喪服(読み)そうふく

精選版 日本国語大辞典 「喪服」の意味・読み・例文・類語

そう‐ふく サウ‥【喪服】

〘名〙
① 喪中(もちゅう)に着る衣服。もふく。〔二十巻本和名抄(934頃)〕 〔書経‐康王之誥〕
② 忌中(きちゅう)にあること。喪に服すること。服喪。
三代実録‐貞観一三年(871)一〇月五日「天皇為祖母太皇太后喪服有疑未决」

も‐ふく【喪服】

〘名〙 喪中(もちゅう)に着る衣服。また、弔意を表わして着る礼服。もぎぬ。服衣(ぶくえ)。凶服。ふじごろも。そうふく。
※杜詩続翠抄(1439頃)四「緦麻 貴人喪服也」
※小公子(1890‐92)〈若松賤子訳〉前篇「おめしは、まっ黒な喪服(モフク)でした」

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デジタル大辞泉 「喪服」の意味・読み・例文・類語

も‐ふく【喪服】

喪中や、葬儀・法事などの際に着る黒または薄墨色の衣服。そうふく。
[類語]洋服和服ころも衣料品衣料衣服衣類着物着衣被服装束お召物衣装ドレス洋品アパレル略服ふだん着略装軽装着流しカジュアルよそゆき一張羅街着礼服式服フォーマルウエア礼装正装既製服レディーメード既製出来合い吊るしプレタポルテ注文服オーダーメード私服官服制服ユニホーム学生服軍服燕尾服セーラー服水兵服背広スーツ

そう‐ふく〔サウ‐〕【喪服】

もふく。
に服すること。服喪。「喪服の制」

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改訂新版 世界大百科事典 「喪服」の意味・わかりやすい解説

喪服 (もふく)

喪にある期間着る衣服。〈そうふく〉ともいう。死体は,それにふれ,あるいは喪家(そうけ)に出入するものをけがすばかりでなく,死者の親族にも穢れ(けがれ)が及ぶものとされた。したがって,これらのものは一定の期間,他との交渉を避け,期日後,清祓(せいふつ)を行うことなどの必要があった。ペルシアでは親族の死にあったときは,自己の家をすてて一定期間よそにとどまることになっていた。親子・兄弟・姉妹間では互いに30日,祖父母と孫との間では互いに25日,伯叔父母のためには20日とするなどである。このような穢れの思想と伴って,死者を悼み,悲しみ,哀惜のために喪に服することが行われた。

本来,喪服は喪にある期間中着用するものであったが,近年はわずかに葬送の日などに着用されるにすぎない。喪服のことを中国,朝鮮などで凶服というが,これは人生の凶事に際して着用されるからであり,これを素服(そふく)というのは,麻などの加工しない生地のままか白地の布で作ったからである。日本でも《日本書紀》などは素服の字を用いて〈あさのみそ〉とよませているが,《和名抄》によると,日本では古く喪服のことを〈不知古路毛(ふじごろも)〉といっていたことが知られる。〈ふじごろも〉というのは,古く喪服が藤葛(ふじかずら)などの繊維で織った生地のままの布で作られたからであろう。また喪服を俗に〈いろ〉ともいうのは鈍色(にびいろ)の略とする説もあるが,喪服が素または白地であるのを,そのまま〈しろ〉などと呼ぶのを忌んで,反対の〈色〉の語をもって呼んだのであると考える。

