平和運動(読み)へいわうんどう

精選版 日本国語大辞典 「平和運動」の意味・読み・例文・類語

へいわ‐うんどう【平和運動】

〘名〙 戦争をやめさせ、世界平和を擁護する運動の総称。〔袖珍新聞語辞典(1919)〕

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デジタル大辞泉 「平和運動」の意味・読み・例文・類語

へいわ‐うんどう【平和運動】

戦争や暴力に反対し、世界の平和を擁護しようとする組織的大衆運動

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「平和運動」の意味・わかりやすい解説

平和運動
へいわうんどう

現に行われている戦争、あるいは戦争の準備に反対し、平和を要求する大衆運動。かなり広い概念で、そのなかには、さまざまな思想、方法、組織の運動が含まれる。第二次世界大戦後の平和運動(戦前の運動については「反戦運動」「反ファシズム運動」の項を参照)は、その規模においても、参加する人々の層においても、戦前とは格段の相違がある。第二次世界大戦の犠牲が未曽有(みぞう)のものであり、二度と戦争による惨禍を繰り返したくないという強い願望が民衆の間に生まれ、また、民主主義、独立、平等、人権などの理念が、さらに普遍的なものになったからである。また同時に、一方で、国際的緊張が絶えず存在し、戦場の範囲こそ限定されていたものの、朝鮮戦争、ベトナム戦争など大きな被害をもたらした戦争が各地で繰り返され、そのうえ、大量破壊兵器と、その運搬手段の発達が極度に達し、人類滅亡の危機さえ予見されるようになったからであった。だが、90年代に入って社会主義陣営の崩壊により「冷戦」が終わると、こうした平和運動の課題と構造には大きな変化が生じてきた。

 戦後の平和運動は、大きく三つの時期に分類されよう。第一期は1945年から50年代末まで、第二期は60年代から70年代前半までのベトナム反戦運動の時期、そして第三期はベトナム戦争終了以後、とくに湾岸戦争以降からソ連の崩壊、冷戦終結を経て現在に至る時期である。

[吉川勇一]

第一期


 すでに第二次世界大戦末期になると、戦後世界の支配をめぐる米ソ対立は生じていたが、1947年のトルーマン・ドクトリンコミンフォルムの結成、48年のベルリン封鎖、49年4月の北大西洋条約機構(NATO(ナトー))の結成と、東西の対立は一挙に表面化し、いわゆる「冷戦」が開始された。こうした状況下でさまざまな平和への動きが生まれた。

[吉川勇一]

世界平和評議会

もっとも影響力をもったのは、世界平和評議会(World Council of Peace、議長フレデリック・ジョリオ・キュリー)の運動であった。49年4月にパリとプラハであわせて72か国約2000名が参加して世界平和擁護大会が開催され、原子兵器の禁止、軍事ブロック反対、植民地体制反対、日本・ドイツの再軍備反対などが決議され、平和擁護世界大会委員会が常置された。これが、のち、50年に改組されて世界平和評議会となる。

 この運動は、1950年3月、原子兵器に反対し、それを最初に使用した政府を人類に対する犯罪人とみなすという、いわゆる「ストックホルム・アピール」署名運動を呼びかけ、全世界で5億余の署名(日本で約645万)を集めた。この運動をはじめ、その後の「ベルリン・アピール」署名(51年2月、米・英・仏・ソ・中の五大国の平和協定を要求)などの運動を通じて、世界平和評議会の運動は各国に平和委員会を組織し、活発な活動を展開した。52年のウィーン(85か国1880名)、55年のヘルシンキ(68か国1841名)など、大規模な平和集会もたびたび開催された。この運動は、思想・信条の違いを超えるものとして呼びかけられたが、社会主義諸国政府、とくにソ連は、この運動を強く支援し、事実上はソ連の外交政策への補完的役割も果たした。また各国内では、共産党系活動家が中心となって動いたことから、西側諸国政府は、これをソ連の「平和攻勢」として退け、国内の運動への弾圧を図った。したがって、ハンガリー事件(1956)や、いわゆる中ソ対立の激化など、社会主義諸国内部の矛盾・対立が表面化すると、運動内部でも対立が激化して、しだいに有効性を失い、影響力は低下するに至った。

[吉川勇一]

