山名氏(読み)やまなうじ

改訂新版 世界大百科事典 「山名氏」の意味・わかりやすい解説

山名氏 (やまなうじ)

南北朝・室町時代守護大名室町幕府の四職(ししき)家の一つ。上野国山名郷を名字の地とする新田氏一族(義重の子義範が祖)であるが,元弘の乱で山名政氏,山名時氏父子は足利高氏(尊氏)に従い活躍する。1337年(延元2・建武4)には時氏が伯耆の守護職に補任され,名和氏ら南朝勢力を一掃する。観応の擾乱(かんのうのじようらん)期には時氏は直義(ただよし)党に属して分国伯耆に拠り,足利直義の養子直冬(ただふゆ)を盟主とし,文和年間(1352-56)には2度にわたって南朝軍として京都に攻め込み,一時占領する。56年(正平11・延文1)幕府は細川頼之を中国管領に任じて中国地方の平定に力を入れたため,63年(正平18・貞治2)には大内弘世が幕府に帰服した。これによって安芸,備後の南朝・直冬党の勢力は減退し,直冬も備後から石見に落ち,彼を庇護していた時氏もついに帰服した。時氏は翌年上洛して将軍義詮(よしあきら)に謁見し,従来からの伯耆,因幡,美作,丹後,丹波の守護職を安堵された。その後一族を含め,但馬,和泉,紀伊,さらに備後,出雲,隠岐の守護職を与えられて11ヵ国を領有し,〈六分一衆〉と呼ばれたという。

 時氏の子時義は但馬・備後守護として両国に山名氏支配の基礎を築き,89年(元中6・康応1)に死去する。山名氏一族の強大化を警戒していた将軍義満は,この機をとらえて山名氏清・満幸に時義の子時煕(ときひろ)らを攻めさせるが,次には氏清,満幸を討滅する(明徳の乱)。山名時煕(常煕(じようき))は但馬の守護職を与えられ,惣領となる。常煕は,応永の乱には幕府軍の主力として堺城に大内義弘を攻め,乱後は防長両国に拠って幕府に対抗する大内盛見とその与党である安芸,石見の国人領主層を制圧する役割を負い,1401年(応永8)に細川氏に代わって備後守護職を与えられる。翌02年に氏利が石見,03年には満氏が安芸守護職を与えられて一族で大内氏を包囲し,義弘の弟盛見を帰服させ,また大内氏与党の安芸国人一揆を制圧するなど実力を示した。永享年間(1429-41)の大内氏の内部抗争には大内持世を援助し,大内氏とも緊密な関係を取り結び,山陰,山陽に形成した大領国を基盤にして幕閣に高い地位を確立した。嘉吉の乱には山名持豊(宗全)が赤松氏追討軍の主力となって但馬口から播磨に攻め込み,満祐を城(木)山城に滅ぼし,赤松氏領国を与えられた。その勢威が増すにつれて幕閣において細川氏との対立が進行したが,姻戚関係にあった大内氏との提携をいっそう強化した。応仁の乱では持豊が西軍の主将として,東軍を率いた細川勝元と戦う。乱後,本国の但馬,備後では一族内抗争などのためその勢威は弱まった。山名政豊のあと俊豊,致豊(むねとよ)と継ぐが,但馬では重臣垣屋氏との対立によって実権を失い,備後では備北の山内氏や備南の杉原氏らに実権が移った。但馬の祐豊,因幡の豊国は織田氏と毛利氏の戦争に巻き込まれ,いったんは吉川(きつかわ)元春に降伏して毛利氏に属するが,鳥取城に拠る豊国は1580年(天正8)宿老の意見を退けて豊臣秀吉に降伏した。のち豊国は徳川家康に仕え,子孫は但馬村岡で交代寄合となる。1868年(明治1)藩屛に列し,のち男爵。

