寛容(読み)かんよう(英語表記)toleration
tolerance

精選版 日本国語大辞典 「寛容」の意味・読み・例文・類語

かん‐よう クヮン‥【寛容】

〘名〙 (形動) 心がひろくて、他人の言動をよく受け入れること。他人の罪過をきびしくとがめだてしないこと。また、そのさま。
※三代格‐三・弘仁九年(818)五月二九日「官司寛容无糺正
※海潮音(1905)〈上田敏訳〉ブラウニング評「されば信教の自由を説きて、寛容の精神を述べたるもの」 〔史記‐高祖本紀〕

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デジタル大辞泉 「寛容」の意味・読み・例文・類語

かん‐よう〔クワン‐〕【寛容】

[名・形動](スル)
心が広くて、よく人の言動を受け入れること。他の罪や欠点などをきびしく責めないこと。また、そのさま。「寛容の精神をもって当たる」「寛容な態度をとる」「多少の欠点は寛容する」
免疫寛容
[派生]かんようさ[名]
[補説]書名別項。→寛容
[類語]寛仁広い寛闊かんかつ寛大寛弘かんこう広量大様おおよう大らかおっとりさりげない何気ないそれとなくそれとなしに何心ない遠回し気軽い何とはなし鷹揚おうよう磊落らいらく開豁かいかつ闊達豪胆豪放剛毅放胆大胆太っ腹雅量大量悠揚悠然泰然泰然自若綽然しゃくぜん自若悠悠浩然堂堂正正堂堂毅然肝が据わる腹が据わる

かんよう【寛容】[書名]

神崎武雄の小説。昭和17年(1942)発表。同年、第16回直木賞受賞。

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改訂新版 世界大百科事典 「寛容」の意味・わかりやすい解説

寛容 (かんよう)
toleration
tolerance

寛容とは,広義には,自己の信条とは異なる他人の思想・信条や行動を許容し,また自己の思想や信条を外的な力を用いて強制しないことを意味する。しかし,思想史に即して考えれば,それらが社会的にとくに問題になるのは宗教および政治の局面においてであり,しかもこれら二つの局面は深くかかわりあっていることによって,寛容は政治的・社会的自由の源流となった。

異なった宗教・宗派を容認するという意味での寛容の概念が,ヨーロッパの思想史上にはじめて登場したのは,ストア哲学ヒューマニズムにおいてであろう。それはローマ帝国の拡大にともなって服属した諸民族が固有の信仰を抱きつづけることに道をひらいたが,キリスト教徒の登場とその皇帝礼拝の拒否とによって,簡単に否定されてしまうようなものであった。その後,キリスト教のローマ国教化に先だって出されたいくつかの寛容令は,このローマ的寛容の法制化といえるが,国教化はむしろ異端と異教とに対する非寛容の方向を強化させることになり,以後のヨーロッパ中世を通じて,寛容の思想が主張されることはほとんどない。宗教的寛容が大きな社会的問題として登場するようになったのは,宗教改革期以降のことである。唯一絶対的な人格神を信仰の対象とするキリスト教においては,さまざまな宗派の併存を認めることは原理的にはありえない。中世キリスト教共同体の概念は,そのような理念を体現したものとみることができるであろう。しかし,宗教改革によって現実に多くの宗派が登場するようになったとき,その結果は,一方における宗教戦争や宗教的迫害の激化であると同時に,他方においては,このような対立・抗争をふまえたうえで,異なった信仰・宗派の相互的容認としての寛容を主張し,それを徐々に実現していくことだったのである。