 素服の語は早く《日本書紀》仁徳天皇条に見え,天智天皇条には〈皇太子素服称制〉などとあるが,日本で喪服とともに服忌(ぶつき)の制が確立せられたのは,上述のように中国唐の制度にならって制定された〈養老令〉からである。その〈喪葬令〉に,天皇は本服2等以上の親喪のためには錫紵(しやくじよ)を着し,3等以下および諸臣の喪のためには帛衣(はくい)を除くほか,雑色(ぞうしき)を通用すと規定せられている。錫紵は浅黒色の細布で作った闕腋(けつてき)の(ほう)で,これを常の服のうえに重ねて喪服としたのである。帛衣は天皇常用の白の練絹の衣で,雑色は紫,蘇芳(すおう)などの色をいった。これより喪服の制は広く行われ,平安時代以降ようやく複雑となって,素服,諒闇(りようあん)の服,心喪(しんそう)の服など各種の喪服が用いられ,近代まで宮廷ではこの制が行われた。素服はもと素または白の喪服のことであったが,のちに広く喪服の一般呼称として用いられ,平安時代には素服といって,たとえば無文巻纓(けんえい)の冠に黒色平絹の袍と,ねずみ色あるいは鈍色平絹の表袴(うえのはかま),また,黒生絹の直衣(のうし)に練裏あるいは薄墨の(ひとえ)の指貫(さしぬき)など,さまざまな服装構成が行われ,その服色は喪に服するものの親疎によって差があり,親しい関係のものほど濃く,遠いものほど淡く染める定めであった。

 しかし素服の語は三転して,後世は白布で作った袖のない短衣をいい,これを吉服や諒闇の服の上に着て,葬儀が終わるとその場で脱ぎ捨てるものとなった。諒闇の服は天皇が父母の喪に服する期間着用する服で,天皇は錫紵を脱して闕腋の橡袍(つるばみのほう)を着し,臣下はたとえば無文巻纓の冠に鈍色平絹の直衣・指貫などを着用した。心喪の服は諒闇の服を脱して一周の間着用する服装で,橡色綾(あや)の冠に同じ橡色綾の袍と鈍色の表袴,また薄ねずみ色平絹の直衣・指貫などを着用した。心喪とは心に哀感をいだきながらも喪服を着用しない状態をいったが,後世にはこの服と諒闇の服との区別は不明となった。女子の喪服は髪は常のごとくして,白絹の唐衣(からぎぬ)に白の(うちき)・単を着て,打衣(うちぎぬ)を用いなかった。

 武家では鎌倉幕府が素服を用いたことが《吾妻鏡》に見えるが,喪服の制が定められたかどうか明らかでない。室町幕府将軍家は宮廷の制にならって素服を用いたことが知られているが,諸大名以下については不詳である。江戸時代にも幕府は喪服の制を設けなかったので,葬儀にあたり男子は麻(かみしも),長裃または鉄色にあらざる無地の熨斗目(のしめ)裃などを着用し,女子はもっぱら白無垢(しろむく)の小袖に白の帯を用いていた。明治時代になると,宮廷喪儀について,天皇の喪服は無文縄纓(じようえい)の冠・黒橡布の闕腋の袍・橡色布の表袴・黒橡布帯・縄帯,高等官衣冠は無文巻纓の冠・黒橡布の袍・鈍色布の指貫,女子の袿袴(けいこ)は同じく黒橡布の袿・柑子(こうじ)色布の袴などと規定せられたが,洋服の採用とともに西欧の制にならって,洋服の左腕,帽子,佩剣(はいけん)などに黒布をまとうことになった。また和服は都市では男子は黒紋服に袴,女子は白無垢に白の帯を用いたが,女子の白無垢・白の帯はしだいにすたれて,昭和時代に入ると男子と同じように黒紋服に黒の帯が用いられるようになり,さらに略式には黒の帯のみを用いて喪服にかえることもある。

 これに対し地方の農山漁村にはなお古風が伝えられ,喪服を〈いろ〉〈いろぎ〉〈しろぎん〉〈かたぎぬ〉〈うれいぎもの〉などと呼び,麻,木綿の素または白地の布で千早(ちはや),肩衣(かたぎぬ),小袖などを作って用いているほか,〈いろぎ〉といって白木綿1反を肩から腰に巻いたり,〈いろ〉〈しろ〉〈もんかくし〉などといって白布を肩にかけたり長く四つに折って襟にかけたりしているが,これも一種の喪服といえよう。なお,喪中・葬送の被り物も注意すべきで,49日の〈ほんいみ〉の期間中に外出する場合には〈てんとうおそれ〉などと称して,白木綿の布で必ず頭部を包むという風が行われたり,葬送に忌みがかりの男たちが〈かんむり〉〈かみえぼし〉〈しほう〉〈かみかくし〉〈みかくし〉〈まんじのぬの〉などと称して三角形の布や紙ぎれを額につけたり,白布で鉢巻したり,〈きちゅうがさ〉などといってイ(藺)の編笠(あみがさ)をかぶることが各地で行われてきた。

