大谷吉継(読み)おおたによしつぐ

精選版 日本国語大辞典 「大谷吉継」の意味・読み・例文・類語

おおたに‐よしつぐ【大谷吉継】

安土桃山時代大名。刑部少輔。秀吉に仕え、越前敦賀五万石を領する。文祿・慶長の役に出陣関ケ原では石田三成に味方して戦死。永祿二~慶長五年(一五五九‐一六〇〇

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朝日日本歴史人物事典 「大谷吉継」の解説

大谷吉継

没年:慶長5.9.15(1600.10.21)
生年:永禄2(1559)
安土桃山時代の武将。豊後の戦国大名大友宗麟の家臣大谷盛治の子といわれているが,近江の出身とする説もある。通称紀之介。刑部と称し,名は吉隆ともいった。いつから豊臣秀吉に仕えるようになったかは不明で,はじめ小姓として秀吉の信任を受けたといわれている。天正11(1583)年の賤ケ岳の戦では七本槍に次ぐ戦功をたて,同13年従五位下・刑部少輔に叙任されている。しかし武功派タイプではなく吏僚派タイプで,九州攻めには石田三成と共に兵站奉行を務め,のち,やはり三成らと検地奉行などを務めた。三成とは特に仲がよく,これが後年の伏線となっている。同17年,越前敦賀城主となり,5万石の大名となった。その後,小田原攻めとそれに続く奥羽の平定にも力を発揮し,また,文禄の役には石田三成と共に船奉行を務めた。さらに督戦の奉行として渡海し,明軍との和平交渉にも当たっている。秀吉死後,徳川家康の天下統一事業に協力する姿勢を示し,慶長5(1600)年7月には家康の会津攻めに従うため敦賀を発ち,途中使者を佐和山城の石田三成に遣わし,三成の子重家の同道を求めたが,三成はかえって吉継を佐和山城に招き,はじめて家康を討つ意思を伝えている。吉継は思いとどまるよう説得したが,三成の意思の固いことを知り,長年の友誼から行動を共にすることを決意し,そのまま兵を敦賀にもどし,家康方の前田利長軍と戦ってこれを破った。家康が下野小山で三成らの挙兵を知り,会津攻めを中止して西上すると知った吉継は,敦賀から関ケ原に向かい,かねてから疑いを抱いていた小早川秀秋に備えるため松尾山の北麓藤川台に自ら布陣している。9月15日の戦闘のとき,一度は東軍藤堂高虎,京極高知らの攻撃を退けたが,東軍に内応した小早川秀秋軍に攻められ,奮闘の末,自刃して果てた。病のため陣中でも面体を包んだと伝えられ,「関ケ原合戦図屏風」にも頭を白い頭巾でつつんだ姿で描かれている。

(小和田哲男)

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「大谷吉継」の意味・わかりやすい解説

大谷吉継
おおたによしつぐ
(?―1600)

安土(あづち)桃山時代の武将。刑部少輔(ぎょうぶしょうゆう)。母は北政所(きたのまんどころ)の侍女。紀之介(きのすけ)といった早いころから豊臣(とよとみ)秀吉に近侍。賤ヶ岳(しずがたけ)合戦では七本鎗(やり)に匹敵する手柄をたてた。秀吉の信任厚く奉行(ぶぎょう)にもなり、1589年(天正17)に越前(えちぜん)(福井県)敦賀(つるが)5万石をあてがわれた。文禄(ぶんろく)・慶長(けいちょう)の役では石田三成(みつなり)らと軍監を務めた。関ヶ原の戦いでは、徳川家康の会津(あいづ)攻めに従うつもりで、敦賀から美濃(みの)(岐阜県)の垂井(たるい)まできたが、親友の石田三成に懇請され、敗戦覚悟で西軍に加わった。終始よく戦ったが、寝返りをした小早川秀秋(こばやかわひであき)の大兵に側背から攻撃を受け、奮戦のすえ陣没した。ハンセン病で目が見えず、駕籠(かご)に乗って戦闘を指揮したと伝える。

[岡本良一]

『二木謙一著『関ヶ原合戦』(中公新書)』

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改訂新版 世界大百科事典 「大谷吉継」の意味・わかりやすい解説

大谷吉継 (おおたによしつぐ)
生没年:1559-1600(永禄2-慶長5)

安土桃山時代の武将。はじめ紀之介と称する。豊臣秀吉に近侍し,賤ヶ岳,九州,小田原の戦に参加して軍功をあげ,陸奥地方の検地奉行,文禄の役での軍事監督等,軍事・行政両面において豊臣政権の中枢として活躍した。1585年(天正13)従五位下刑部少輔に叙任。89年越前敦賀5万石を領した。関ヶ原の戦では西軍に属し,東軍に内応した小早川秀秋に背後をつかれ戦死した。
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山川 日本史小辞典 改訂新版 「大谷吉継」の解説

大谷吉継
おおたによしつぐ

1559~1600.9.15

織豊期の武将。父は大友宗麟(そうりん)の臣大谷盛治といわれる。紀之介。刑部少輔。豊臣秀吉に近侍し,1583年(天正11)賤ケ岳(しずがたけ)の戦に加わり,87年九州攻めで兵站を調え,89年越前国敦賀5万石を得た。小田原攻め,奥州平定に従い,出羽検地を担当した。92年(文禄元)の朝鮮出兵には名護屋(なごや)船奉行,ついで三奉行として漢城(現,ソウル)に入り,翌年晋州攻撃ののち帰国。1600年(慶長5)西軍に与し,関ケ原で戦死した。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「大谷吉継」の解説

大谷吉継 おおたに-よしつぐ

1559-1600 織豊時代の武将。
永禄(えいろく)2年生まれ。豊臣秀吉につかえ,天正(てんしょう)17年越前(えちぜん)(福井県)敦賀(つるが)城主(5万石)となる。朝鮮出兵の文禄(ぶんろく)の役では,石田三成らと船奉行,督戦奉行をつとめ,のち明(みん)(中国)との交渉にあたる。関ケ原の戦いでは西軍に属し,慶長5年9月15日敗れて自刃(じじん)。42歳。通称は刑部(ぎょうぶ),紀之介。名は別に吉隆。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「大谷吉継」の意味・わかりやすい解説

大谷吉継
おおたによしつぐ

[生]永禄2(1559)
[没]慶長5(1600).9.15. 関ヶ原
安土桃山時代の大名。刑部少輔。初め紀之介と称した。豊臣秀吉の小姓として信任を得,奉行となって,越前敦賀で5万石を領した。朝鮮の役に石田三成らとともに参加。秀吉没後,慶長5 (1600) 年関ヶ原の戦いで,西軍石田方として戦死。

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世界大百科事典(旧版)内の大谷吉継の言及

【出羽国】より

…この一揆は庄内と仙北郡に起こった。庄内の検地は大谷吉継と上杉景勝によって行われたが,検地に反対する一揆勢は一時庄内の諸城を占領し,尾浦城も包囲される勢いであった。一揆の中核は武藤氏に仕えた地侍であったが,やがて上杉方に鎮圧されて庄内の武藤氏は滅び,庄内は上杉氏の所領となった。…

※「大谷吉継」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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