 初期の宗教改革者たちの多くは内面的確信に対する迫害に反対したが,現実にカトリックプロテスタントの対立が激化していったときに,理性を基礎にして宗教的和解を説いたのはエラスムス,トマス・モアらのルネサンス人文主義者たちであった。そして,宗派の併存が神聖ローマ帝国内においてはじめて公式に認められたのは,1555年のアウクスブルクの宗教和議においてであるが,それは力による抗争を政治的に解決しようとしたものであり,容認された宗派はカトリックとルター派だけであったし,しかも政治支配者がその領域内の宗教を決定するとされたという意味では,真の寛容の実現とはほど遠いものであった。寛容政策(内面的信仰の自由,礼拝の自由,裁判の平等,官職の解放など)が制度上ほぼ完全な形で最初に実現されたのは,1598年のナントの王令によってである。カルビニズムが急速に浸透したフランスにおいては,宗派間の争いが政治的対立と結びつき,しかも新教徒の側から抵抗権の主張が強く出されたこともあって,国を二分しての内乱が長期間にわたって争われるという事態(ユグノー戦争)が出現した。このような状況にあって,J.ボーダンらポリティークと呼ばれる人々を中心にして,信仰の純粋性を守ることに優先してフランスの統一を実現させるべきであり,そのためには寛容政策をとることが望ましいと主張されるようになり,それがナントの王令として現実化されたのである。だが,この寛容が宗派的対立の問題を原理的に解決したものでなかったことは,そこに示されている強い政治性からも明らかであり,したがってまた,ブルボン王朝の絶対主義的確立とともに寛容政策はいとも簡単に廃棄されてしまうことにもなった。

 近代的な意味での信教の自由を実現させていくことになった寛容の主張は,〈内なる光〉による神と各個人との直接的な関係を強調するピューリタニズム系の諸宗派から生み出されたものである。そこでは神の啓示は各個人の良心に直接示されるものであり,したがって,人間の相互関係においても,また世俗的権力との関係においても,個々人の良心に外から介入し強制することは許されない,とされるのである。このような主張はイギリスピューリタンを中心に展開され,オランダ,アメリカへと拡大されていった。アメリカ植民地での初期の寛容法(1644年ロードアイランド,1649年メリーランドなど)やピューリタン革命期にレベラーズが提案した〈人民憲章〉は,このような考え方の反映である。さらに,ミルトンロックの思想においては,〈内なる光〉を理性そのものとしてとらえる方向が展開され,信仰の個人の内面における完結性が強調されるとともに,外面世界を律するものは理性であり,寛容は理性の命令にほかならないとされるようになる。この考え方は特定の宗教や信条と政治権力との関係を原理的に断ち切り,諸宗派間の平和的な共存を基礎づけたという意味で,近代国家における宗教的寛容,さらには信教の自由の思想的基盤をなすものであった。そして,イギリス,アメリカなどにおいては,市民社会的な国民社会の成熟とあいまって,寛容政策がしだいに現実化していくのである。かくして,西欧における宗教的寛容の主張は,個人主義的自由主義の思想的起源をなすものであった。
寛容法

政治がつねになんらかの利害の調整関係を含むものであるとすれば,個別の立場を相互に容認し,その間の妥協をはかるという意味での寛容の考え方は,政治の登場とともに古いといえよう。すでにアリストテレスは,妥協を政治の根本原理の一つとしている。しかし,権力主体間の寛容だけではなく,ある政治社会の個々の構成員に対する寛容,さらには構成員相互間の寛容が問題になるのは近代以降のことである。なぜなら,個々の構成員が政治主体として登場することによってはじめて,相互間の政治的寛容が社会的に意味をもつようになるからである。この点を歴史的に考えれば,宗教的寛容の主張そのものが,君主主権ないしは国家主権に対して,ブルジョアジーを中心とする被治者の側を政治主体として対置するという側面をもっていた。したがって,宗教的寛容,さらには信教の自由が実現されていく過程は,国民の闘争による政治的権利の獲得をも意味したのであり,その確立は国民国家としての政治社会の形成をまってはじめて可能であった。そして,各宗派,各個人の権利における平等と自由という原理が承認されて,国民的同質性が担保されるようになったとき,その社会の構成員としての国民相互間の政治的寛容という考え方が生まれてきたのである。