占領下の日本

この時期の日本の運動としては、さらに1945~52年(昭和20~27)の、アメリカを中心とする連合軍の占領下の時期と、52年のサンフランシスコ講和条約の発効から60年の第一次安保闘争に至る時期との二つに分けられる。

 冷戦の激化とともに、日本でも、知識人や労働組合などによる反戦・反ファシズムの共同声明などが出されたが、1949年の平和擁護世界大会の呼びかけにこたえ、組織的な運動が開始され、同年4月、東京で平和擁護日本大会が開催された。大会は、軍事同盟への参加反対、平和産業の発展、講和条約促進などの平和綱領を採択するとともに、のちの日本平和委員会の前身である日本平和を守る会(会長大山郁夫(いくお))を設立した。この運動は、占領下、米軍と日本政府による弾圧を受けながら、ストックホルム、ベルリン両アピールの署名運動や朝鮮戦争反対の運動を展開した。しかし、この時期には、占領政策によって広島・長崎の原爆被害の実態はほとんど知らされず、初期の運動にあっては、広島などごく一部を除いて、核問題は十分に視野に入っていなかった。また、コミンフォルム批判をめぐる日本共産党の分裂抗争は、平和委員会系の運動にも影響を与え、混乱も多々生じた。

 もう一つの流れは、雑誌『世界』の執筆者を中心とする平和問題談話会(議長安倍能成(あべよししげ))の動きである。この会は、1950年に、日本の方向として全面講和、基地提供反対、中立の三原則の路線を提唱する共同声明を3回にわたって発表した。のち、この三原則に再軍備反対を加えて「平和四原則」とされたが、これは、総評(日本労働組合総評議会)や社会党の方針としても採用された。大国中心主義であった国連への過剰期待、戦争責任問題や戦争が被害を与えた各国民衆への補償問題などへの視野の欠落は、大きな欠点ではあったが、この談話会が提唱した構図は、戦後日本のたどるべきもう一つの選択肢として、戦後前半の運動の基調となった。

[吉川勇一]

講和条約と安保条約

1951年9月のサンフランシスコ講和会議を前にしては、すべての交戦国との「全面講和」か、ソ連、中国、インドなどを除いて、アメリカを中心とする諸国だけとの「単独講和」かをめぐって国論は二分した。平和委員会などは、全面講和を要求する「講和投票」の署名運動などを行った。しかし運動は成功せず、52年4月、沖縄を分離してアメリカの統治下に残して講和条約は発効し、同時に日米安全保障条約が発効した。これより先、占領下、朝鮮戦争の勃発(ぼっぱつ)とともに、アメリカの指令により自衛隊の前身である警察予備隊が設置され、日本の再軍備が進行した。以後の運動は、再軍備反対と憲法擁護、各地の米軍基地に対する反対などの運動をめぐって展開され、54年には、社会党、総評などが中心となって憲法擁護国民会議(議長片山哲)も結成された。

[吉川勇一]

原水爆禁止運動

1954年3月、ビキニ環礁でのアメリカの水爆実験による第五福竜丸の被災以後は、原水爆禁止の運動が大規模に起こる。この運動は超党派の国民的規模で展開され、3000万を超える原水爆禁止の署名が集まり、55年には原水爆禁止日本協議会(原水協、事務局長安井郁(かおる))が結成された。55年からは毎年8月に原水爆禁止世界大会が開かれている。また、53年の内灘(うちなだ)(石川県)射爆場反対の運動をはじめ、55~56年の沖縄の土地取り上げ反対闘争、東京都下砂川の基地拡張反対闘争など、米軍基地への反対運動は、60年の安保改定阻止の大運動へとつながってゆく。

[吉川勇一]

第二期

運動の多様化

1957年8月、ソ連がICBM(大陸間弾道ミサイル)の完成を発表、続いて10月に初の人工衛星の打上げに成功すると、核戦争の現実的脅威が西欧の民衆をとらえ、イギリスのCND(核軍縮運動)やバートランド・ラッセルらによる百人委員会、ドイツの原爆死反対運動、アメリカのSANE(健全な核政策のための運動)など、各国で世界平和評議会系以外の運動が多様に誕生した。一方、社会主義陣営の内部対立は世界平和評議会の運動内部にも持ち込まれ、各国の平和委員会をはじめ、アジア・アフリカ連帯の運動なども分岐・多様化し、65年7月のヘルシンキでの世界平和大会では、民族独立運動、アメリカ政府の評価などをめぐって意見が対立した。

