千葉(読み)ちば

精選版 日本国語大辞典 「千葉」の意味・読み・例文・類語

ち‐ば【千葉】

[1] 〘名〙
① たくさんの葉。数多くの木の葉。
② 干し菜をいう、女房詞。大根葉を干したもの。
※女中詞(元祿五年)(1692)「千葉 干し菜」
[2]
[一] 千葉県北西部の地名。県庁所在地。東京湾に面する。大治元年(一一二六)千葉氏の居城が猪鼻台に置かれ、以後三百年余、城下町として栄えた。江戸時代、佐倉と江戸を結ぶ千葉街道の宿場町・港町として発展。明治六年(一八七三)千葉県成立以後、県庁所在地となる。第二次大戦後は京葉工業地帯の造成に伴い、その中核の工業都市となる。また、東京の住宅衛星都市。大正一〇年(一九二一)市制。平成四年(一九九二政令指定都市に指定。
[二] 「ちばけん(千葉県)」の略。
[三] 江戸、深川の木場(きば)をいう。
※人情本・春色梅児誉美(1832‐33)四「アノ藤さんは千葉(チバ)材木座で第一ばんの福有人(ぶげんしゃ)
[補注](一)②は、干葉を千葉と書き誤ったのが固定したものであろう。

せん‐よう ‥エフ【千葉】

〘名〙
① 多くの葉。
※万葉(8C後)一・一六・題詞「競憐春山万花之艷秋山千葉之彩時」 〔姚倫‐感秋林〕
② (「葉」は世・時代の意) よろずよ。万世。千代。
続日本紀‐天平八年(736)一一月丙戌「願賜橘宿禰之姓、載先帝之厚命、流橘氏之殊名、万歳無窮、千葉相伝」

ちば【千葉】

姓氏の一つ。

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デジタル大辞泉 「千葉」の意味・読み・例文・類語

ちば【千葉】[地名]

関東地方南東部の県。もとの安房あわ上総かずさ下総しもうさの3国にあたる。人口621.7万(2010)。
千葉県中西部、東京湾に面する市。県庁所在地。中世は千葉氏の城下町として発展、近世は宿場町。現在は住宅地・臨海工業地。加曽利かそり貝塚がある。平成4年(1992)政令指定都市。人口96.2万(2010)。
[補説]千葉市の6区
稲毛区中央区花見川区緑区美浜区若葉区

ちば【千葉】[姓氏]

姓氏の一。
古代末から中世にかけての関東の豪族。桓武平氏良文の支流。常胤つねたね源頼朝に従って下総しもうさ守護となり、その嫡流は代々千葉介と称した。室町時代に勢力が衰え、のち、後北条氏に従ったが、豊臣秀吉小田原征伐により主家とともに滅亡。
[補説]「千葉」姓の人物
千葉亀雄ちばかめお
千葉茂ちばしげる
千葉治平ちばじへい
千葉周作ちばしゅうさく
ちばてつや

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改訂新版 世界大百科事典 「千葉」の意味・わかりやすい解説

千葉[県] (ちば)

基本情報
面積=5156.70km2(全国28位) 
人口(2010)=621万6289人(全国6位) 
人口密度(2010)=1205.5人/km2(全国6位) 
市町村(2011.10)=36市17町1村 
県庁所在地=千葉市(人口=96万1749人) 
県花ナノハナ 
県木イヌマキ 
県鳥=ホオジロ

