国体明徴問題(読み)コクタイメイチョウモンダイ

デジタル大辞泉 「国体明徴問題」の意味・読み・例文・類語

こくたいめいちょう‐もんだい【国体明徴問題】

昭和10年(1935)国会議員や軍部・右翼美濃部達吉天皇機関説国体に反するとして攻撃した事件政府美濃部の著書3冊を発禁にし、国体明徴声明を出した。

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改訂新版 世界大百科事典 「国体明徴問題」の意味・わかりやすい解説

国体明徴問題 (こくたいめいちょうもんだい)

幕末以来,記紀神話を基礎としながら,日本国の特色は万世一系の天皇をいただく神国である点にあると主張する国体論が起こってきたが,それをうけた明治以後の国体論は二つの方向で展開された。第1は,1890年の教育勅語が,忠孝の道を〈国体の精華〉としたように,天皇崇拝を国民道徳の根幹にすえようとする方向であり,第2は,国体を統治権の所在によって分類し,大日本帝国憲法は天皇を絶対とし統治の全権が天皇にあると規定している,という憲法解釈を軸とするものであった。こうした形で明治期に形成された国体論は,第1次大戦後から新たな展開を始める。すなわち,この国体論の第2の方向は共産主義運動を弾圧するための治安維持法(1925)のなかに,〈国体の変革〉という新たな罪を登場させているが,これに対して第1の方向は,社会秩序の混乱を国体意識の強化によって克服しようという動きを始めた。1923年の〈国民精神作興詔書〉をうけて開始された全国的教化運動は,すでに最初から,〈国体観念を明徴にする〉というスローガンを掲げていた。こうした二つの方向は,満州事変以後の戦時体制化の過程で,合体しながら攻撃的性格を強め,35年には,憲法解釈としての天皇機関説排撃を突破口として,個人主義自由主義をも反国体的なものとして否定しようとする国体明徴運動をひき起こすこととなった。まず35年2月の第67議会で貴族院菊池武夫が美濃部達吉(当時東京帝大教授,貴族院議員)の学説をとりあげ,統治権の主体を国家とし,天皇をその国家の最高機関とする天皇機関説は,天皇の絶対性を否定し,天皇の統治権を制限しようとする反国体的なものだ,として攻撃を開始,これに呼応して院外でも軍部の支持のもとに在郷軍人会や右翼団体などの運動が全国的に展開されることとなった。岡田啓介内閣もこれに屈して,4月9日には《憲法撮要》など美濃部の3著書を発売禁止処分とし,さらに8月3日には第1次,10月15日には第2次の国体明徴声明を発して,天皇機関説を国体に反するものと断定,この学説の排除を決定した。国体明徴運動はこれによって終息したが,政府はさらに11月,文相を会長とする教学刷新評議会を設置,その答申に基づいて,37年5月,文部省は《国体の本義》を刊行した。同書は自由主義,民主主義の基礎としての個人主義を排撃し,日本は皇室を宗家とする〈一大家族国家〉であるとして,天皇に〈絶対随順〉〈没我帰一〉すること,おのおのの分を守りながら和を実現していくことが,日本国民のあるべき姿だと説いているが,〈国体明徴〉とは結局,このようなイデオロギーを国民に強制していくことにほかならなかった。
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百科事典マイペディア 「国体明徴問題」の意味・わかりやすい解説

国体明徴問題【こくたいめいちょうもんだい】

軍部,右翼が天皇機関説を排撃してひき起こした政治問題。1935年2月貴族院で美濃部達吉の天皇機関説が非難され,さらに不敬罪として告発され貴・衆両議院有志が攻撃を開始。軍部,右翼のほか,政友会も倒閣のためこれに同調,4月,岡田啓介内閣は美濃部の著書を発禁にし,国体明徴を8月,10月の2度にわたって声明した。美濃部は9月貴族院議員を辞任。以後言論統制が強化。政府はさらに11月教学刷新評議会を設置,同会答申に基づき1937年に刊行された《国体の本義》では自由主義・民主主義の基礎としての個人主義を排撃,日本を皇室を宗家とする〈一大家族国家〉であると規定した。
→関連項目国体

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「国体明徴問題」の解説

国体明徴問題
こくたいめいちょうもんだい

美濃部達吉の憲法解釈が反国体的であると非難されたことに始まる一連の政治問題。原理日本社など国家主義団体や在郷軍人会の攻撃が,政友会の岡田内閣倒閣運動と結びついて政治問題化し,議会主義勢力や軍部内穏健派などの後退をもたらした。1935年(昭和10)2月18日貴族院で菊池武夫が,美濃部の天皇機関説への政府の処置を質したのに端を発し,政友会・在郷軍人会・民間右翼も政府に対応を迫った。3月23日衆議院も国体明徴決議案を可決。政府はしだいに譲歩し,8月3日,10月15日の2回にわたる国体明徴声明で天皇機関説を否定し,事態の沈静化を図った。事件の裏に皇道派の暗躍をみた林銑十郎陸相は,同年7月真崎甚三郎教育総監を更迭して,永田鉄山軍務局長暗殺事件(相沢事件)をひきおこし,さらに2・26事件の遠因ともなった。

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旺文社日本史事典 三訂版 「国体明徴問題」の解説

国体明徴問題
こくたいめいちょうもんだい

1935(昭和10)年,美濃部達吉の天皇機関説をめぐる政治問題
天皇機関説は国体の本義と相いれない反逆思想であるとして貴族院で問題化。軍部・右翼・立憲政友会は美濃部の理路整然たる弁明を理解せず,かえって憤激し,岡田啓介内閣の対処を迫り,政府は美濃部の著書の発禁と2度にわたる「国体明徴声明」を行った。この事件を契機に思想統制はいっそう激しくなった。

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