出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報
歌人。新潟県生まれ。本名肇(はじめ)。長岡中学校(現、長岡高校)卒業。のち上京し、1933年(昭和8)北原白秋(はくしゅう)の門下となる。1935年『多磨(たま)』創刊に加わり、白秋の秘書となる。1939年に召集され、大陸に出征、以後1943年に解除になるまで山西省を中心に転戦する。1942年に白秋の死を戦地で知る。これらの経緯は歌集『山西省』に鮮烈に歌われた。1944年に滝口英子と結婚、再召集。終戦後の1946年、第一歌集『群鶏』刊行。新歌人集団に加わり、1948年に『小紺珠(しょうこんしゅ)』、1949年に『山西省』を刊行するなど、戦後歌壇の旗手として活躍。1949年発表の『孤独派宣言』はその決意を示すものとして注目された。1952年に『多磨』解散、翌年『コスモス』創刊、ここから多くの歌人が輩出した。つねに庶民派を貫き、一人の人間の孤独、怒り、喜び、愛といった「生の証明」を歌い続け、戦場詠、職場詠、家族詠、老いの歌など、現在につながるさまざまの領域を開いた歌人である。1955年「朝日歌壇」選者となる。毎日出版文化賞、読売文学賞、迢空(ちょうくう)賞、日本芸術院賞など、多くの賞を受賞。
[日高堯子]
一本の蝋(ろう)燃(もや)しつつ妻も吾(あ)も暗き泉を聴くごとくゐる
『『宮柊二集』全11巻(1980~91・岩波書店)』▽『島田修二著『宮柊二の歌』(1987・花神社)』▽『小高賢著『宮柊二とその時代』(1998・五柳書院)』
歌人。新潟県堀之内町生れ。本名肇(はじめ)。長岡中学在学中から作歌,相馬御風の《木蔭歌集》に投稿。中学卒業後,家業の書店を手伝ったが,1932年上京,翌年北原白秋に師事,白秋主宰の《多磨》が創刊されて俊英として注目される。39年応召されて中国大陸へ転戦,白秋の死を戦地で知る。戦後第1歌集《群鶏》(1946)の清新な抒情で注目され,戦後の現実と直面した《小紺珠》(1948),従軍体験を結晶化した《山西省》(1949)で戦後短歌の代表歌人となった。《多磨》解散の翌53年,〈生の証明〉をかかげて《コスモス》を創刊。55年朝日歌壇選者となり,62年《多く夜の歌》で読売文学賞をはじめ,76年迢空賞,77年芸術院賞を受賞,83年芸術院会員に推された。
76年脳血栓で倒れ,闘病のなかで作歌を続けた。〈七階に空ゆく雁のこゑきこえこころしづまる吾が生あはれ〉(《日本挽歌》)。
執筆者:島田 修二
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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