関東地方南東部の房総半島を県域とし,北は茨城県,西は埼玉県と東京都に接する。

県域はかつての安房・上総両国全域と下総国の大部分にあたる。江戸末期,安房には館山,勝山(1869年加知山と改称),上総には鶴牧,大多喜,久留里(くるり),佐貫(さぬき),飯野,一宮,請西(じようざい)(1868年領地没収),下総には佐倉,関宿(せきやど),生実(おいみ),多古(たこ),小見川(おみがわ),高岡の譜代諸藩が配され,そのほか天領,旗本領などが入り組んでいた。さらに1868年(明治1)徳川宗家の駿遠(すんえん)地方移封に伴い,同地の田中,横須賀,浜松,掛川,相良(さがら),小島(おじま),沼津の各藩が移されてそれぞれ長尾,花房(以上安房),鶴舞,柴山(後に松尾藩と改称),小久保,金崎(後に桜井藩と改称),菊間(以上上総)の各藩となり,69年羽前の長瀞(ながとろ)藩,70年下野(しもつけ)の高徳藩が上総,下総に移されて大網藩(1870年常陸竜ヶ崎へ転封),曾我野藩となった。一方,1868年に置かれた安房上総知県事と下総知県事が旧天領を管轄し,翌年それぞれ宮谷(みやざく)県,葛飾(かつしか)県となった。71年廃藩置県によって藩は県となったが,同年安房,上総の全域は木更津県に,葛飾,佐倉,関宿,曾我野,生実の各県は結城・古河両県(現,茨城県域)とともに印旛(いんば)県に,多古,高岡,小見川の各県は常陸8県とともに新治(にいはり)県に統合された。73年木更津県と印旛県が合併して千葉県となり,75年新治県の廃県に伴い利根川以南の3郡を編入,さらに旧印旛県の利根川以北を茨城県へ,葛飾郡の一部を埼玉県に移管して,ほぼ現在の県域が確定した。

千葉県の先縄文時代の遺跡は必ずしも多くはないが,南大溜袋(みなみおおためぶくろ)遺跡(富里市)ではソフトローム層から両面加工の細身の石槍などの石器が,土器を伴わずに発見され注目されている。

 縄文時代では早期から貝塚が多い。まず西之城(にしのじよう)貝塚(香取郡神崎町)は主淡貝塚で,井草式など撚糸文(よりいともん)土器を出土し,貝層下から不整円形の竪穴住居址が発見され,類例の少ないこの時期の居住地として注目されている。鳥込(とりばみ)貝塚(千葉市稲毛区)と飛ノ台(とびのだい)貝塚(船橋市)はいずれも純鹹貝塚で,茅山(かやま)式土器と石器を伴う多数の炉穴が知られている。また城ノ台(しろのだい)貝塚(香取市)では貝層中に田戸下層式,田戸上層式,子母口式土器がそれらに伴う石器とともに層序をなして発見されている。加茂遺跡(南房総市)は前期諸磯式期の独木舟などの木製品の出土で有名。下小野貝塚(香取市)は中期初頭下小野式の,阿玉台(おたまだい)貝塚(香取市)は同じく阿玉台式の標式遺跡である。中・後期の貝塚集落も多い。姥山(うばやま)貝塚(市川市),貝の花貝塚(松戸市),加曾利(かそり)貝塚(千葉市若葉区),高根木戸遺跡(船橋市)などがその代表例。なかでも加曾利貝塚は中期後半~晩期中葉に形成された馬蹄形の南貝塚と,中期中葉~後期の環状の北貝塚から成り,中期後半加曾利E式と後期中葉加曾利B式の標式遺跡でもあって,日本の代表的貝塚といってよい。やはり後期堀之内式の標式遺跡,堀之内貝塚(市川市)をはじめ,岩井貝塚(柏市),曾谷貝塚(市川市),余山(よやま)貝塚(銚子市),犢橋(こてはし)貝塚(千葉市花見川区),荒海(あらみ)貝塚(成田市)など後期~晩期の遺跡も少なくない。ことに荒海貝塚は,南関東縄文文化終末の様相を知るうえで重要である。

 弥生時代では,いずれも南関東中期の標式遺跡である須和田遺跡(市川市)と宮ノ台遺跡(茂原市)をはじめ,中期初頭の墓址天神前遺跡(佐倉市),五弦琴など多数の木製品の出土で知られる菅生(すごう)遺跡(木更津市)などがある。

 古墳時代では,まず本格的な高塚墳出現以前の前方後円形の特異な墳丘墓として注目を集めている神門(ごうど)4号墳(市原市)や,やはり東日本の古式古墳として重要な北作(きたさく)Ⅱ号墳(柏市)などが挙げられる。4世紀代では手古塚古墳(木更津市),能満寺古墳(長生郡長南町),5世紀代では内裏塚古墳群(富津市),我孫子(あびこ)古墳群中の水神山古墳(我孫子市),6世紀代では山王山古墳(市原市),城山(じようやま)古墳(香取市),また7世紀代では竜角寺古墳群中の代表的な方墳,岩屋古墳(印旛郡栄町),金鈴塚古墳(木更津市),芝山古墳群中の殿塚・姫塚古墳(山武郡横芝光町)などがある。