[吉川勇一]

原水禁運動の分裂

この時期、日本の運動も分裂・多様化の時期に入った。原水爆禁止運動からは、1959~60年に、まず自由民主党系、次に民主社会党や全労会議(全日本労働組合会議)が、政治的偏向を理由に脱退した。ついで61年以降、中ソ対立を背景に、ソ連の核実験の評価などをめぐって共産党系と社会党・総評系の対立が激化、63年、運動は原水協と社会党・総評系の原水爆禁止国民会議(原水禁)に分裂し、国民的基盤を喪失していった。しかし、この間、沖縄では、基地反対、祖国復帰要求の運動が着実に展開され、また、60年の安保改定反対の運動は、戦後の大衆運動を画する大規模なものとなった。

 この時期の運動は、平和憲法に象徴される強力な戦後民主主義意識に支えられたものであり、60年安保闘争はその絶頂に位置したといえる。だが、それは、主として第二次世界大戦の被害体験に根ざしたものであり、岸内閣のあとに登場した池田内閣以後、支配層がいわゆる「所得倍増」など、高度経済成長政策をとり、物質的生活水準が向上するに及んでしだいに戦闘性を失い、現状維持の保守的な意識へと転化し、運動は停滞していった。

[吉川勇一]

ベトナム反戦運動

しかし、1965年、米軍の北爆開始によって第二次ベトナム戦争が激化すると、各国の都市で反戦の集会・デモが次々と組織され、またラッセルらの呼びかけで、アメリカの戦争犯罪を裁く「国際法廷」(ベトナム戦犯国際法廷、67年5月)が開催されるなど、国際的規模での大きな反戦運動、ベトナム支援運動が生み出された。アメリカでは、ワシントン、ニューヨークなどで数十万人の大反戦デモが行われ、運動は黒人の解放闘争、兵士の軍隊内地下反戦運動とも結んで、アメリカ政府の政策に大きな影響を与えた。また68年のパリ「五月革命」など、西欧資本主義諸国ではベトナム反戦を契機とした学生層の急進化が目だった。

 日本では、1965年6月10日に、社共両党を含む反戦の「一日共闘」が組織され、66年の10月21日には総評系労働組合は反戦のストライキを行った。以降、毎年この日は「反戦デー」として、4月28日の「沖縄デー」とともに、全国で反戦の行動が行われた。また、ベ平連(ベトナムに平和を!市民連合)など政党系列に属さぬ市民運動が活発な活動を展開し、世論に影響を与えた。67年10月8日、佐藤栄作首相の南ベトナム訪問に際して、反日共系学生運動が激しい闘争を羽田で展開、京都大学学生山崎博昭(ひろあき)の死を含むその闘争は、衝撃を与えた。以後、翌68年の佐世保(させぼ)における米原子力空母エンタープライズの入港阻止、東京・王子(おうじ)の米軍野戦病院反対など、学生の運動は、労働者の反戦青年委員会とともに活発化し、西欧諸国の青年層と同じく、激しい学園紛争、街頭闘争が展開された。

 こうした運動のなかで、日本は安保条約を通じてアメリカと結び、ベトナム人民に対する加害者の立場にたっているという認識がしだいに強まり、安保体制に対する批判や、沖縄、横田、横須賀(よこすか)、相模原(さがみはら)など日本の基地からの米軍の出動に対する反対運動・抵抗闘争も活発に行われた。また、朝霞(あさか)、岩国、横須賀、三沢(みさわ)、沖縄など米軍基地のなかに兵士の反戦組織が生まれ、日本の市民運動はこれを援助した。ベトナム人民への直接援助も大規模に行われ、原水協、平和委などによるベトナム人民支援委員会の募金は5億円に達した。こうした運動のなかで生まれた日本の戦争荷担への認識は、その後の戦争責任論やアジア民衆への補償の運動などへの回路も開いた。

