奴婢(読み)ぬひ

精選版 日本国語大辞典 「奴婢」の意味・読み・例文・類語

ぬ‐ひ【奴婢】

〘名〙 (古くは「ぬび」とも)
① 令制における賤民。人格を認められず、財産として、売買、譲渡、寄進の対象となった。奴は男、婢は女をさし、所有者が国家であれば官奴婢、私人であれば私奴婢と称される。令制に定める五種の賤民(官戸・陵戸・家人・公奴婢・私奴婢)のうちの最下級のもの。やつこ。やつがれ。
※続日本紀‐文武二年(698)七月乙丑「以公私奴婢亡匿民間、或有容止肯顕告」 〔新唐書‐張志和伝〕
② 家に隷属して雑仕事に召使われる男女。
方丈記(1212)「只わが身を奴婢とするにはしかず」

ど‐ひ【奴婢】

〘名〙 召使いの男女。下男と下女。ぬひ。〔広益熟字典(1874)〕

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デジタル大辞泉 「奴婢」の意味・読み・例文・類語

ど‐ひ【奴×婢】

召使いの男女。下男と下女。ぬひ。
[類語]下働き下男下女召し使い奴隷男衆下僕忠僕老僕爺や飯炊き権助風呂焚き三助女子衆下婢端女はしため小間使い

ぬ‐ひ【×婢】

《古くは「ぬび」》
召使いの男女。下男と下女。
律令制における賤民せんみんの一。奴は男子、婢は女子のこと。官が所有する公奴婢くぬひと私人が所有する私奴婢とがある。

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改訂新版 世界大百科事典 「奴婢」の意味・わかりやすい解説

奴婢 (ぬひ)

古代の賤民。男性を奴(やつこ),女性を婢(めやつこ)と称する。律令制以前には奴隷的な賤民を一括して奴婢と称したが,大宝令(戸令)では,私有奴婢は私奴婢と家人(けにん)(家族を成し家業を有し売買されない上級賤民)に,官有奴婢は官奴婢(公奴婢とも)と官戸かんこ)(家人とほぼ同じ身分)に分化した。奴婢は所有者により資財と同じに物として扱われ,相続・贈与や売買・質入れの対象とされた。また牛馬と同様に生益の子(出生によって増加した子)は所有者の所有となり,また所有者を異にする奴婢の間の生益の子は,母である婢の所有者の所有となった。また奴婢に罪があれば所有者は届け出て殺すこともできた。そして,奴婢と官戸・家人は氏姓をもたなかった。奴婢は官戸・家人と同じく課役を賦課されなかったが,口分田は,官奴婢が官戸とともに良民(公民)と同額,私奴婢が家人とともに良民の3分の1の面積を給された。放(ゆる)された場合に,官奴婢は官戸に,私奴婢は家人に身分を上げられると戸令に規定されていたが,実際の例では直ちに良民とされる場合が多かった。陵戸を除く賤民の中で官戸・家人はごく少数で,大多数は奴婢であり,奴婢は不完全ながら家族的結合を成す場合が多かった。

 官奴婢は,宮内省所属の官奴司によって名籍が作られ管理された。そして内裏,皇后宮職,宮内省,中務省や離宮でおもに雑役労働に使役されており,総数は数百人と推定される。しかし758年(天平宝字2)に大量に解放され,それらが今良(ごんろう)と称されるようになってから以降は急速に減少したらしい。私奴婢は戸籍・計帳に例が多いが,その数は,人口(8世紀の良民の人口は沢田吾一により561万余人と推算されている)の数%から1%以下まで地域差があり,また貴族や地方豪族や大寺院は数百人から数十人の規模の奴婢を所有する場合もあったが,一般の公民の間では一部の富有な戸が若干名を所有する程度であった。法隆寺大安寺,元興寺,薬師寺などの大寺院は747年(天平19)の各寺の資財帳によると数百人の奴婢・家人(寺奴婢・寺家人)を所有しているが,その過半は逃亡したり,または良民であることを訴えることにより有名無実となっていたと推定される。東大寺には750年(天平勝宝2)に官奴婢を中心に200人ほどが施入されたが,《東南院文書》や《正倉院文書》によりその構成や労働の実態が知られる。私奴婢は庚寅年籍(こういんねんじやく)(690)以降は生益によってしか増加しないことになったので減少傾向にあったが,一方訴えて良民となったり,解放されて良民となったり,逃亡したりする例が増加して,8世紀を通じて減少し続けた。一方,良民の中に奴婢と偽ったり奴婢と子をなして課役をのがれる例が増えてきたこともあり,789年(延暦8)に良賤通婚により生じた子をすべて良民とすることとなってから,奴婢は急激に減少した。

