出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報
静岡県,伊豆半島南東部にある市。1971年市制。人口2万5013(2010)。下田の地名の由来は,本郷(旧稲生沢(いのうざわ))に対して下手の海辺にあたり,〈低田〉の意味から〈下田〉になったといわれる。稲生沢川河口の下田港は江戸と大坂を結ぶ航路の要衝にあり,廻船の風待港,避難港として重視され,江戸時代には下田奉行所が置かれた。1854年(安政1)日米和親条約の締結によって開港場となり,59年の閉鎖まで下田は日本外交の中心となった。また周辺は江戸城の築城に用いられた伊豆石の産地で,幕末には品川の台場の築造に使われるなど大正期まで下田の主要産業であった。1961年伊東~下田間の伊豆急行の開通により南伊豆の観光基地として大きく発展した。現在は観光と結びついた商業・サービス業などの従業者が就業人口の約7割を占める。大旅館は下田,蓮台寺,柿崎に,民宿は白浜,須崎,田牛(とうじ)に多い。市内各地区の温泉旅館に湯を供給する蓮台寺温泉は泉温54℃の単純泉で,源泉数は河内地区も含め55である。水産業は沿岸・沖合漁業でサバなどの水揚げが多く,農業はミカン,花卉などが中心である。《延喜式》の名神大社伊古奈比咩命(いこなひめのみこと)(白浜)神社,下田条約締結の舞台となった了仙寺(史),長楽寺,アメリカ総領事館が置かれた玉泉寺(史),唐人お吉の墓がある宝福寺など史跡が多い。
執筆者:塩川 亮
江戸~大坂間の海上交通の要地として発展した。地名の初出は1399年(応永6)。戦国期は後北条氏の支配下にあり,1588年(天正16)豊臣秀吉の進攻に備え築城された。90年後北条氏滅亡,徳川家康関東入部により戸田忠次の知行となった。1616年(元和2)下田奉行が置かれ,海の関所として栄えるが,1720年(享保5)浦賀に移されたため,飢人2000人余を出すなど衰微した。一方海防の急が叫ばれるに従い脚光を浴び,開国にともない,1854年開港場となり,アメリカ領事館の設置,下田条約の締結など欧米諸国との外交交渉の地となった。これも横浜開港により鎖港。下田町は18ヵ町からなり,1760年(宝暦10)には高279石余,家数805,人別2895。1837年(天保8)は家数831,人別3485であった。
執筆者:高橋 敏
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…斗代の決定は,田畑の優劣によって上,中,下,下々などに位付けし,上田と見立てた場所2~3ヵ所で1坪(約3.3m2)ごとの坪刈りをし,もし坪当り平均籾1升(約1.8l)があれば1反(約991.7m2)で3石(約541.2l)あり,それを五分摺りすれば玄米1石5斗を得るから,1斗(約18l)の15倍ということで〈15の盛〉または〈1石5斗代〉といった。中田以下は二つ下りで中田は13,下田は11,下々田は9,畑は上畑が12,以下二つ下り,屋敷地は12の盛とするのが普通であった。太閤検地段階ではまだ斗代はかなり多様で,1594年(文禄3)の島津分国検地では,同じ上田でも1石6斗代から1石代まで村によって4段階の差があり,屋敷地も1石3斗代と1石代との2種があった。…
…高知県高岡郡東津野村北部の不入(いらず)山(1336m)の東斜面に源流部をもち,中村市下田で土佐湾に注ぐ川。幹川流路延長196km,全流域面積2270km2。…
※「下田」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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