出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報
中国、河南(かなん)省南西部の地級市。漢水(かんすい)の支流、白河(はくが)の中流域の河谷盆地に位置する。2市轄区、方城(ほうじょう)、唐河(とうが)など10県を管轄する(2016年時点)。人口1010万7500(2016)。1949年、南陽県の市街地を分離して市が設けられた。市域は、南北に焦柳線(焦作(しょうさく)―柳州(りゅうしゅう))が、東西に寧西線(南京(ナンキン)―西安(せいあん))が通じ、南陽空港がある。伝統的工業の絹織物工業のほか、食品加工、機械、アルコール工業などが発展している。「南陽綢(ちゅう)(絹織物)」や「南陽玉器」が特産。農業や林業、漢方薬材の生産も盛んである。西郊の臥竜崗(がりょうこう)には、諸葛孔明(しょかつこうめい)(諸葛亮(しょかつりょう))を祀(まつ)った武侯祠(ぶこうし)がある。
[駒井正一・編集部 2017年12月12日]
山形県南東部の市。1967年宮内・赤湯両町と和郷村が合体,市制。人口3万3658(2010)。米沢盆地の北東端に位置する。北部は白鷹丘陵に属し,南部は吉野川の開析扇状地に続く最上川の沖積地が広がり,その東部に白竜湖をたたえる大谷地(おおやち)といわれる泥炭湿地帯がある。縄文・弥生時代の遺跡や,稲荷森古墳(史)などの古墳が残されている。大谷地の開発は江戸初期から始められたが,腰までつかる湿田の農作業は難渋をきわめた。第2次大戦後,灌水設備が整備されて乾田化が進み,穀倉地帯となった。吉野川上流域は中世以来,亜鉛などを採掘する多くの鉱山が開発され,明治以後も操業されたが,現在は閉山している。赤湯は赤湯温泉(弱食塩泉,68℃)を中心に発達した古くからの温泉場で,米沢街道の宿駅でもあった。もう一つの中心集落の宮内は吉野川に沿う谷口集落で,日本三熊野の一つという宮内熊野大社の門前町として栄え,明治以後は県下有数の製糸業の町であった。白竜湖北方の斜面は県内随一のブドウ産地である。赤湯駅でJR奥羽本線,山形新幹線と山形鉄道フラワー長井線が分岐し,赤湯で国道13号線と113号線が交差する。
執筆者:中川 重
中国,河南省南西,漢水支流白河に臨む都市。人口158万(2000)。宛と呼ばれた。交通の要衝にあり,西は関中,北に行けば洛陽,北東に進めば開封,東に向かえば淮水流域,南は漢水を経て長江(揚子江)に通じ,湖北,湖南,四川,江蘇と結ばれる。《史記》には〈夏人の居〉とあり,周は伯夷の子孫をここに封じて申とした。楚が申を滅ぼし,戦国時代には楚・韓・秦3国の国境となり,《漢書》地理志はここを韓地に区分している。秦が統一すると南陽郡が置かれ,その範囲は河南南西から湖北の北に及び,郡治は宛におかれた。不軌の民を移して開拓に当たらせ,漢初中国のフロンティアを形成した。戦国のころから製鉄業で知られ,漢代にも鉄官や工官がおかれ,絹織物業も盛んで,宛は五大都市の一つに数えられる。一方,豪族による大土地所有が進み,後漢の光武帝は南陽豪族の出身であり,それらの推戴を受けた。後漢時代に襄陽郡(襄樊(じようはん))が分置され,隋代に郡を廃し,唐代に宛州,元以後は南陽府となった。
執筆者:狩野 直禎
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…春秋時代の初め本省の北部には周の王家のほか,鄭・衛・宋・陳などの諸国が発展したが,戦国時代には韓・魏・宋の領土となり,南方から進出してきた楚の勢力と対立した。秦が天下を統一すると三川・潁川・南陽・碭(とう)の諸郡がおかれ,前漢には河南・弘農・河内・潁川・汝南・沛(はい)・陳留・南陽の諸郡,梁国などがおかれた。しかし,当時まだ本省の南部は開発が十分に進まず,淮河が漢民族の南方発展の前線だったようである。…
…承兌は諱(いみな),字(あざな)は西笑(さいしよう∥せいしよう)。号は月浦または南陽。詩文を仁如集尭に学び,のち夢窓派の中華承舜の法嗣となる。…
※「南陽」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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