 しかし、1970年代なかばから、新左翼党派間の対立はとみに激化し、ついには殺人を含む「内ゲバ」にまで発展、学生運動、新左翼の運動は急速に大衆的支持を喪失した。74年、ベトナム戦争はアメリカの完全な敗北に終わった。インドシナ人民の不屈の反侵略の闘争とともに、世界の反戦運動による世論の勝利といえた。

[吉川勇一]

第三期

低迷する運動

ベトナム戦争の終結とともに、各国の平和運動は当面の目標を失って低迷期に入った。運動に参加していた青年層の多くは、原子力発電所反対などの反公害・環境保護運動などに転じた。とくに、インドシナにおけるベトナムとカンボジアの対立から、1979年のベトナム軍のカンボジア侵攻、そして中国のベトナム「懲罰」侵入といった事態と、解放されたインドシナ三国からの大量の難民の流出は、平和運動をさらに混迷させた。

 日本の運動も同様な状態に入った。とくに1960年代後半以降の高度成長政策は、労働運動の戦闘性を奪い、70年代の二度にわたるオイル・ショック以後、国民意識の保守化が強まった。そして、80年6月の衆参両院同時選挙での自由民主党の圧勝は、同年11月のアメリカ大統領選挙でのレーガン候補の勝利と相まって、日本の急速な軍事力の拡大と政治の右傾化をもたらしたが、平和運動は有効な抵抗・反撃を組織できなかった。

[吉川勇一]

反核の新しい波

1979年末のソ連によるアフガニスタン侵攻、80年代に入ってのヨーロッパ地域への米ソによる戦域核兵器や巡航ミサイルの配備計画、アメリカの中性子爆弾生産などによって、ヨーロッパ諸国のなかに核戦争の恐怖が急速に広がると、81年から82年にかけて、各国では数十万単位の大反核集会・デモが行われた。日本でも82年3~5月に広島、東京で30万、40万の大行動が組織された。これらの運動は6月のSSDⅡ(第2回国連軍縮特別総会)に向けて収斂(しゅうれん)され、6月にはニューヨークで95万という未曽有の反核デモが組織された。しかし、国連総会は成果をあげず閉幕し、この新しい反核運動の波は持続しなかったし、以後、この種の大規模な大衆運動は行われていない。

[吉川勇一]

湾岸戦争

1990年8月のイラクによるクウェート武力併合に始まる湾岸危機から、91年初頭の対イラク湾岸戦争、そして海上自衛隊掃海艇派遣から秋のPKO(国連平和維持活動)法案提出、そして社会党のいわゆる牛歩による抵抗と同法可決、さらに細川・羽田内閣を経て社会党党首を首班とする内閣の下での社会党の転向など、この4~5年の間の日本の激変は大きかった。

 マスコミや評論家は、湾岸戦争への反体制勢力の対応について、ベトナム反戦運動に比べて鈍く弱かったと評価したが、日本の市民の運動の反応は決して遅くなかった。ベトナム反戦運動を経験した日本の市民は事態に即応する姿勢を学んでいた。しかし、事態の進展はそれを上回って早かった。ベトナム戦争の経験から教訓を学んでいたのは運動の側だけではなかったからだ。アメリカ国防省は、衛星放送時代のマスコミを完全にコントロールし、国連の名を駆使して日本とドイツとに強力な圧力を加え、両国を戦争荷担に組み入れた。また、日本の支配層も、この機を利用して一挙に日本を「ふつうの国」、すなわち軍事力をもって世界の事象に介入しうる国へと推し進めようとした。

 日本のそれまでのいわゆる「護憲」勢力は、日本国憲法の前文がいう「国際社会において、名誉ある地位を占める」には、どのような貢献をなすべきかについての、具体的な方策を原理に基づいて十分に用意していなかった。憲法と同時にいわゆる「護憲意識」も空洞化していた。その弱点をつかれて、旧社会党(現社会民主党)はそれまでの基本的主張を放棄した。戦後平和運動勢力の重要な一角を占めていた総評はすでになく、また戦闘的な学生運動も存在しなくなっており、日本の平和運動は大きな後退を迫られた。

[吉川勇一]