 守護山名氏の領国支配のうえで注目すべきは,本国備後において,15世紀中期に国人領主層の本領,給地を貫高(かんだか)表示してそれを軍役の賦課基準にしていたこと,ならびに守護取得段銭たんせん)を成立させ,次にそれを国人領主に給与するという段銭知行制を整備していたことである。また守護領のほか守護請地である国衙領や荘園を多く有していたが,支配下の国人領主に給与したり,その代官職を預けたりしてしだいに基盤を喪失し,国人領主層の自立化を促した。そしてまた長者と称される銅山経営で財を蓄積した富裕な商人御用商人として掌握し,直属船を所有して畿内との流通のほか外国貿易にも積極的に関与した。山名氏は代々禅宗に深く帰依し,時義,常煕は臨済宗大応派の月庵(げつたん)宗光(1326-89)が草創した但馬大明寺を外護し,また常煕は京都における山名氏一族の菩提所として造営した南禅寺栖真院に月庵門下の大蔭宗松を住せしめ,惟肖得厳,仲方円伊ら当代一流の禅僧と文芸上の交流を深めた。このほか但馬では円通寺,大同寺楞厳(りようごん)寺など,京都では南禅寺真乗院,大和達磨寺など,外護した禅宗寺院は少なくない。このうち円通寺は時義の菩提所で,永徳3年(1383)の月庵宗光自賛の頂相を所蔵する。《新続古今和歌集》には常煕と煕貴の和歌が収められている。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「山名氏」の意味・わかりやすい解説

山名氏
やまなうじ

室町時代の守護。四職(ししき)家の一つ。清和源氏(せいわげんじ)新田(にった)氏の一族。家祖は義重(よししげ)の男義範(よしのり)で、上野国(こうずけのくに)多胡(たご)郡山名郷(群馬県高崎市山名町)に住し、山名三郎と称した。治承(じしょう)・寿永(じゅえい)の乱で活躍した義範は伊豆守(いずのかみ)に任じ、以後山名氏は幕府引付衆(ひきつけしゅう)などにも名を連ね、新田一族として重きをなした。義範7代後の時氏(ときうじ)は、南北朝内乱で足利尊氏(あしかがたかうじ)方に属し、山陰・山陽地方で活躍する。観応(かんのう)の擾乱(じょうらん)では足利直義(ただよし)方に属し、直義没後にいったんは南朝方となったが、1363年(正平18・貞治2)足利義詮(よしあきら)に帰順して、伯耆(ほうき)・丹後(たんご)など5か国の守護職に補されて大守護となり、子息らは侍所所司(さむらいどころしょし)などの要職についた。さらに山陰出雲(いずも)・畿内(きない)の守護職を得て、一族で11か国守護となり六分一殿(ろくぶんのいちどの)と称された。将軍義満(よしみつ)の大守護抑圧政策と一族争いが絡んで起こった1391年(元中8・明徳2)の明徳(めいとく)の乱の結果、但馬(たじま)・伯耆・因幡(いなば)以外の守護職は没収されたが、嘉吉(かきつ)の乱(1441)などで勢力を回復し、細川氏と並ぶ強勢となった。しかし応仁(おうにん)の乱(1467~77)後は下剋上(げこくじょう)により急速に衰えた。近世では交代寄合の格として6700石を与えられた。なお南北朝末期ごろ鎌倉府の有力者としてみえる山名氏が、時氏系統かどうか不詳である。明治になって男爵を与えられた。

[田沼 睦]


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百科事典マイペディア 「山名氏」の意味・わかりやすい解説

山名氏【やまなうじ】

室町時代の守護大名。清和源氏新田氏の支流。上野(こうずけ)国山名郷を本拠とする。南北朝末期には一族で中国地方を中心に11ヵ国守護職(しき)をもち,六分一殿(ろくぶのいちどの)と称する。明徳の乱で衰退したが,のち勢力を回復し,幕府侍所所司にも復帰。応仁・文明の乱後衰退。→山名氏清山名宗全
→関連項目赤松政則生野銀山大田荘白旗城新田荘

