大八車(読み)ダイハチグルマ

デジタル大辞泉 「大八車」の意味・読み・例文・類語

だいはち‐ぐるま【大八車】

荷物運搬用の二輪車で、二、三人でひく大型のもの。八人の代わりをする車の意からとも、大津八町の約で、その地に昔からあったからともいう。

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改訂新版 世界大百科事典 「大八車」の意味・わかりやすい解説

大八車 (だいはちぐるま)

江戸を中心に発達した荷物運送用の二輪車。大八なる人物がつくったといい,また8人の力に代わる意の代八車から転じたなどという。円板車輪に板張り車台の〈べか車〉に対して,これは羽7枚,矢21本の車輪と簀子(すのこ)張りの車台で,前方に楫(かじ)があり,引手2~3人,後押し1~2人で引いた。1815年(文化12)の芝車町名主の書上によれば,明暦の大火(1657)後江戸市中に普請多く,そのため木挽町辺に居住牛車大工が初めて製造して以来流行し,現在では京,大坂その他諸国城下町でも使用されるようになったという。大八車の発達は馬や牛車の荷を奪うことになり,江戸伝馬町に役勤めする馬持ちを困窮させた。1700-03年(元禄13-16)には,伝馬町助成のために大八車に伝馬町で極印を押し極印賃を徴することが行われた。1701年には車数2239両,極印賃銀26貫868匁であった。27年(享保12)には浅草,三河島などの馬持ちが馬荷物と車荷物の荷分けを願い出たが許可されなかった。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「大八車」の意味・わかりやすい解説

大八車
だいはちぐるま

人力によって荷物を運搬する二輪車で、羽根7枚と矢による車輪と簀子(すのこ)張りの車台で出来ている。1~2人で引き、後押しに2人程ついた。1657年(明暦3)の江戸大火後、建築資材を運ぶため牛車大工八左衛門が発明した説、人間8人分の働きをするため代八(だいはち)と称した説、車台の長さ1丈・9尺・8尺・7尺・6尺のものを大十・大九・大八・大七・大六車と呼ぶところから付けた説など名称の由来がある。大坂では大八車は使用されず、円板車輪に板張り車台のべか車が利用された。大八車は牛車、牛馬背による運搬に比較して飼料代がかからず、車引代も安価なため急速に台数を増やしたため、江戸伝馬町に勤務する馬持ちの荷物を奪うことになり、伝馬町助成として1700(元禄13)~1703年、大八車に伝馬町で極印(ごくいん)を押し極印銀を徴収した。車数2239両、極印銀26貫868匁であった。大八車による事故多発のため殺傷の場合は流罪であるという法令が出ている。

[熊井 保]

『児玉幸多編『近世交通史料集』8・9(1978~1979・吉川弘文館)』『神社司庁他編『古事類苑第32 器用部2』復刻版(1979・吉川弘文館)』『熊井保著「江戸の牛」(東京都編『都史紀要32』)』


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山川 日本史小辞典 改訂新版 「大八車」の解説

大八車
だいはちぐるま

江戸時代以降,おもに江戸や関東の城下町で使用された荷車一種。大坂では大八車は使用されず,べか車が用いられた。車名の由来は諸説あるが,車台の長さ8尺にもとづくとするのが最も合理的。1657年(明暦3)の江戸の大火のあとの諸普請に際し,牛車大工が考案したとされ,当初は牛も引いたが,やがて人のみが引くようになった。江戸後期には城下町以外にも普及した。

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世界大百科事典(旧版)内の大八車の言及

【車】より

…明治に入ると新しく乗用の人力車も登場し,荷車は全国に普及するが,それでも東京・大阪周辺に最も早く,多く存在した。近世には江戸の大八車と大坂のべか車が著名である。 大八車は車台の長さ8尺,幅2尺5寸で,台の長さによって大七,大六などという名もあった。…

※「大八車」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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