劉宗周(読み)りゅうそうしゅう

日本大百科全書(ニッポニカ) 「劉宗周」の意味・わかりやすい解説

劉宗周
りゅうそうしゅう
(1578―1645)

中国、明(みん)末の思想家。字(あざな)は起東(きとう)、啓棟(けいとう)、号は念台(ねんだい)。蕺山(しゅうざん)で学を講じたことから蕺山先生とも称される。浙江(せっこう)省紹興(しょうこう)府山陰県の人。明朝滅亡に際し、23日の絶食の果て、殉死を遂げた。その行状は思想とともに後世に影響を与えた。彼は湛若水(たんじゃくすい)を師とする唐樞(とうすう)(1497―1574)の門下許敬庵(きょけいあん)(1535―1596)に師事し、王陽明(守仁(しゅじん))に私淑したが、朱子学にも明末の陽明学にも批判を加えた。彼によれば意は否定されるべき意念ではなく、心の主宰であり心の運用をつかさどるものとされる。それゆえ、主体の確立には慎独(しんどく)を修養としてこの意が誠にされねばならない、とする独自な誠意説を説いた。東林派高攀竜(こうはんりゅう)(1562―1626)は彼の益友、黄宗羲(こうそうぎ)は彼の門下に出る。著に『劉子全書』38巻、『劉子全書遺編』22巻など。

[杉山寛行 2016年2月17日]

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改訂新版 世界大百科事典 「劉宗周」の意味・わかりやすい解説

劉宗周 (りゅうそうしゅう)
Liú Zōng zhōu
生没年:1578-1645

中国,明末の思想家。字は起東,号は念台。浙江省山陰(紹興)の人。蕺山(しゆうざん)において学を講じたので蕺山先生と称せられる。宦官(かんがん)魏忠賢に逆らって下野し,のちしばしば上奏するもいれられず,明朝滅亡が明らかになったときに,絶食して明朝に殉じた。劉宗周は朱子学,陽明学の思想的遺産を活用しながらも,朱子学の固陋,陽明学の横流を忌避して,独自の哲学的立場を樹立した。それが最もよく表れているのが彼の〈誠意説〉である。つまり《大学》八条目の一つである誠意の意を,朱熹(しゆき)(子),王守仁(陽明)は已発(いはつ)作用と解釈したが,劉宗周はこれでは意にすでに善悪が結果しているから,誠意のくふうは無意味になると理解して否定し,意を心の未発本体とし,誠意のくふうにより実践主体を確立すると主張した(未発・已発)。証人書院を経営して俊秀を輩出させ,明末・清初の思想界に与えた影響はきわめて大きい。黄宗羲は彼の高弟である。著者に《劉子全書》《劉子全書遺編》がある。日本では幕末期に注目されて深刻な影響を与え,《人譜》は和刻された。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「劉宗周」の意味・わかりやすい解説

劉宗周
りゅうそうしゅう
Liu Zong-zhou

[生]万暦6(1578)
[没]順治2(1645)
中国,明末の学者。山陰 (浙江省紹興県) の人。字は起東。号は念台,しゅう山 (しゅうざん) 。万暦 29 (1601) 年の進士。官は都察院左都御史まで昇進。明が滅んで福王に仕えたが,清軍による南京陥落の報に接し,絶食し国に殉じた。学問は陽明学の系統で東林派に属し,黄銅宗とともに明末最後の二大思想家と称される。黄宗羲は彼の高弟。『劉子全書』『論語学案』『周易古文抄』『劉氏人譜』などの著がある。

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世界大百科事典(旧版)内の劉宗周の言及

【黄宗羲】より

…そのほかに漢代易学を再評価した《易学象数論》や明代の文章を集めた《明文海》《明文案》《明文授読》などがある。なお,彼の学問は劉宗周(号は念台)から出ていて,その慎独説とともに史学をも受けつぎ,浙東学派の開祖とされている。【坂出 祥伸】。…

※「劉宗周」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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