 鎌倉幕府法にも奴婢の規定は存在し,人身売買も行われたが,中世的な隷属民の体系の中で奴婢は副次的な意義しかもたなくなった。
奴隷 →良賤法
執筆者:

奴婢は古代から李朝末期まで存在する。古くは戦争捕虜,後には人身売買,債務,刑罰を契機にして奴婢が生み出された。新羅時代から官庁に所属する公奴婢と私人に所属する私奴婢の2種があり,この区分は李朝末期にまでうけつがれた。高麗時代には奴婢に対する厳格な法的規制が定められ,身分的に上昇する機会が閉ざされたが,武人政権期には主人とともに出世し,政治権力を握る者も現れた。また万積(まんせき)の乱(1198)などの集団的抵抗運動も展開されたが,まだ身分解放をかちとることはできなかった。李朝時代にはさらに奴婢制度が発達し,全時代を通じて公私奴婢とも40万~50万人ずつが存在した。

 公奴婢(公賤)は所属する官衙によって,寺奴婢(一般官衙),内奴婢(内需司),駅奴婢(駅)などと呼ばれ,中央と地方の官衙に世襲的に所属して各種労役に従うほか,匠人,楽工,歌童,舞工,庫直,妓生キーセン),針線婢,医女などにも使役され,またソウルでは官員に割り当てられ召使(根随)として雑役に従事した。公奴婢の中には職務を利用して貢物代納を行い,蓄財する者も出た。公奴婢は人頭税として綿布1匹,米2斗の〈身貢〉を収めたため,所属官衙の財源の一部でもあった。私奴婢(私賤)は,主家に同居する率居奴婢と別居する外居奴婢があるが,いずれも主家にとっては生産手段の一部であるし,売買,贈与,入質,相続の対象となる貴重な財産である。このため奴婢・良民間,公私奴婢間に生まれた子の帰属が問題となった。原則として母の身分を継承することになったが,時代によりさまざまな規定が生まれた。これは奴婢所有者間の争いだけでなく,良民数を確保して税収を維持しようとする国家と自己の財産を守ろうとする奴婢所有者との争いでもあった。

 奴婢の解放は,1801年の政府による公奴婢原簿焼却と1886年の奴婢身分世襲の禁止をうけ1894年の甲午改革による身分制廃止で実現した。
賤民
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「奴婢」の意味・わかりやすい解説

奴婢
ぬひ

日本古代の賤民(せんみん)制度における奴隷的な賤民。中国の隋(ずい)・唐(とう)の身分法の奴婢制度を継受したもの。男性を奴(やっこ)、女性を婢(めやつこ)と称す。大宝令(たいほうりょう)の戸令(こりょう)により、私有奴婢は私奴婢と家人(けにん)に、官有奴婢は公(く)奴婢(官(かん)奴婢)と官戸(かんこ)に分化し、同身分間の婚姻を強制された。奴婢は所有者により資財と同様に扱われ、相続・贈与・売買され、牛馬と同様に、生まれた子は所有者のものとなり、また所有者を異にする奴婢の間に生まれた子は婢の所有者のものとなった。所有者は奴婢に罪あれば届け出て殺すこともできた。また公私奴婢、官戸、家人は姓をもたなかった。放(ゆる)された場合、公奴婢は官戸に、私奴婢は家人に身分を上げられると戸令は規定するが、実際にはただちに良人(りょうじん)とされる場合が多かった。私奴婢は、庚寅年籍(こういんねんじゃく)(690)の造籍以降は生益(しょうえき)によってしか増加しないことになった。奴婢は逃亡や訴良(自らは元来良民身分であると訴え出ること)などの身分解放の行動により抵抗した。奴婢人口は抑制傾向にあったが、良民のなかに奴婢と偽ったり、奴婢と通婚して課役を逃れる例も生じてきたので、789年(延暦8)良賤通婚により生じた子を良民とすることに改めたのちに急激に減少したと考えられ、私有奴婢制は平安中期には解体した。