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「山名氏」の意味・わかりやすい解説

山名氏
やまなうじ

室町時代の守護大名。室町幕府の四職 (→三管四職 ) の一家。清和源氏。新田義重の長子義範が上野国多胡郡山名に住し山名三郎を称したのに始る。鎌倉時代には里見氏,大館氏らとともに新田氏を惣領家と仰ぎ,南北朝時代には足利方に属して侍所の所司となり,また但馬,因幡など 11ヵ国の守護を兼ね六分一殿と称せられた。明徳の乱で一族相争い,伯耆,因幡,但馬3国が残るのみとなり勢力は一時衰えたが,嘉吉の乱に際し持豊 (宗全) が勢力を回復。応仁の乱には持豊が西軍の大将となって細川勝元と対立。乱後は衰勢し,やがて徳川家康に仕えて但馬村岡 6700石を与えられ,交代寄合となった。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「山名氏」の解説

山名氏
やまなし

南北朝・室町時代の守護大名家。清和源氏新田氏の一流。新田義重の長男義範(よしのり)を祖とする。上野国山名郷(現,群馬県高崎市)を本拠とし,山名氏を称した。南北朝期,足利方に従って活躍。11カ国の守護領国をもち,六分一殿(ろくぶんのいちどの)(六分一衆)とよばれたが,氏清のとき明徳の乱で勢力を大きく削減された。その後回復して幕府四職家の一つとなり,持豊(もちとよ)(宗全)の代に,管領細川勝元と対立。応仁・文明の乱をひきおこし,乱後は急速に没落。近世初めに豊国が徳川家康に仕え,但馬国に6700石を与えられた。のち村岡(現,兵庫県香美町村岡区)に陣屋をおく。1868年(明治元)1万1000石となり,村岡藩主。維新後,男爵。

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旺文社日本史事典 三訂版 「山名氏」の解説

山名氏
やまなし

室町時代の守護大名。室町幕府の侍所所司で,四職家の一つ
清和源氏の新田氏の一族。南北朝時代,足利氏に属し,時氏は因幡 (いなば) ・伯耆 (ほうき) (ともに鳥取県)の守護となり,一族で11カ国の守護職を有し「六分一衆」といわれた。足利義満の挑発によって一族が争った1391年の明徳の乱で氏清らが討たれて,因幡・伯耆・但馬の3国を残すのみとなったが,持豊(宗全)のとき,嘉吉の乱(1441)の功によって勢力を回復。応仁の乱(1467〜77)では細川勝元と対立し西軍の主将として活躍したが,乱後急速に没落した。

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世界大百科事典(旧版)内の山名氏の言及

【因幡国】より

…それは例えば,智頭郡佐治郷の豪族尾張氏が佐治郷の開発を契機として佐治郷司,佐治郷地頭に補任され,また開発領主佐治四郎が切明大明神として長く村民の手でまつられたことからもうかがわれるように,各地に勢力を張る在地領主層の相対的自立性(割拠性)とそこでの長期にわたる共同体的諸関係の存続をうながすことにもなったものと考えることができる。在地領主層の割拠性,孤立分散性は,また強力な豪族的領主層の成立を阻止する条件ともなっていたようで,南北朝内乱期以後新たに入部してきた守護山名氏による守護領国制支配が急速に展開することとなった。鎌倉期の守護については,同末期の海老名維則を除いて具体的な人名を確定することができず,守護所の位置も定かでない。…

【四職】より

…室町時代の武家の家格。三管領に次ぐ有力守護家のうち,侍所頭人(とうにん)を出した4家を指す。室町幕府の侍所は南北朝後期以降,主として山名,土岐,赤松,京極,畠山,一色の6家から交替で就任していたが,1398年(応永5)畠山氏が管領家に昇格した結果,残余の5家から頭人を出した。なお美濃守護土岐氏は1439年(永享11)以後侍所に補任された徴証がなく,また赤松氏も嘉吉の乱(1441)で没落したので,以後は京極,一色,山名の3家となり,実際に4家が恒常的に頭人を出した安定期間というのはなかった。…

