宮部鼎蔵(読み)ミヤベテイゾウ

デジタル大辞泉 「宮部鼎蔵」の意味・読み・例文・類語

みやべ‐ていぞう〔‐テイザウ〕【宮部鼎蔵】

[1820~1864]幕末尊攘志士肥後の人。吉田松陰の東北遊行に同行京都にて討幕運動に活躍するが、池田屋新撰組に襲われて自刃

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改訂新版 世界大百科事典 「宮部鼎蔵」の意味・わかりやすい解説

宮部鼎蔵 (みやべていぞう)
生没年:1820-64(文政3-元治1)

幕末の尊攘の志士。増実と名のり,田城と号する。肥後国益城郡田城村の医家に生まれたが医業を継がず,伯父増美に山鹿流の兵学を学ぶ。のち藩に召されたが,交流を得た吉田松陰と江戸に留学し,東北を巡遊する。松陰に〈毅然たる武士なり。僕常に以て及ばず〉と評された人物であった。ペリー来航に際し時務策を呈したが,顧みられること少なかったため絶望し,世人との交りを絶つ。しかし1862年(文久2)に上京して尊攘運動に参加し,ついで肥後藩兵の上京に従う。翌年学習院出仕を命ぜられ攘夷親征に参画するが,8月18日の政変で敗退し長州に赴く。64年(元治1)ひそかに入京し長州藩主雪冤のために画策するが,京都三条池田屋で新選組に襲撃されて自刃(池田屋事件)。弟の春蔵(1839-64)も志士として活動,禁門の変ののち自刃した。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「宮部鼎蔵」の意味・わかりやすい解説

宮部鼎蔵
みやべていぞう
(1820―1864)

幕末期の攘夷(じょうい)運動家。諱(いみな)は増実。号は田城(でんじょう)、尖庵(せんあん)。肥後国益城(ましき)郡西上野村の医師宮部春吾素直の第二子。叔父増美について山鹿流兵学を学び、その家を継いで藩の軍学師範となる。1851年(嘉永4)江戸に出て、吉田松陰(しょういん)と知り合う。海防に関する意見書を藩に提出するが、いれられず帰国。1862年(文久2)上京して薩摩藩有馬(ありま)新七らと交わり、熊本藩攘夷派の総帥と目される。1863年朝廷に親兵が創設されると、熊本藩の有志50名余を率いてこれに加わる。八月十八日の政変後、長州に逃走。1864年(元治元)上京して長州藩の勢力挽回を図る活動に従事するが、6月5日池田屋事件で死亡。1891年(明治24)正四位(しょうしい)を追贈

[青山忠正]

『武藤厳男編『肥後先哲偉蹟 後篇』(1928・肥後先哲偉蹟後篇刊行会)』『田尻佐編「贈位諸賢伝」(芳賀登ほか編『日本人物情報大系42』所収・2000・皓星社)』

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朝日日本歴史人物事典 「宮部鼎蔵」の解説

宮部鼎蔵

没年:元治1.6.5(1864.7.8)
生年:文政3.4(1820)
幕末の尊攘派志士。名は増実,号は田城,鼎蔵は通称。肥後国上益城郡西上野村(熊本県上益城郡御船町)の医者宮部春吾の長男。叔父増美について山鹿流兵法を学び,嘉永2(1849)年その跡を継ぎ,肥後藩兵法師範職となる。このころから吉田松陰と親交を結び,のちに「其人懇篤にして剛毅と云うべき人なり」と評される。また林桜園のもとで国典を講究。同6年のペリー来航に際して江戸に赴き,松陰渡米未遂事件に関係して帰藩。安政3(1856)年,門人の乱闘事件で罪を得,郷里に引退した。文久3(1863)年には全国諸藩より選抜された親兵3000人の総監に任じられたが,8月18日の政変で敗退し,三条実美ら七卿と共に長州に退く。長州滞在中,妻えみに宛てた書簡には「らくは手ならひ針仕事肝要に存じ候,みつはさぞさぞふとり候と目さきにちらちらいたし候」と,幼いふたりの娘を思う親心がにじむ。元治1(1864)年ひそかに入京し,同志らと会合中,新選組に襲撃され(池田屋事件)自刃した。<参考文献>『宮部鼎蔵先生並殉難志士列伝』

(三澤純)

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「宮部鼎蔵」の意味・わかりやすい解説

宮部鼎蔵
みやべていぞう

[生]文政3(1820).肥後
[没]元治1(1864).6.5. 京都
幕末の尊攘派志士。医家に生れたが,兵法を好み,熊本藩に出仕。嘉永年間 (1848~54) 江戸に上り,吉田松陰らと交遊。ペリー来航に際しては藩に時事建策を行なった。尊王攘夷派志士の間に重きをなし,文久2 (62) 年藩庁に建言して藩兵を上洛させ,次いで翌3年攘夷親征の議がすむとみずから御親兵総監となり,文久三年八月十八日の政変では失脚して七卿とともに三田尻に退いた (→七卿落 ) 。まもなく真木和泉らと忠勇隊を組織して上洛,朝廷に直訴を企てたが,三条の池田屋に投宿謀議中,会津藩兵,新撰組に襲撃され自刃した (→池田屋事件 ) 。弟春蔵 (39~64) も志士として国事に奔走し,真木和泉らと天王山に自刃。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「宮部鼎蔵」の解説

宮部鼎蔵 みやべ-ていぞう

1820-1864 幕末の武士。
文政3年4月生まれ。肥後熊本藩の兵学師範。江戸で吉田松陰とまじわり,東北周遊に同行した。肥後勤王党の中心人物で,文久2年(1862)から京都で活動し,翌年八月十八日の政変で長州へ退去。ふたたび京都に潜入したが,元治(げんじ)元年6月5日池田屋で新選組におそわれ自刃(じじん)。45歳。名は増実。号は田城。

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世界大百科事典(旧版)内の宮部鼎蔵の言及

【池田屋事件】より

…文久3年(1863)8月18日の政変後の京都は,公武合体派の勢力下におかれ尊攘派志士の活動は圧迫されていた。勢力挽回を意図した尊攘派は,熊本藩の宮部鼎蔵らが中心となり,中川宮(朝彦親王),一橋慶喜,京都守護職松平容保の暗殺を企てた。志士たちは京都に潜入して画策するが,ひそかに武器を集めていた近江出身の古高俊太郎が新撰組に捕らえられるなど,きびしい情勢が切迫していた。…

※「宮部鼎蔵」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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