[石上英一]

『井上光貞他編『日本思想大系3 律令』(1976・岩波書店)』『神野清一著『律令国家と賤民』(1986・吉川弘文館)』

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普及版 字通 「奴婢」の読み・字形・画数・意味

【奴婢】どひ・ぬひ

男女の召使い。〔漢書、貢禹伝〕官奴婢十餘人、戲して事(な)し。良民にして、以て之れに給す。費五六鉅、宜しく(ゆる)して庶人と爲し、~關東の戍卒(じゆそつ)に代らしむべし。

字通「奴」の項目を見る

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百科事典マイペディア 「奴婢」の意味・わかりやすい解説

奴婢【ぬひ】

古代の賤民(せんみん)。奴(やっこ)は男,婢(めやっこ)は女。律令制では官有の公(く)奴婢と民有の私奴婢に分け,前者は口分田(くぶんでん)を良民なみ,後者は口分田を良民の1/3とした。総数は良民の10%以下,後者が大半と推定される。10世紀ころにはほぼ解放。
→関連項目家人荘園(日本)人身売買奴隷百姓

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「奴婢」の解説

奴婢
ぬひ

古代の隷属者身分の一種。奴は男性,婢は女性。「魏志倭人伝」によると3世紀にはすでに奴婢が存在し,犯罪者の妻子が奴婢とされていたらしい。また「隋書倭国伝」には盗人で賠償のできない者が奴とされたとみえる。律令制下では賤民身分とされ,官奴婢と私奴婢に大別された。律令法上では牛馬資財と同様に売買・相続の対象とされ,口分田(くぶんでん)も良民の3分の1,同身分間の婚姻を強制されるなど,さまざまな法的差別をうけた。官奴婢は8世紀半ば頃から順次解放され,私奴婢も8世紀後半から良賤通婚の盛行などを通じしだいに形骸化し,遅くとも10世紀初頭には消滅したと考えられる。鎌倉時代の幕府法にも奴婢の規定があるが,その実体は中世的な隷属者身分である下人(げにん)・所従をさす。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「奴婢」の意味・わかりやすい解説

奴婢
ぬひ

律令社会の最下層の賤民。奴は男子,婢は女子をいう。公 (く) 奴婢と私奴婢の別がある。奴婢は家族を構成することが許されず,売買,譲与,質入れの対象となり,良民の3分の1の口分田 (くぶんでん) の班給にあずかった。公奴婢は官有の奴婢で,官田の耕作,その他の雑役に駆使された。彼らには順次良民にのぼることのできる道が開かれていた。私奴婢は社寺,豪族などの私有するもので,農耕や手工芸に従事し,荘園制の発展するなかで豪族の荘園拡張の労働源となり,やがて自立農民となるものも現れた。

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旺文社世界史事典 三訂版 「奴婢」の解説

奴婢
ぬひ

中国・朝鮮・日本で奴隷をさす名称。奴は男の,婢は女の奴隷の意
殷 (いん) 代から存在し,法律上では清末期の1909年まで続いた。奴婢相互だけの通婚が認められ,その子も奴婢とされた。漢代から南北朝時代の豪族は多数の奴婢を所有し,農耕・織布などに使役した。佃戸 (でんこ) 制の発展に伴い,生産面からは後退。明末期から清初期にかけて,奴変と呼ばれる織工の暴動が頻発した。中国での奴隷は,奴僕・僮奴 (どうど) などとも呼ばれた。なお日本では8世紀末から急激に減少し,朝鮮では19世紀の甲午 (こうご) 改革で廃止された。

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旺文社日本史事典 三訂版 「奴婢」の解説

奴婢
ぬひ

古代における賤民の一種
奴は男子,婢は女子の奴隷を意味した。律令制では公奴婢 (くぬひ) と私奴婢があり,いずれも家族生活を許されず,売買・譲渡の対象となった。口分田は良民の3分の1を班給された。法的には延喜年間(901〜923)に廃止された。

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世界大百科事典(旧版)内の奴婢の言及

【賤民】より

…これに対し,賤民は不自由民で,私的・公的な権利や利益の享有に制限が加えられていた。〈賤民〉という用語についてはいくつかの理解がありうるが,以下においては,奴婢(ぬひ)や奴隷を含めて,最も広義に解釈することにしたい。 中国における奴婢(奴隷と同義)の起源ははなはだ古く,甲骨文にもみえているが,その発生の状況を明らかにすることはできない。…