【守護領】より

…また頼有は91年(元中8∥明徳2)に頼之が備後守護であったころ,栗原五ヶ荘,神村荘,海裹荘地頭職,津郷領家職,津郷公文職,石成荘下村,平野地頭領家,坪生領家職半分の8ヵ所を将軍足利義満から与えられているが,これらはその後基之(頼之養子)と頼長との守護2人制のもとで守護領として維持された。そして1401年(応永8)に始まった守護山名氏の本格的な備後国支配においても継承され,守護領としてその代官には守護代や国人領主が任ぜられ,また残る一方領家職などについては守護(被官)請が行われている。備後山名氏の守護領については備北の雄族山内氏の請地になっているものに限ってその全容が知られるが,それらは山内氏の山名氏への軍忠に対する恩賞として預けられたものであり,なかには料所伊与地頭分や細川氏以来の石成荘下村(厩料所分)のように,15世紀後期に山内氏に乗馬供として給与されているものもある。…

【但馬国】より

…但馬は足利直義の知行国となったが,但馬が北朝に従うようになるのは74年(文中3∥応安7)ころからで,すでに山名時義が但馬守護を務めていた。但馬守護の山名氏はしばしば室町幕府と対立し,90年(元中7∥明徳1),足利義満は但馬の山名時熙・氏之らを討っている。但馬の政情の不安定を物語るものであろう。…

【丹後国】より

…その間1363年(正平18―貞治2),幕府は南党山名時氏の帰参を機に,時氏の旧主足利直冬を丹波・丹後両国守護に補任するが,直冬は徹底抗戦を叫んで幕命を肯んぜず,やむなく幕府は山名時氏に両国を兼帯させた。さて山名氏は幕府帰参時に5ヵ国の分国を有していたが,康暦の政変,美濃の乱等幕府の内訌ごとに巧妙に立ち回り,ついに南北朝末期には隠岐を含む分国12ヵ国,侍所頭人兼帯という空前の大大名にのし上がり,将軍足利義満の牽制策に挑発されて明徳の乱を引き起こす。その張本人は当国守護の山名満幸といわれ,この叛乱をいち早く幕府に通報したのも当国の国人結城十郎満藤で,乱後の論功行賞で当国守護に隣国若狭の一色満範がなり,結城満藤は摂津欠郡守護に補された。…

【丹波国】より

…次いで43年(興国4∥康永2),頼章は守護代の荻野朝忠が南軍に寝返った咎で守護を罷免され,丹後守護の山名時氏が当国守護をも兼管して,ここに北2郡の分郡が廃された。山名氏は足利氏の準一門で,当時丹波・丹後のほか伯耆・出雲の守護を兼ねていた。戦国末期に至る山名氏の山陰支配は,ここに端緒を迎えたのである。…

【伯耆国】より

…国府周辺地域は中世にも伯耆国の政治的中心地をなしていた。鎌倉期の守護所もここに置かれたと推定され,また南北朝期以後新しく入部してきた守護山名氏も,国府周辺に田内城,打吹(うつぶき)城を築いてその拠点とした。中世の伯耆は古代以来の6郡からなり,その郡領域も古代と基本的に異なるところはなかった。…

【美作国】より

…その反発から南北朝内乱期には菅家党,南三郷党(西作の真島郡南部の鹿田,栗原,垂水3郷の武士団)など在地武士のめざましい活躍があった。南北朝初期に佐々木氏が一時守護になったが,やがて山陰の山名氏と播磨の赤松氏の抗争の的になって,その守護も赤松貞範,山名時氏,同義理と交替し,明徳の乱後の恩賞として赤松義則が守護職を得た。山名氏は深く赤松氏をうらんで,嘉吉の乱で赤松氏を滅ぼしてその所領を奪ったが,応仁・文明の乱で赤松政則が旧領3ヵ国(播磨,備前,美作)の守護職に復したのちにも,たびたび兵を出してその奪回をねらった。…

【明徳の乱】より

…1391年(元中8∥明徳2)に山名氏清,山名満幸らが反幕府的行動を起こし,討たれた乱。山名氏は清和源氏新田氏の一族で,足利尊氏の挙兵に応じて活躍し,山陰地方を根拠として勢力を拡大した。…

※「山名氏」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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