出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報
明治・大正時代の軍人、政治家。号は観樹(かんじゅ)。弘化(こうか)3年11月15日長州藩士五十部(いおべ)吉平の次男として生まれ、のち三浦家を継いだ。藩校明倫館(めいりんかん)に学び、のち奇兵隊に入隊、第二次長州征伐で幕府軍と対戦、戊辰戦争(ぼしんせんそう)にも従軍した。1870年(明治3)兵部省に出仕、元老院議官を経て、1876年広島鎮台司令長官となり、萩(はぎ)の乱や西南戦争の鎮圧にあたった。1878年陸軍中将に昇進、西部監軍部長に任じられたが、開拓使官有物払下げ事件で政府に反対し、翌1882年士官学校長に左遷された。1884年陸軍卿(りくぐんきょう)大山巌(おおやまいわお)に随行してヨーロッパ各国の兵制を調査、この間に子爵を授けられる。帰国後、東京、熊本両鎮台の司令長官を歴任した。1886年以降、陸軍主流がプロシア式軍制への転換を試み、監軍部を廃止しようとしたため谷干城(たにかんじょう)らとともに反対、さらに陸軍内の研究団体月曜会の顧問格としての活動が主流派の忌避するところとなり、曽我祐凖(そがすけのり)らとともに1888年に予備役に編入された。宮中顧問官、学習院長を歴任、大隈重信(おおくましげのぶ)外相の条約改正交渉には反対意見を上奏、1890年には子爵議員として貴族院議員に選ばれた。1895年在朝鮮特命全権公使となり、三国干渉以後の朝鮮政府内における日本の劣勢を挽回(ばんかい)しようとして閔妃虐殺事件(びんひぎゃくさつじけん)を引き起こし、広島に拘禁された。1898~1899年には憲政本党の推進する非増租運動に参加して東北・北陸方面に遊説した。1910年(明治43)枢密顧問官となり、以後政界の黒幕として活動。元老山県有朋(やまがたありとも)に対抗して政党に接近、第二次大隈内閣のときに外交政策をめぐり憲政会・政友会・立憲国民党の三党首会談を斡旋(あっせん)、さらに1924年(大正13)には憲政・政友・革新倶楽部(くらぶ)の三党首会談を実現し、第二次護憲運動の成立を促進した。大正15年1月28日没。
[宇野俊一]
『小谷保太郎編『観樹将軍回顧録』(1925・政教社/1988・大空社)』
(田浦雅徳)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
明治期の軍人,政治家。長州藩士。五十部吉平の次男に生まれ,三浦道庵の養子となる。観樹と号する。尊攘運動に参加し,奇兵隊に入る。1870年(明治3)以来,兵部権少丞,広島鎮台司令官となり,萩の乱,西南戦争などの鎮圧にあたり,陸軍中将に任ぜられる。その後,陸軍士官学校長,東京,熊本鎮台の司令官を歴任したが,84年予備役に編入される。88年には宮中顧問官兼学習院院長に就任し,90年貴族院議員に勅選。95年特命全権公使として韓国に赴任したが,閔妃(びんひ)殺害事件に関係して広島に投獄され,翌年免訴となる。以後官を辞して政界に入り,憲政本党に属し,97年には地租増徴に反対して東北地方を遊説したが,1910年には枢密院顧問官に就任し,政界の黒幕的存在として護憲三派内閣の成立に奔走した。
執筆者:後藤 靖
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1846.11.15~1926.1.28
明治・大正期の陸軍軍人・政治家。萩藩士の子。号は観樹。奇兵隊に入り第2次長州戦争で活躍。戊辰(ぼしん)戦争に参加。西南戦争に第3旅団司令長官として出征。1881年(明治14)開拓使官有物払下げ反対を建白。陸軍部内では主流派と対立し,86年休職。学習院院長・貴族院議員をへて,95年朝鮮国駐在特命全権公使となり閔妃(びんひ)殺害に関与し,罷免・投獄されたが,裁判で無罪となる。1910年枢密顧問官に就任,政界の黒幕として24年(大正13)第2次護憲運動のとき,政友・憲政・革新の3党首会談を斡旋した。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
…10月31日には山口県令関口隆吉の率いる政府軍との間に火ぶたが切られた。陸軍卿山県有朋は,木戸孝允,伊藤博文と相談のうえ,広島鎮台司令長官三浦梧楼陸軍少将を鎮圧に向かわせた。11月2~3日,萩を中心に激戦が続いたが,4日には大阪鎮台兵が山口に到着,海からも軍艦2隻が砲撃し,総勢500余人に及んだとされる前原軍も6日には鎮定された。…
…このため,勢力後退で焦燥感にかられた日本の手によって殺された。
[閔妃虐殺事件]
1895年,日本公使三浦梧楼の指揮により日本軍人・大陸浪人らの手で閔妃が殺害された事件。三国干渉を契機として復活した閔氏政権の排日政策に対抗して勢力挽回を図った三浦は,10月8日早朝,ソウル駐在の日本守備隊および岡本柳之助,安達謙蔵ら日本人壮士のグループに命じて景福宮を襲撃させた。…
※「三浦梧楼」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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