【中国法】より

… 唐律は社会における階級秩序の維持を眼目とする点で封建的であり,官長と部下,良民と賤民との相互間の犯罪に差等をつけた詳細な規定があること,家族の尊長と卑幼間の場合に似通う。奴婢と部曲はいずれも主人に隷属する不自由な賤民であり,部曲が良民をなぐるときは普通よりも1等重く,奴婢の場合は2等重く罰せられるだけであるが,もし部曲奴婢が主人をののしっただけでも流刑に処せられる。これに対し主人は広範な懲戒権をもち,部曲奴婢を殴打しても死に至らなければ罰せられず,罪のない奴婢部曲を殺せば徒一年,罪がある場合は官司に請うて殺すことができ,無断で殺すときは杖一百と定める。…

【奴隷】より

…1863年南北戦争の最中にリンカン大統領は奴隷解放宣言を出したが,実際に奴隷が解放されたのは65年に戦争が終わったときであり,同年の憲法第13修正で明文化された。【猿谷 要】
【日本】
 日本古代の奴隷は,すでに《魏志倭人伝》に生口(せいこう)の記述が見られるので3世紀ころから存在したが,7世紀後半から8世紀にかけて律令法の定める官戸(かんこ),官奴婢(ぬひ)(私奴婢),家人(けにん),私奴婢などの賤民(せんみん)の身分に編成された。奴隷は,犯罪,人身売買,債務,捕虜などにより生じたが,律令法により人身売買や債務により良民を賤民すなわち奴隷とすることは禁止され,奴隷の供給は生益と犯罪に限定された。…

【奴変】より

…明朝が滅亡した1644年(崇禎17)から清朝の康熙20年代(1681‐90)にかけて,華中・華南を中心にしておこった中国史上未曾有の奴僕(ぬぼく)による身分解放を目ざす反乱。奴僕とは奴婢(ぬひ)ともいい,官僚,商人,地主など富裕な家の主人によってその身柄を所有されている使用人であり,身分的には賤民として処遇されていた。明代の奴僕には,主人のための直接的な家内労働やその指揮下に農業,手工業に従事する下層の者から,主人によって家産の管理・運用や,農・工・商にわたる産業の経営を委任され豊かな私財すら蓄積した上層の者まであった。…

【平民】より

百姓,公民,良民と同様な意味で用いられた身分呼称であった。《令義解(りようのぎげ)》で〈家人(けにん),奴婢(ぬひ)〉について〈すでに平民に非ず〉といわれているように,賤民である家人や奴婢は平民身分から除外された。また公民の籍帳から外れた浮浪人も平民とはみなされなかったが,浮浪帳に編付され調庸を負担している浮浪人は,弘仁年間(810‐824)の太政官符により水旱不熟の年には平民に準じて調庸が免除されることになった。…

【妾】より

…【植松 明石】
[中国]
 めかけは古くは女奴を意味し,男奴たる臣とあわせて〈臣妾〉の語があった。春秋末期から〈奴婢(ぬひ)〉の語が一般化するとともに,自由身分の側室をめかけと称するようになった。旧中国における宗族秩序の上からは一夫一妻の原則にたつから,めかけは公的地位をもたず弱い立場にあったが,単なる秘密の囲い女ではなく,家族の成員たる身分を礼と律の上に制度づけられていた。…

【奴】より

…(1)古代の賤民男性を〈やつこ〉といい(〈奴婢(ぬひ)〉の項参照),その後人に使役される身分の低い者に用いられ,奴僕,下僕などともいった。(2)江戸時代には武家の日常の雑用をしたり,行列の供揃いの先頭で槍や挟箱を持って振り歩く下僕をいった。…

【良賤法】より

…日本の古代に,良民と賤民の婚姻や生まれた子の帰属を定めた法。645年(大化1)の男女の法は,良民が奴婢(ぬひ)との間になした子は奴婢につけ,所有者の異なる奴婢の間の子は母である婢につけると定めた。この原則は律令にも引き継がれて,戸令・戸婚律で,良民と賤民の通婚禁止,賤民は同じ種類の賤民とだけしか婚姻できないとする当色婚が定められた。…

※「奴婢」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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