土屋又三郎(読み)つちや・またさぶろう

朝日日本歴史人物事典 「土屋又三郎」の解説

土屋又三郎

没年享保4.1(1719)
生年:生年不詳
江戸前期の勧農家,和算・測量術の巧者。加賀国石川郡御供田村(金沢市神田)の十村役(大庄屋役)の家に生まれる。諱 は義休,字を時英,剃髪して直心,野衲と号した。寛文4(1664)年父勘四郎義正が何者かに斬殺され,その跡目を継いで十村役に就く。元禄7(1694)年改作奉行園田左十郎が何かの罪に問われ,それに連座してか,投獄される。獄禁1年余で放免,十村役は罷免,平百姓に格下げとなり,ほどなく剃髪して隠居。この逆境下で農書や地誌などの著述に励む。主著耕稼春秋』全7巻(1707)は宮崎安貞の『農業全書』を手本にして元禄期前後の加賀地方の農業を論じ,江戸時代を代表する一農書とされ,宮永正運の『私家農業談』と共に江戸中期以降の北陸農業の指針となる。また和算・町見術(測量術)を身につけていた又三郎は地誌『加越能大路水経』1冊(1714)を著し,のちにその内容は大沢君山編『重修加越能大路水経』3冊(1736),さらに石黒信由編『増補加越能大路水経』6冊(1835)などに受け継がれて逐次詳細な地誌となった。享年は78歳ぐらいともいう。<著作>『加越能三州改作之初物語』『金城隆盛私記』<参考文献>岡光夫・堀尾尚志「『耕稼春秋』解題1,2」(『日本農書全集』4巻)

(葉山禎作)

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「土屋又三郎」の意味・わかりやすい解説

土屋又三郎
つちやまたさぶろう
(?―1719)

加賀藩の十村(とむら)(大庄屋(おおじょうや))、農政家。諱(いみな)は義休、字(あざな)は時英、又三郎は通称。加賀国(石川県)名川郡御供田(ごくでん)村の農民勘四郎の子。無組(むくみ)御扶持人(おふちにん)十村として前田利常(としつね)の改作法推進に協力しながら非業の死を遂げた父の後を受けて十村に任ぜられたが、1694年(元禄7)改作奉行(ぶぎょう)園田左十郎の罪に座してその職を奪われた。以後著述に専念、1705年(宝永2)『金城盛衰記』、07年『耕稼(こうか)春秋』、14年(正徳4)『加越能大路水経(たいろすいけい)』を著した。『耕稼春秋』七巻はとくに著名で、当時における北陸の農業事情を細大もらさず網羅し、藩政期を通じて十村必見の書として珍重され、室鳩巣(むろきゅうそう)が序を贈って激賞している。

[坂井誠一]

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「土屋又三郎」の解説

土屋又三郎 つちや-またさぶろう

1642?-1719 江戸時代前期-中期の農政家。
寛永19年?生まれ。加賀金沢藩領の十村(とむら)役(大庄屋)。元禄(げんろく)7年十村役を免じられて剃髪(ていはつ)。宝永4年北陸の農業事情をまとめた「耕稼春秋」をあらわす。享保(きょうほう)4年1月死去。78歳? 名は義休。字(あざな)は時英。号は直心,野衲。著作ほかに「加越能大路水経」「金城隆盛私記」など。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

世界大百科事典(旧版)内の土屋又三郎の言及

【耕稼春秋】より

…江戸時代の農書。加賀国石川郡御供田(ごくでん)の大庄屋土屋又三郎が,上司の罪に連座投獄され,地位を剝奪された逆境下でのこした遺著で,1707年(宝永4)ごろ成立した。《農業全書》を手本に,加賀地方独自の話題をくわえ,年中行事・作物栽培・土地利用・肥料・水利・農具など広範囲にわたる全7巻の大著で,とくに各種作物の組合せによる輪作や,自然風景にもとづく天候予測などに独創的見解がみられる。…

※「土屋又三郎」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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