 このような歴史的背景のもとに,政治的寛容の原理は,教条主義や権威主義と対立する自由主義として近代思想に定着し,政治に相対主義的な思考様式をもたらすことになった。すなわち,市民革命を経過して確立された近代議会主義においては,国民のある程度の同質性を前提としながら,各個人の思想や信条は絶対的な真理を体現するものではありえないのであるから,討論によって相手の意見を知り,妥協点を見いだしていくべきであり,それでも意見の一致が得られない場合には,多数決によって相対的にはより客観的な結論を見いだすことが好ましいと考えられるようになったのである。このような多数決原理は,自明の前提として討論の自由,少数者の保護,政治的反対の保障などを含むものであり,議会制によって政治的寛容の原理は制度化され,個人の自由が保障されるようになったといえよう。しかし,19世紀の後半以降になると,工業化と都市化とにともなって,階級対立の激化,利害の多元化と分極化,さらには大衆社会化の進行などがもたらされ,ひいては議会制の前提となっていた国民の同質性もしだいに失われるようになった。20世紀における議会制の無力化と全体主義の台頭とは,このような事態の深刻化を象徴的に示すものである。全体主義的な政治体制のもとにおいては,政治的・宗教的寛容,さらには思想の自由が脅威にさらされることはいうまでもないが,現代の状況下にあっては,自由主義的な体制についても楽観は許されない。しかも,異なる意見に対する寛容は,多元的な社会であればあるほど,その果たす役割が重要であることを考えるとき,この新しい思想状況のもとで寛容の原理をどのように再構築するかは,デモクラシーの発展にとっての緊急の課題として提起されているといえよう。

日本においては,明治にいたるまで,宗教的寛容が思想的な問題として提起されることはなかったといえよう。在来の自然宗教的な神道と伝来の仏教とは絶対的に対立しあうものではなかったし,キリスト教が勢力を得るようになったとき,それは徹底的な弾圧によって絶滅された。明治憲法は条文の上では信教の自由を認めたが,それは天皇制の思想的中核としての国家神道を前提としたものであり,新興宗教の弾圧事件にも示されるように,信教の自由が国家体制に抵触する場合には,それは絶対に許容されないものであった。この意味では,憲法の保障した信教の自由は宗教的寛容の原理を確立するものではなかったといえる。このような事情は政治的寛容についても同じであり,議会制は導入されたが,権威主義的な明治憲法体制下においては,それは討論の自由,少数者の保護などを保障するものではなく,体制と異なる意見や政治的反対者に対する寛容はみられなかったといえよう。第2次大戦後の新憲法によって,宗教的・政治的寛容は全面的に保障され,政治の原理とされることになった。しかし,デモクラシーの伝統が浅く,しかも国民的同質性が形成されることのなかった日本においては,政治についても宗教についても,寛容の態度がいきわたっているとはいえないのが現実である。
執筆者:

古くからインドは寛容の精神に富んでいたと言われるが,それはまず,宗教上の習合(シンクレティズム)に顕著に見いだされる。たとえば,ヒンドゥー教でもっとも人気のあるシバ,ビシュヌ両神は,アーリヤ民族の最古の聖典ベーダではとり立てていうほどの神ではなかったが,やがてアーリヤ民族と先住民族との混交が進むにつれ,先住民族の諸神が,シバの妃や息子などその眷属として,また,ビシュヌの化身として次々と位置づけられることによって,強大で魅力ある神へと成長していった。つまり,先住民族の宗教をつぶすのではなく,それをたくみに取り込むことで成功を収めたのである。この習合的傾向は近代までのインド宗教史を貫くものであり,厳格であるはずのイスラム教なども,インドに入るや,ヒンドゥー教と大なり小なり混交した。また,インドの宗教には,たとえ他派の聖典・教義であっても,それなりの意味,正当性を容認する傾向があった。各人の能力・素質(機根)に応じてさまざまな教えがあってよいとする考えは仏教がしばしば説くところであるし,またたとえばヒンドゥー教正統派のマドゥスーダナ・サラスバティー(15世紀)も同様の趣旨で《種々なる道》を著した。真実は一つだがそれに至る道はさまざまだということである。ただし,おのずから優劣ということがあり,各派は自派の教えを最高とし,他派をみずからの基準によって順序づけることがよく行われた。論争は執拗なまでにたたかわされたが,他派を抹殺する直接の行動,いわゆる異端狩り,異教徒迫害などということはほとんど起こらなかった。中世のインドに興亡したムスリム権力はたしかに仏教〈僧団〉に対しては過酷であったようだが,基本的にはインドの土着の諸宗教(習俗にも)に対してきわめて寛容な態度で臨んだといえる。

 マウリヤ朝のアショーカ王,クシャーナ朝のカニシカ王は仏教に帰依した帝王として有名だが,歴史的事実としては,仏教を含めたあらゆる宗教を保護したのであって,仏教のみを排他的に信奉したわけではない。またムガル朝第5代シャー・ジャハーン帝の王子ダーラー・シコーは,イスラム教徒の権力者でありながらヒンドゥーの聖典ウパニシャッドのペルシア語訳の事業を推進し,失敗したとはいえ両教を融合させた新宗教を興そうとしたことで有名である。

