小川松民(読み)おがわ・しょうみん

朝日日本歴史人物事典 「小川松民」の解説

小川松民

没年明治24.5.29(1891)
生年弘化4.4.25(1847.6.8)
明治前期の漆工江戸日本橋に金具師忠蔵の子として生まれる。本名は繁次郎。文久2(1862)年に中山胡民蒔絵を学び,絵を池田孤村に学ぶ。明治3(1870)年浅草馬道町に独立し,9年私財を投じてフィラデルフィア万国博覧会を視察した。古器の模造に長じ,博物局より正倉院,法隆寺什物の模造を命ぜられ,また諸家の嘱託を受ける。10年第1回内国勧業博・竜紋賞,翌11年正倉院什物を拝観し古代漆器の研究に努め,第2・3回内国勧業博・妙技賞を受賞。23年東京美術学校(東京芸大)の初代漆工科教授。東京の谷中墓地に葬られる。<参考文献>『近代日本の漆工芸

(内田篤呉)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「小川松民」の意味・わかりやすい解説

小川松民
おがわしょうみん

[生]弘化4(1847).江戸
[没]1891.5.30. 東京
漆芸家。金具師小川忠蔵の子。 16歳のとき中山胡民に師事して蒔絵を学んだ。その後,古典蒔絵の研究を重ね模造した。特に明治の復古国粋主義の美術批評家たちの感化を受け,歌絵模様の蒔絵を好んで制作。東京美術学校教授として工芸家育成に努めた。主要作品『熨斗若松蒔絵盆』 (東京芸術大学) ,『布引滝蒔絵硯箱』 (東京国立博物館) 。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「小川松民」の解説

小川松民 おがわ-しょうみん

1847-1891 明治時代の漆芸家。
弘化(こうか)4年4月25日生まれ。中山胡民(こみん)に蒔絵(まきえ)を,池田孤村に光琳(こうりん)の画風をまなんだ。明治9年渡米し万国博覧会を見学内国勧業博覧会などに蒔絵を出品。23年東京美術学校(現東京芸大)の初代漆工科教授となる。明治24年5月29日死去。45歳。江戸出身。通称は繁次郎。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

世界大百科事典(旧版)内の小川松民の言及

【蒔絵】より


[近代以後]
 明治維新によって主を失った御用蒔絵師は活躍の場もなく貧困にあえいだが,逆境に抗して蒔絵の伝統を守った。幕末から明治にかけては柴田是真,中山胡民(1808‐70)らが,明治になって川之辺一朝(1830‐1910),白山松哉(1853‐1923),小川松民(1847‐91)らの名工が出た。1889年には東京美術学校が開校し,漆工科が設けられ,その門から六角紫水らが輩出し,以後漆芸界の指導的立場を担った。…

※「小川松民」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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