 また,女たちが〈いろがみ〉〈うれいがみ〉〈忌中島田(きちゆうしまだ)〉〈忌中髷(きちゆうまげ)〉などといって特殊な形の髷(まげ)を結ったり,〈かつぎ〉〈いろかつぎ〉〈いのかぶり〉〈かぶりかたびら〉などといって麻の帷子(かたびら)や白薄絹の被衣(かずき)や白無垢の小袖で頭から身体をおおったり,〈そでかぶり〉などといってそれらの左袖を頭にかぶったり,また〈わたぼうし〉〈かぶり〉〈いろ〉などと称して白の綿帽子や袖形の布や手ぬぐいなどをかぶって葬列に加わることも広く各地に認められていた。喪服は喪の観念の変化に伴って変遷してきた。古くは死の穢れをもつ人々が素または白の喪服をまとうて忌みごもりしたので,除服も河原に出て行うのを常としたが,平安時代以降は死者を悼み悲しむために華美な服飾を去って,黒または薄墨色の服飾をまとって哀惜の情をあらわすものとなった。
執筆者:

英語では,モーニング・ドレスmourning dressという。喪に際して黒い色の衣服を身に着けるようになったのは比較的新しい。古代エジプトでは黄色であったし,古代ローマでは暗青色だったが,女性は白を用いた。中部・東ヨーロッパでは農民の喪服は伝統的に白であった。宮廷ではじめて白い喪服を着たのは16世紀,夫フランソア2世を亡くしたときの18歳のメアリー・スチュアートであった。またフランスのブルターニュ地方の農民の未亡人は黄色い帽子をかぶっていた。キリスト教の枢機卿や司祭たちは死者のミサのときには黒い衣服ときめられていた。中世以来頭巾やベールも用いられた。14世紀には深く頭部を包むウィーパーweeperと呼ぶ頭巾があった。16世紀には未亡人はバルブbarbeと呼ぶ,顎の下をおおう布とベールをかぶった。バルブは白麻で作られたひだの多いよだれかけ状のもので,のちに尼僧の衣服に用いられた。また17世紀から19世紀にはピークpeakと呼ぶ前額部が三角形になった黒いベールをかぶった。17世紀の身分ある人々の間では喪の際に寝巻からシーツ,カバーも黒とし,ベッドまでも黒く塗り,これらは他人との間で貸し借りも行われたという。19世紀には喪服用の黒いクレープやサージ,カシミアなどが作られ,喪服を着る期間や種類が定まった。男女とも衣服の色は黒となり,喪が明けかかると紫や,夏には白が用いられた。男性が腕に巻く黒い喪章は19世紀に,それまでの帽子や手首に巻いたリボンが変化して生まれた。現在では喪の意味は薄れてきているが,夫を亡くした妻が生涯喪服を着る例は,ギリシアの黒っぽい衣服や,インドの白いサリーのように一部に残されている。なお,日本で現在行われている喪服については〈礼装〉の項の表を参照されたい。
執筆者:

喪中に着る麻製の衣服で,死者との遠近親疎により次の5等の差があって〈五服〉といい,それぞれ喪に服する期間の差が定められている。この五服は従って衣服の制度であるが,同時に親族関係を示す指標として広く用いられる。傍系親の間では喪服は親等に代わる機能をもつが,世数親等制とは原理が異なる。(1)〈斬衰(ざんさい)〉は3年の喪に用い,粗い麻布で上衣(衰)の下辺を裁ち切ったまま縫いとらない。(2)〈斉衰(しさい)〉は裁ち口を縫いとる。3年,1年(〈期〉といい,杖期・不杖期といって哀しみを表す杖を持つか持たないかの差がある),5ヵ月,3ヵ月の差がある。斉衰の喪の期間は時代によって変遷があるが,重要なのは期であって〈期親〉といえば期の間柄にある親族である。(3)〈大功(たいこう)〉はおおまかに加工した意で9ヵ月の喪に用い,(4)〈小功(しようこう)〉はやや細かく加工した意で5ヵ月の喪に用いる。(5)〈緦麻(しま)〉は細い布で縫製し,3ヵ月の喪に用いる。その他緦麻より一段遠い関係に〈袒免(たんもん)〉があり,五服外であるが一定の効果をもっている。大功親,小功親,緦麻親,袒免親などと呼んで親族関係を示すのは期親の場合と同じである。