 近代になって,強大な西洋文明を背景にキリスト教が押し寄せてきたとき,ヒンドゥー教もイスラム教もその影響を受け,ないしはそれに対抗して,〈ブラフマ・サマージ〉をはじめとする各種宗教団体の創設や〈アリーガル運動〉などの一連の宗教改革運動を展開したが,その一大潮流として〈純粋化〉の動きがあった。これがイギリスの分割統治政策に結果的に利用されたかっこうになり,対立をあおって〈宗教戦争〉のような事態を生み出した。今日でも経済問題などとからんでときおり暴力事件に発展することがあり,傷口はまだ癒えていない。ただ,こうした非寛容の時代は,長いインドの歴史の中ではほんの一時期を占めているにすぎない。
執筆者:

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「寛容」の意味・わかりやすい解説

寛容
かんよう
tolerantia ラテン語

特定の宗教、宗派やその信仰内容・形式を絶対視して他を排除することなく、異なった立場をも容認すること。寛容される側からすれば信教の自由に相当する。寛容は単に個人の徳目(心の広さ)ではなく、むしろ社会的な次元にかかわり、宗教と政治ないし国家との接点で生じてくる問題である。歴史上、寛容もその反対の非寛容も多くの実例があるが、一般に同一の社会(地域)内に複数の宗教が並存するようなところでは寛容の傾向が強く、いずれかの宗教が優位にある場合、非寛容への条件が与えられているといえよう。アジア地域では概して異宗教が共存することが多く、寛容が通例であった。これに対し、古代ローマ帝国の遺産を受けて成立した中世以後の西欧では、キリスト教会が唯一の正当性を主張し、異端や異教徒への非寛容が続いた。西欧において近代的な寛容(信教自由)の原則が定着するのは、ほぼ啓蒙(けいもう)主義の時代(18世紀)以後のことである。

[田丸徳善]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「寛容」の意味・わかりやすい解説

寛容
かんよう

元来は,異端や異教を許すという宗教上の態度についていわれたのであるが,やがて少数意見や反対意見の表明を許すか,否かという言論の自由の問題に転化し,ついには民主主義の基本原理の一つとなった。ボルテールは「君のいうことには反対であるが,君がそれをいう権利は死んでも守ろうと思う」と語り,これは寛容の精神をよく示した言葉として引用される。だが寛容には限界があるとされている。まず第1に,理性,良心,真理への信念に基づく言説にのみ適用すべきである。第2に,民主主義を破壊しようとする言動に適用してはならない。ワイマール共和国がこの限度を知らなかったために悲劇の道をたどったことは歴史的教訓として記憶されている。

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普及版 字通 「寛容」の読み・字形・画数・意味

【寛容】かん(くわん)よう

心が広い。〔韓詩外伝、八〕容にして、之れを守るに恭を以てするは榮ゆ。

字通「寛」の項目を見る

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「寛容」の解説

寛容(かんよう)

寛容令(かんようれい)〔ドイツ〕

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世界大百科事典(旧版)内の寛容の言及

【示相化石】より

…一般に古生物の種ないし属についていうが,古動物群についていうこともある。適応力のすぐれた,すなわち耐性toleranceの広い種は不利な条件下でも生息できるのに対し,狭い種はごく限られた環境にしか生息できない。種々の環境条件に対して耐えうる範囲の大きさにより,生態の広性・狭性が区別される。…

【耐性】より

…抵抗性ともいう。生物が病気,害虫,薬剤,高温・低温,乾燥のような不利な環境条件などに対して対抗しうる性質。生物は一般にその生息場所の諸条件に対してはある程度の耐性をもっている。さもなければ生き残ってこなかったはずだから,これは当然のことである。例えば暑い砂漠に生息する動植物は,高温,乾燥の下で十分生きていけるだけの耐熱性,耐乾性をもっており,寒帯や高地に住む昆虫の多くは耐凍性をそなえ,また氷点下の温度でも(あるいはそのような温度条件下でのみ)活動できるものもある。…

※「寛容」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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