 このほか鬼高(おにたか)遺跡(市川市)は古墳時代後期鬼高式土器の標式遺跡として著名であり,上ノ台遺跡(千葉市花見川区)は和泉期・鬼高期にわたる大規模な古墳時代集落址である。大和田玉作遺跡(成田市),それに法起寺式伽藍配置をもち,白鳳様式の本尊薬師如来で有名な下総最古,奈良時代前期の寺院址竜角寺(印旛郡栄町)も著名である。
安房国 →上総国 →下総国
執筆者:

房総半島は,東は太平洋,西は東京湾と浦賀水道に面し,北に利根川,北西に江戸川が流れる。陸上の交通体系が整えられる以前は半島ではあるが島的な性格をもち,古くから上方との往来や産業・文化の流入は海上交通によって行われ,内陸部へは利根川と江戸川によって通じた。

 半島南部の標高200~400mの房総丘陵地域は年降水量3000mmの多雨地で,水源地付近にダムが多く,農業・工業・都市用水源となっている。その北に広がる乏水性の下総(しもうさ)台地には周囲から樹枝状に浸食谷が刻んで谷津田(排水不良な湿田)となり,比高20~30mの台地上は中世から馬牧に,近世には畑地に,明治期には軍用地に利用されてきた。現在は大型住宅団地,工業団地のほか,三里塚(成田市)の御料牧場跡には新東京国際空港が1978年開港した。利根川下流部の低湿地帯はかつて香取海(かとりのうみ)と呼ばれた内陸水域であったが,河川の堆積作用で陸化し,干拓も行われて,わずかに印旛沼,手賀沼が残されている。これらの丘陵や台地のまわりをふちどる河谷や海岸平野は水田となり,都市が立地し人口が密集している。海岸は東京湾北岸も九十九里浜も砂浜で,後者は近世前期から上方の資本と技術によるイワシ漁業地として栄え,干鰯(ほしか)は海運で上方へ,また河川による水運で関東内陸の農業地域へ輸送された。一方,南部の外房(太平洋側),内房(東京湾側)は岩石海岸であり,景勝地や史跡に恵まれ,南房総国定公園に指定されている。

近世には県域に大城下町はなく,ほとんどが市場町,宿場町,漁師町であった。ただ利根川と江戸川は,関東内陸の水運と東廻海運によって江戸に集まる物資輸送の大動脈であったため,江戸川沿岸には行徳(ぎようとく),松戸,関宿,利根川沿岸には木下(きおろし),佐原,小見川,銚子など,多くの河岸があってにぎわっていた。明治末から昭和初期にかけて鉄道が県内各地にのびると,関宿,木下などの河岸や東京湾岸の木更津,館山などの港町を中心とした交通体系はくずれて,千葉,成田,我孫子(あびこ),銚子などの鉄道輸送を中心とする新交通網ができ,各地の産業に大きな変化を与えた。例えば近世前期から盛んであった九十九里浜と外房のイワシ漁業が1930年代の豊漁期を境として衰えると,九十九里浜に沿って発達する九十九里平野下総台地東部は,鉄道で長野県に繭を供給する養蚕地域となった。下総台地でのアイ(藍)の生産は化学染料に圧迫されて衰退し,ラッカセイの産地に変わった。ラッカセイは近年減少してはいるが,2005年の生産量は1万6100tで日本一である。下総台地の西部は明治末以降,雑穀産地から京浜に野菜を供給する近郊農業地に変わった。鉄道が館山にのびた大正期以降,内陸部には近世中期に芽生えた酪農が拡大して,ホルスタイン種の子牛供給地となり,大手の乳業会社が進出した。また海岸部には花卉の露地栽培やビワ生産が発達して東京に移出するようになった。しかし利根川,江戸川の河岸が衰え,東京湾の対岸では京浜工業地帯が成立したにもかかわらず,1950年ころまでの千葉県は農・林・水産業を主とした東京の食糧供給地で〈東京の台所〉といわれた。また増加人口は京浜に流出し労働力の供給地でもあった。県内に立地する産業も,その多くは零細であり,大企業はわずかに野田と銚子のしょうゆ醸造業ぐらいで,漁港町の水産加工業や,九十九里平野北部のサツマイモ産地に第2次大戦後乱立したデンプン工業も小規模であった。