 律は五服に従って同じ行為でも与えられる刑罰をこと細かに区別する構造をもっている。〈妻が夫の期親以下緦麻以上の尊長を殴・詈すれば,夫が同じ行為をした場合より一等を減ずる〉(唐・闘訟律)といった例は,夫の宗の親族に対する喪服につき,妻は夫より一等減ぜられた喪に服することからきている。また,〈緦麻の兄姉を殴すれば杖一百,小功・大功(の兄姉を殴す)ならば各各一等を加え,尊属ならば又一等を加える〉(同上)というのは同じ殴るという行為でも,服が重いほど刑罰が加重されている一例で,このような例は枚挙にいとまがない。だれがどの喪に服するかは〈親族名称〉の項に掲げた図を参照されたい。五服の体系は,要するに宗族の秩序の体系を遺憾なく示しているものである。
執筆者:

喪服 (そうふく)
sāng fú

喪服(もふく)

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「喪服」の意味・わかりやすい解説

喪服
もふく

死者を弔い、哀悼を表すために着る礼服。凶服ともいう。古くは一定の期間、喪に服するときにつけた衣服をいった。藤衣(ふじごろも)(藤、葛(かずら)の繊維で織った質素な衣服)、いろ(喪服の鈍色(にびいろ)のこと)、墨染めの衣(ねずみ色の喪服)、素服(そふく)(麻(あさ)の御衣(みそ))などという表現もある。今日では親族、友人、知人の葬式、告別式、通夜(つや)、埋葬、年忌の法事などに着る服をいう。

[岡野和子]

和装

男子の和装は吉服と同じで、黒羽二重(はぶたえ)、染抜き五つ紋付、羽織に袴(はかま)をつける。女子の和装は黒羽二重、縮緬(ちりめん)の五つ紋付とし、夏は平絽(ひらろ)を着る。本来は白の下着を重ねるが、近年はこれを略すことが多い。帯は黒羽二重、繻子(しゅす)、紋織、夏は平絽、絽綴(つづれ)とし、柄物(がらもの)の場合は吉祥(きちじょう)文様などを避ける。また金、銀泥(でい)や、白抜きで、「夢」の字や経文を表したものなどが用いられる。長襦袢(じゅばん)は白羽二重、綸子(りんず)で、夏用には白平絽か麻を用い、白塩瀬、羽二重の半衿(はんえり)をかける。帯締は黒羽二重の丸裄(ぐけ)、帯揚は黒羽二重、綸子が正式で、白足袋(たび)を履く。草履(ぞうり)、バッグは黒布製とし、革製を用いるときは、光沢のないものを選ぶ。

 通夜、年忌などの際の準礼装には、寒色系の色無地一つ紋または三つ紋を用い、その他は正装と同様にする。

 喪服の制度は奈良時代『養老律令(ようろうりつりょう)』からみられ、『和名抄(わみょうしょう)』には「不知古路毛(ふじごろも) 喪服也」とある。平安時代には、黒平絹の袍(ほう)と鈍色平絹の表袴(うえのはかま)が用いられたが、近親者は濃い黒を、遠縁の場合は薄墨を着る。のちに武家はこれに準じ、江戸時代には男は麻裃(かみしも)、女は白無垢(むく)を用いた。明治以後、天皇の喪服は黒椽闕腋(つるばみけってき)の袍(ほう)と定められた。男は明治の末まで、近親者の喪服は白の長着に水色の裃をつけた。また地方によっては、紋服の上に白地の肩衣(かたぎぬ)をつけたり、千早(ちはや)を用いることもあった。女は明治から昭和の初めまで、喪主や近親者は白羽二重の無垢に、白か水色の羽二重、繻子、紋織の帯を締め、白の長襦袢に白半衿、白丸裄の帯締、白帯揚の白装束であった。

