安閑天皇(読み)あんかんてんのう

精選版 日本国語大辞典 「安閑天皇」の意味・読み・例文・類語

あんかん‐てんのう ‥テンワウ【安閑天皇】

第二七代天皇継体天皇の第一皇子。名は、勾大兄(まがりのおおえ)。おくり名、広国押武金日尊(ひろくにおしたけかなひのみこと)。五三四年即位し、大和勾金橋宮(まがりのかなはしのみや)に都して在位二年。「日本書紀」によれば屯倉(みやけ)を増設し、勾舎人部(まがりのとねりべ)、勾靱部(まがりのゆきべ)を置く。

出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報

デジタル大辞泉 「安閑天皇」の意味・読み・例文・類語

あんかん‐てんのう〔‐テンワウ〕【安閑天皇】

記紀で、第27代の天皇。継体天皇の第1皇子。名は広国押武金日ひろくにおしたけかなひ皇居勾金橋宮まがりのかなはしのみや

出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例

日本大百科全書(ニッポニカ) 「安閑天皇」の意味・わかりやすい解説

安閑天皇
あんかんてんのう

第27代天皇。継体(けいたい)天皇の長子。母は尾張連目子媛(おわりのむらじめのこひめ)。諱(いみな)は勾大兄(まがりのおおえ)。国風諡号(しごう)は広国押武金日尊(ひろくにおしたけかなひのみこと)。『日本書紀』安閑即位前紀に継体天皇25年(531)即位、元年紀には甲寅(きのえとら)年(534)即位とあって矛盾し、一方『書紀』に540年即位とある欽明(きんめい)天皇が、『法王帝説(ほうおうていせつ)』によると532年即位となる。そこで、継体の没後嫡子欽明が立ったが、まもなくこれに反発して庶兄安閑が並び立ったとも解しうる。『書紀』によると、皇居は勾金橋宮(まがりのかなはしのみや)(奈良県橿原(かしはら)市曲川(まわりかわ)町)、在位2年、古市高屋丘陵(ふるいちのたかやのおかのみささぎ)(大阪府羽曳野(はびきの)市古市)に葬られた。在位中、全国各地に30余りの屯倉(みやけ)が設置されたと伝えるのは、安閑朝が動乱期であったことを示すものであろう。

[黛 弘道]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「安閑天皇」の解説

安閑天皇 あんかんてんのう

466-536* 記・紀系譜による第27代天皇。在位534-536*。
継体天皇の第1皇子。母は目子媛(めのこひめ)。「日本書紀」によると,都は大和の勾金橋(まがりのかなはしの)宮。全国各地に屯倉(みやけ)をおき,県犬養連(あがたのいぬかいのむらじ)らに,その税をつかさどらせた。安閑天皇2年12月17日死去。70歳。墓所は古市高屋丘陵(ふるちのたかやのおかのみささぎ)(大阪府羽曳野市)。別名は勾大兄(まがりのおおえ),広国押武金日天皇(ひろくにおしたけかなひのすめらみこと)。
格言など】内外清(す)み通りて,国家殷(にぎは)ひ富めり。大きに酺(さけのみ)すること五日にして,天下(あめのした)の歓(よろこび)を為すべし(「日本書紀」)

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

朝日日本歴史人物事典 「安閑天皇」の解説

安閑天皇

没年:安閑2(535)
生年:雄略10(466)
6世紀前半の天皇。継体天皇と目子媛(尾張連草香の娘)の子で,即位前は勾大兄と呼ばれた。諡号は広国押武金日天皇。勾とは居住地の大和国勾金橋(橿原市)からとったもの。大兄とは新羅で5世紀ごろから使われ始めた語で,一族の宗主権者に与えられた尊称であり,継体の最年長の子であったことを示す。継体死後2年の空白をおいて安閑1(534)年即位し,同2年12月17日に死んだ。この不自然な即位,死亡状況から,異母弟欽明天皇との対立があったのではないかという説がある。継体天皇のとき,任那4県の割譲に反対した。朝鮮半島をめぐる外交方針が対立要因となった可能性がある。高屋築山古墳(羽曳野市)が陵墓に比定されている。

(大平聡)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

山川 日本史小辞典 改訂新版 「安閑天皇」の解説

安閑天皇
あんかんてんのう

記紀系譜上の第27代天皇。6世紀前半の在位という。勾大兄(まがりのおおえ)皇子・広国押武金日(ひろくにおしたけかなひ)天皇と称する。継体天皇の長子。母は尾張連草香(おわりのむらじくさか)の女目子媛(めのこひめ)。「日本書紀」によると,継体の死後,3年たって即位したことになるが,この間,異母弟欽明天皇との間に対立がおこり,内乱もしくは2朝並立の事態が生じたとする説もある。「日本書紀」には,この天皇の代のこととして多くの屯倉(みやけ)・名代(なしろ)の成立が伝えられる。

出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報

旺文社日本史事典 三訂版 「安閑天皇」の解説

安閑天皇
あんかんてんのう

生没年不詳
6世紀前半の天皇
生没年・在位期間については諸説ある。継体 (けいたい) 天皇の皇子。大連 (おおむらじ) 大伴金村に支持され,蘇我氏の支持する欽明 (きんめい) 天皇と対立した。安閑・宣化朝と欽明朝が同時に存在したという説もある。

出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「安閑天皇」の意味・わかりやすい解説

安閑天皇
あんかんてんのう

第 27代に数えられる大和朝廷の天皇。継体天皇第1皇子。母は目子媛。マガリノオヒネヒロクニオシタケカナヒミコトと称する。大和勾金橋に都し,皇后は春日山田皇女という。陵墓は大阪府羽曳野市の古市高屋丘陵。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の安閑天皇の言及

【継体・欽明朝の内乱】より

…6世紀前半の継体朝末年に皇位継承をめぐって勃発したと想定されている内乱。《日本書紀》では継体天皇の死をその25年辛亥(531)のこととし,安閑天皇1年(534)までの2年間は空位とされる。一方,仏教公伝を《日本書紀》が壬申年(552)とするのに対し戊午年(538)として伝える《上宮聖徳法王帝説》や《元興寺縁起》によれば,欽明天皇の即位は辛亥年となって先の継体没年とつながり,その間に安閑・宣化2天皇の治世をいれる余地がない。…

※「安閑天皇」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

今日のキーワード

黄砂

中国のゴビ砂漠などの砂がジェット気流に乗って日本へ飛来したとみられる黄色の砂。西日本に多く,九州西岸では年間 10日ぐらい,東岸では2日ぐらい降る。大陸砂漠の砂嵐の盛んな春に多いが,まれに冬にも起る。...

黄砂の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android