50年以降,東京都からの工場分散と千葉県の工場誘致政策,および国の臨海工業地域造成政策によって,千葉県の工業化は90年代まで急速に進んだ。1950年から20年間に浦安の三角州地帯から富津(ふつつ)岬まで延長約60kmの東京湾干潟に約1万haの埋立地が造成され,大型港湾の千葉港と京葉工業地域が形成された。65年特定重要港湾に指定された千葉港を中心として,火力発電所や製鉄,造船,石油精製,石油化学などの巨大工場が建設され,工業素材の生産・供給地となった。千葉港には鉄鉱,原油の輸入が急増して,その輸入量は全国有数である。下総台地と九十九里平野北部の諸都市に工業団地が造成され,東京から工場を誘致し,松戸,柏,鎌ヶ谷,八千代,佐倉,千葉,八日市場,旭などの各市は工業化が進んだ。これらの諸都市には機械,金属,食品,建材などの加工業が多い。また君津には新日本製鉄の大工場が立地した。

 1960年代から大型住宅団地が常磐線,総武線や京成電鉄の沿線に造成され,松戸,流山,柏,我孫子や船橋,八千代,千葉,四街道,佐倉などの各都市の人口は,東京通勤者の流入によって65年からの15年間に2培以上に急増し,その後の15年間にも増加しつづけている。千葉市は92年政令指定都市となり6区を置いた。宅地,工業地の増加は近郊農業地を減少させ,下総台地の東部や九十九里平野に主産地が移動している。工業地域への通勤圏の農家は兼業化が進んでいる。通勤圏外の農地ではひでりと水害になやまされていた天水田が大利根用水(1951)や両総用水(1967)によって乾田となり,水田の機械化や畑地灌漑が進んで,生産力が向上した。県の人口は工業化と都市化によって,65~95年の30年間に2倍以上になったが,県西部が増加地域であるのに対して,県東部は減少地域となっている。1997年12月には東京湾をまたいで木更津市と神奈川県川崎市との間に東京湾横断道路が開通し,今後の一層の発展が期待されている。

千葉県は自然条件,産業の立地,首都東京との結びつきなどを考えあわせて東京近郊,京葉,下総,九十九里,南房総の各地域に分けられる。

(1)東京近郊地域 東京湾岸と下総台地の西部を占め,総武線,常磐線,京成電鉄の沿線である。かつては近郊農業地と野菜集散地としての商業地域であったが,最近の工場進出と東京通勤者の激増によって,住宅地化と工業地化が著しい。千葉ニュータウン,海浜ニュータウン,成田ニュータウンが造成されて人口が急増している。

(2)京葉地域 東京湾岸の京葉工業地域とその背後地の旧市街,下総台地南部および房総丘陵北部(上総丘陵)を占める。かつてノリと貝を養殖していた半農半漁の村落は消滅し,工業素材を大量生産する大工場が並び,日本最大の重化学工業地域として発展している。工業素材は関西や関東内陸工業地域に輸送され,加工される。工業生産の増加にともない,大気汚染,海水汚濁,地盤沈下などの公害が激しい。

(3)下総地域 県の北東部,下総台地の北東部と利根川下流の沿岸低湿地を占める。乏水性の台地上は畑作地で麦,サツマイモ,ラッカセイの大産地であったが,最近これらの作付面積は減少して,野菜畑が激増し,養豚,養鶏,酪農などの畜産が盛んになって近郊農業地に変わりつつある。これらの産物は京浜地方に出荷される。利根川沿いの低湿地は水害に苦しめられたが,近年の両総用水や土地改良によって東京市場向けの早場米の産地となっている。また茨城県南部の鹿島臨海工業地域への通勤者も多い。利根川下流部は水郷筑波国定公園に指定されているが,かつての水郷十六島の面影は失われてきている。台地の内陸には新東京国際空港(現,成田国際空港)があり,先端技術産業が空港周縁に増加している。

(4)九十九里地域 県の東部,太平洋岸の九十九里平野を占める。イワシ漁業が衰退した海岸は民宿を中心とする海水浴場に変わった。平野は大利根用水と両総用水の恩恵をうけ,米作の機械化と畑地での園芸農業の普及によって安定した農業地となった。天然ガスの埋蔵量が多く,茂原市にはこれを燃料・原料とする機械・化学工業が立地するが,天然ガス採取の影響で広範囲の地盤沈下が進行している。