[岡野和子]

洋装

喪中の人または弔問者が死者を哀悼して着る黒い衣服、モーニング・ドレスmourning dressともいう。

 かつて喪服は、近親者が喪中に着た衣服をさし、ディープ・モーニング(本喪服)、ハーフ・モーニング(半喪服)などとよばれた。喪の期間は、ときに3年以上という長いものもあったが、通常死後6か月から1年までである。近年はこの習慣が廃れて、喪服といえば、葬儀や告別式、法要や通夜などに着る儀式用の礼服をさすようになった。

 喪の色は、時代、民族、宗教によって異なるが、黒、灰色、白、モーブ(藤色)、濃紺などがある。「白喪の女王」の名が示すように、白はかつての王侯の喪の色であった。黒ビロードのローブを着て白いベールをかぶったイギリスのメアリー・スチュアートの肖像も残されている。また白はフランスのプロバンス地方やイタリアでも喪の色であった。

 かつての典型的なモーニング・ドレスは、通常光らない黒い布地でつくられ、ときにネックラインに白いクレープを用いる以外は、靴、靴下、手袋、ベールなどアクセサリーも黒っぽい色をつけていた。モーニング・ベールは服喪中に顔を覆う薄地の黒いベールで、正式には黒の紗(しゃ)の縁どりのある黒地のニノン(張りのあるオーガンジーのような絹)を、黒や灰色のモーニング・ピンで頭に留めていた。縁どりの幅は近親者ほど太く、遠いほど細くなる。これは17世紀以後に始まった習慣であるが、略式になると、目の細かいチュールで髪の部分だけを覆う小さめのベール(ベール・ハット)が用いられていた。フランスでは19世紀末期から、白い縁どりのついた小さな丸いボンネットに長いベールをつけた「未亡人の帽子(ボネ)」とよばれるものをかぶり、略式には灰色やモーブのベールがあった。第一次世界大戦時には、喪服がモードにさえなった。一部の女性が、休暇で帰還している兵士を愛人とするため、あるいは夫をみつけるために、後家のような服装をしたのである。しかし大戦後、経済的な理由からこの習慣はしだいに廃れていき、簡単なモーニング・バンドや喪章が考案された。現在、女性は、光らない黒の素材のワンピースかスーツ、あるいはアンサンブル、男性は、黒のスーツに黒のネクタイが代表的な喪の装いになっている。

[平野裕子]


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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「喪服」の意味・わかりやすい解説

喪服
もふく

喪中に着る服,特にその行事に際して着る儀礼服の総称。型は通常各時代の礼装に準ずるが,概して包被的で裸出部が少いことと,宗教儀礼に直結しているところから最も保守性が強く,変化しにくいのが特色。たとえば日本の一部地方では,最近まで近世の (かみしも) や被衣 (かつぎ) が喪の正装として着用されていたなどがこの例である。色は世界的に共通して黒や薄墨,白が用いられ,西欧では 16世紀の宮廷での白の着用を除けば,中世中期から一貫して黒が用いられている。洋装では男性はモーニングや略礼服に手袋と腕章を,また女性は黒のスーツやワンピースに喪の腕章,手袋,ベールをつけることが多く,和装では男性は黒の紋付に羽織袴,女性の場合も黒紋付が一般的である。

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百科事典マイペディア 「喪服」の意味・わかりやすい解説

喪服【もふく】

死者の近親者が喪にある期間着用する衣服。近年は葬式や供養の日だけ着用する。古くは白布か,フジづるなどの繊維で織った生地のままの布で作ったが,平安期以後黒か薄墨色を用いるようになった。現在は洋服の場合は左腕や帽子に黒布を巻き,和服の場合は男子は黒紋服に袴(はかま),女子は黒紋服に黒の帯を用いる。地方ではなお古風が残り,麻や木綿の白布で肩衣(かたぎぬ)や小袖(こそで)を作って用いたり,白布を肩や衿(えり)にかけたりする。また男たちが三角形の布や紙を額につけたり,忌中笠という編笠をかぶり,女たちが白の被衣(かつぎ)や小袖を頭からかぶったり,それらの左袖や袖形の布をかぶることもある。

