中島治康(読み)ナカジマハルヤス

デジタル大辞泉 「中島治康」の意味・読み・例文・類語

なかじま‐はるやす【中島治康】

[1909~1987]プロ野球選手。長野の生まれ。昭和9年(1934)大日本東京野球倶楽部クラブ巨人前身)に入団し、同13年には日本初の三冠王。引退後は六大学野球評論を執筆した。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「中島治康」の意味・わかりやすい解説

中島治康
なかじまはるやす
(1910―1987)

プロ野球選手(外野手:右投右打)、監督。6月28日、長野県生まれ。松本商(現、松商学園高)時代は好投手として鳴らし、1928年(昭和3)の夏の甲子園大会で優勝した。当時としては大柄な175センチメートル、75キログラムのがっしりとした体格で、早稲田(わせだ)大学では一塁手兼外野手として強打を振るった。藤倉電線(現、フジクラ)を経て1934年に全日本軍に選ばれ、アメリカ大リーグ選抜軍と対戦、その後、1936年に東京巨人(現、読売ジャイアンツ)に入団した。強肩の右翼手として守備には定評があったが、なにより相手チームに恐れられたのはその打撃力であった。1937年の春季シーズン(1937~1938年は2シーズン制)に初めてのタイトルとして本塁打王を手にすると、秋季は打点王を獲得、明けて1938年春季には首位打者にもなった。そして、秋季には史上初の三冠王となり、最高殊勲選手(現、最優秀選手)も受賞した。その後、1940年と1942年にも打点王を獲得。1943年には藤本定義(さだよし)の後任として選手兼任で監督を務めて優勝を飾り、チームは5連覇を成し遂げた。1944年に応召、1946年(昭和21)に復帰。2リーグ分立となった1950年に大洋ホエールズ(現、横浜DeNAベイスターズ)に移籍し、翌1951年にはふたたび選手兼任監督となったが、シーズン途中で交代。同年限りで現役を引退した。

[出村義和 2016年9月16日]

 選手としての実働14年間の通算成績は、出場試合871、安打889、打率2割7分、本塁打57、打点493。獲得したおもなタイトルは、首位打者2回、本塁打王2回、打点王4回、三冠王1回、最高殊勲選手(現、最優秀選手)1回、ベストナイン1回。監督としての通算成績(4年)は、302試合、169勝127敗6分け、勝率5割7分1厘、優勝2回(1リーグ時代)。1963年(昭和38)に野球殿堂野球殿堂博物館)入り。

[編集部]

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「中島治康」の解説

中島治康 なかじま-はるやす

1909-1987 昭和時代の野球選手,監督。
明治42年6月28日生まれ。昭和3年夏の甲子園優勝の松本商業の投手。早大,藤倉電線をへて,9年日本初のプロ野球球団,大日本東京野球倶楽部(クラブ)(現巨人)に入団。強打の外野手としてならし,13年秋季に打率3割6分1厘,本塁打10,打点38で日本初の三冠王。実働14年,首位打者2回,本塁打王2回,打点王4回。のち巨人,大洋の監督をつとめた。38年野球殿堂入り。昭和62年4月21日死去。77歳。長野県出身。

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