(5)南房総地域 県の南部で,内陸は房総丘陵南部(安房丘陵)である。館山平野や加茂川沿いの長狭(ながさ)平野は米作地で,後者では酪農も行われている。海岸は温暖な気候で無霜地帯であり,南房総市の旧富浦町を中心としたビワや海岸一帯の花卉の栽培が名高く,大部分は東京へ,一部は東北地方に出荷される。沿岸には漁港が多く,沖合漁業が盛んであり,また岩礁が多い沿海ではアワビ,サザエ,テングサを採取する海女の潜水漁業もみられる。外房と内房の海岸は景勝地が多く,観光施設と宿泊施設が増加し,首都圏内の日帰り観光地となっている。
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千葉[市] (ちば)

千葉県中部にある県庁所在都市。1921年市制。人口96万1749(2010)。92年4月政令指定都市となり,稲毛,中央,花見川,緑,美浜,若葉の6区が置かれた。市域は東京湾に面し,下総台地西縁部に広がる。都川の流れる平野部にある中心街は平安時代末~鎌倉時代初期以降,千葉氏の城下町として繁栄したが,戦国時代に兵火で焼失し,近世には千葉街道の宿場町となり,佐倉藩の外港でもあった。1873年千葉県の県庁がおかれ,明治期に総武本線,房総西線(現,JR内房線),房総東線(現,JR外房線)が開通,千葉~両国間の複線化によって鉄道交通の中心地となり,港町は衰えた。このころ台地上に軍事施設が増加して軍都となった。1932年総武本線の電化に伴って東京の通勤圏に入り,住宅地化も進んだ。第2次大戦の戦災をうけたが,戦後は海岸に埋立地が造成されて京葉工業地域の中核として発展,1953年操業開始の川崎製鉄をはじめ,火力発電所,食品コンビナートなどの集まる重化学工業地域となった。台地上の犢橋(こてはし)・千種(ちぐさ)地区には工業団地が造成され,金属・機械工業が進出した。これらの工業の原料と製品の輸送のために,京葉道路,東関東自動車道,館山自動車道,千葉東金道路,国道51号線が通じ,大型港湾千葉港が建設された。千葉港は1965年特定重要港湾となり,輸入では全国有数である。市の年間製造品出荷額は1兆0727億円(1995)で,県の9%を占め,県内では市原市に次いで2位の位置にある。こうした工業地域の発展は一方で海岸のノリ,貝の養殖を不可能にし,海水汚濁と大気汚染をもたらした。なお,1960年代には稲毛,検見川(けみがわ),幕張(まくはり)の海岸も埋め立てられて食品工場,木材団地,住宅団地などが造成され,70年代に48万人だった人口が急増して,95年には85万人をこえ,99年には千葉港や県庁を結ぶ千葉都市モノレールが完成した。急激な人口増加のため中心街とJR千葉駅前通りに多数の大型店が進出して,商圏を拡大した。

 中世,千葉氏の城塞のあった亥ノ鼻(いのはな)台には小田原城などを模して1967年に造られた天守閣があり,郷土館(現,市立郷土博物館)となっている。周辺に県文化会館などの施設が集まり文化の森と呼ばれ,隣に国立千葉大学医学部がある。都川の支谷に面する台地上には加曾利貝塚(史)がある。
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日本歴史地名大系 「千葉」の解説

千葉
ちば

千葉庄内の地名で、みやこ川下流域の堀籠ほりごめ池田いけだ両郷を含む広域地名。その中心は猪鼻いのはな(亥鼻・井花)山にあった千葉館。北に千葉野(六方野、現稲毛区六方町周辺)が広がる(「万葉集」巻二〇、下総国旧事考附録「下総国輿地全図」)。当地での武州金沢称名寺学僧の活動が知られるが、その僧侶らが書写したなかには金沢文庫蔵の永仁五年(一二九七)五月六日付の荒神供次第奥書に「千葉大日堂長老坊書了」、元亨二年(一三二二)四月七日の同文庫蔵十不二門指要証義抄奥書に「於千葉以祐師御本書写之」などとあり、慶長二年(一五九七)三月九日付の上観大綱鈔奥書にみえるように近世初期に至るまで大日だいにち(のちの大日寺)を中心に行われていた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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