,新聞『フランス共和国』を創刊 (1871.11.) 。共和政確立後は機会主義と呼ばれる現実主義政策を主張,77年5月の反動クーデターの失敗に続く共和派の勝利により下院議長に就任 (79~81) 。 81年の選挙では共和主義者連合の勝利によって首相となり,帝国主義政策を推進したが,急進派の攻撃によって短時日で辞職 (82.1.) 。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

旺文社世界史事典 三訂版 「ガンベッタ」の解説

ガンベッタ
Léon Gambetta

1838〜82
フランスの政治家
普仏 (ふふつ) 戦争に敗れると,国防政府の内相となりドイツ軍包囲下のパリを軽気球で脱出し,南フランスで義勇軍を召集しようとして失敗。第三共和政後は共和派の指導者となって王党派の反動を挫折させたが,以後は協調主義をとり,外交面では植民地拡大政策を主張した。1875年の第三共和政憲法の成立に貢献し,79年に下院議長,81年に首相となったが,左右両派の挾撃で2か月で辞職。

出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報

山川 世界史小辞典 改訂新版 「ガンベッタ」の解説

ガンベッタ
Léon Gambetta

1838~82

フランスの政治家。ナポレオン3世の専制を批判。1870年,パリに成立した国防政府に参加し,内相として対ドイツ抗戦に努力。第三共和政成立期に農村で共和政支持者の獲得に努めた。その共和主義はしだいに穏健化。81~82年首相。

出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報

百科事典マイペディア 「ガンベッタ」の意味・わかりやすい解説

ガンベッタ

フランスの政治家。反ナポレオン3世派の指導者。普仏戦争に際し国防政府内相として強硬抗戦を唱える。第三共和政では共和派左派の領袖(りょうしゅう)として王党派の陰謀を挫折させ,政権の安定に貢献した。1881年首相。王党,社会主義者の攻撃により1882年辞職。

出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報

世界大百科事典(旧版)内のガンベッタの言及

【急進主義】より

…以後このような点を急進主義の特徴とみなすことができるようになる。 第二帝政末期の1869年に議会選挙に立候補したガンベッタが政綱とした〈ベルビル綱領〉は,フランスにおける急進主義の立場を体系的に提示したものとみなされた。70年代の第三共和政の成立にあたり,ガンベッタは政治制度の共和主義化を唱えつつ,小市民層の社会的な保守性をこの共和主義信仰へと結集したのである。…

【第三共和政】より

…パリ・コミューンの民衆蜂起に直面した彼は,これを鎮圧するとともに,革命の再発を回避する役割を果たすのは共和政以外にないと認識するにいたった。そこで急進共和派のガンベッタとひそかに意を通じ,議会で多数を占める地方の地主・名望家層を代表する王党派を牽制し,王政の復活を防ぐことに努めた。ガンベッタは〈地方と農村に基づく共和的未来〉をめざして,小農民層を共和主義に結集する運動を展開,小農民主主義の伝統を復活させた。…

【日和見主義】より

…一定の原理や原則よりもむしろ変化する状況に応じて行動すること。19世紀フランスの政治家L.ガンベッタが共和主義的政策をより現実的な形で実施するために共和主義の原則の一部を犠牲にしようとしたのを当時の世論がオポチュニスムと呼んだことが,この言葉の起源といわれる。また革命運動において,状況の不利を理由に革命への態度を後退させることが〈右翼日和見主義〉と呼ばれる場合がある。…

※「ガンベッタ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

今日のキーワード

脂質異常症治療薬

血液中の脂質(トリグリセリド、コレステロールなど)濃度が基準値の範囲内にない状態(脂質異常症)に対し用いられる薬剤。スタチン(HMG-CoA還元酵素阻害薬)、PCSK9阻害薬、MTP阻害薬、レジン(陰...

脂質異常症治療薬の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android