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とっさの日本語便利帳 「喪服」の解説

喪服

喪は、近親者が死者を悼む行為であるから、喪服の着用は本来は近親者に限られている。しかし、近年は一般の弔問者までが喪服を着用するようになったが、本来の趣旨からすればこれはおかしい。また、通夜には普段着のままで出るのが正しい。通夜をするのは、まだ死んでいないかどうかを確かめるためであるから、通夜に喪服を着てはいけない。そんなことをすれば、まるで死ぬのを待っていたかのように誤解されても仕方がなさそうだ。また喪章は、世話役の人がつけるものであるから、一般の弔問者は数珠を持つ方がよい。

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普及版 字通 「喪服」の読み・字形・画数・意味

【喪服】そうふく

喪の服。

字通「喪」の項目を見る

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世界大百科事典(旧版)内の喪服の言及

【中国法】より

…子孫は父母,祖父母に対して絶対に服従すべきことを求めるのが唐律の精神であり,単にその利益を侵害するのを許さないばかりでなく,形式的な孝行の義務を尽くすことをも命じる。父母が死亡したときは3年間喪に服し,謹慎して生活せねばならず,もしその間に喪服(そうふく)を去って吉事に従い,または音楽を楽しむようなことがあれば徒三年の刑に処せられる。もし喪服のままで吉事に参預しただけでも杖一百である。…

【喪服】より

…このような穢れの思想と伴って,死者を悼み,悲しみ,哀惜のために喪に服することが行われた。
[日本]
 本来,喪服は喪にある期間中着用するものであったが,近年はわずかに葬送の日などに着用されるにすぎない。喪服のことを中国,朝鮮などで凶服というが,これは人生の凶事に際して着用されるからであり,これを素服(そふく)というのは,麻などの加工しない生地のままか白地の布で作ったからである。…

【服制】より


【中国】
 中国では,広義には服装全般にわたる規定をいうが,ひと口に服装といっても,腰から上の着物である〈衣〉,腰から下の〈裳(しよう)〉(男女共用のスカート状のもの,したばかま)のみならず,〈冕(べん)〉(かんむり),帯,履物,装飾品など,要するに身につけるいっさいのものにおよぶ。狭義には喪服(もふく)および服喪に関する規定をいう。いずれにせよ,中国において服装は〈〉体系のなかに組み込まれ,その一翼をになうものであって,実用性にとどまらずシンボリックな意味を付与されていた。…

【藤布】より

…木綿の伝わる中世末期までは植物性繊維として,アサ(麻)についで栲(たえ)などとともに庶民の間には広く行われていたと思われる。藤衣(ふじごろも)というのが公家(くげ)の服飾の中で喪服として用いられたが,これはもともと粗末なものを用いることをたてまえとする喪服が,庶民の衣服材料である麻布や藤布で作られたため,このように称したのであろう。近代には藤布はござの縁布として織られた。…

【喪】より

… 喪中の禁忌(タブー)には死者の出た地縁的共同体(集落)全体にかかわるものもあるが,一般的には死者の配偶者およびごく近い血縁者がより厳格な禁忌を遵守する義務を負うものとされている。喪の慣習のなかで最も頻繁にみられることは,こうした強い禁忌を守る者を喪服や喪章などによってしるしづけ,彼らを社会の他の者から隔離することである。たとえば,西ボルネオに住むイバン族のあいだでは,人の死後ほぼ1ヵ月間集落の全員が歌舞音曲をつつしみ,装飾品を身に付けることをやめるが,この禁忌が解除されたあとも,死者の配偶者(男女とも)は身を美しく装ってはならず,また異性と親しく話してはならない。…

※「喪服」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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