平和運動の問題点

戦後平和運動の主流は、先進資本主義国の運動であった。1955年のバンドン会議での「平和五原則」や、インド、エジプト、キューバあるいはアフリカの新興独立国の主張する非同盟政策が一定の影響を平和運動に与えた時期もあったが、総じて、第三世界の問題や植民地主義の問題になると、西欧の平和運動は活力を失った。50年代末以降、反植民地主義、反帝国主義の問題は、中ソ対立の主要テーマの一つとなり、世界平和評議会や各国の運動にも影響した未解決の問題であった。核兵器の大規模な発達は、人類絶滅の回避を至上命令とする思想を生み出し、それが平和運動に強い影響を与えてきたことは確かである。だが一方、先進資本主義諸国と第三世界の開発途上国との格差は拡大する一方であり、国内の貧富の差も増大している。これら第三世界諸国の運動には、多国籍企業などの過酷な経済的支配に抵抗し、また、大国の支援を受けて成立している軍事政権や独裁政権の打倒を目ざしているものも多い。これらの運動にとって、「交渉による平和」あるいは「核戦争回避のため、いっさいの戦争否定」という主張は、かならずしもそのままには受け入れがたいものだった。

 また、ベルリンの壁の撤去、ソ連、社会主義陣営の崩壊による冷戦の終結は、平和運動の構造にも基本的な影響を与えた。平和運動の優先課題は、世界的な核戦争の回避ではなくなり、アメリカを先頭とする少数大国による世界の一元的支配のなかで、イラク、北朝鮮、あるいは中南米諸国などに対する武力介入や威嚇(いかく)、制裁など、大国の、あるいは国連の名を冠した地域問題への武力行使、その恫喝(どうかつ)などが中心課題となっている。こういう状況のなかで、かつてのような平和運動と民族解放闘争との相対的区別や、環境保全運動と反戦運動との相対的分離もなくなりつつあり、運動は基礎からの再編期に入った。

 1998年初頭のアメリカによる対イラク武力行使への反対運動など、直接的な反戦運動はもちろん展開されているが、それを支えている勢力も、当面の戦争回避だけにとどまらず、現在の支配的制度がもっている差別、不平等、抑圧、人権侵害などの問題をも総合的に視野に入れたものとなりつつある。98年5月のインド、パキスタンの核実験強行は、大国による核独占体制への挑戦の側面をもっており、これも既存のNPT(核不拡散条約)体制の枠組み自体への再検討を迫っている。かつての「平和運動」という範疇(はんちゅう)自体が大きく変化しつつあるといえよう。

 日本の運動のなかでは、共産党など一部政党を除いて、野党や労働運動の占める役割はほとんど消滅した。自衛隊の海外派兵や沖縄における米軍基地問題に関するいわゆる「特措法」(駐留軍用地特別措置法、1997年)などが、議会での論議もほとんどないままに世論の動向と無関係で通過してしまうことから、運動のなかでは非暴力直接行動、あるいは市民的不服従などの行動にも、改めて注目が集まりつつある。また、女性の運動と沖縄民衆の動向が、平和運動のなかで占める役割と影響力が増大している。

[吉川勇一]

『今堀誠二著『原水爆時代』上下(1959、60・三一新書)』『鶴見俊輔編『平和の思想』(『戦後日本思想体系4』1968・筑摩書房)』『日本平和委員会編『平和運動20年運動史』(1969・大月書店)』『吉川勇一他著『反核の論理』(1982・柘植書房)』『R・H・ヘイブンズ著、吉川勇一訳『海の向こうの火事――ベトナム戦争と日本 1965~1975』(1990・筑摩書房)』『吉川勇一編『反戦平和の思想と運動』(1995・社会評論社)』『デイヴ・デリンジャー著、吉川勇一訳『「アメリカ」が知らないアメリカ』(1997・藤原書店)』

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百科事典マイペディア 「平和運動」の意味・わかりやすい解説

平和運動【へいわうんどう】

戦争を防止し,国際平和を維持しようとする自発的・積極的な民衆運動。20世紀初頭から始まった反戦運動は,やがて世界的規模に発展したが,ついに第1次・第2次大戦の勃発(ぼっぱつ)を防ぎ得なかった。第2次大戦後,核兵器の脅威の増大や冷戦の激化の中で生まれた平和運動は,単に戦争に反対するだけでなく,核兵器保有や核実験を禁じ,軍備縮小や軍事同盟廃止を推進し,進んで戦争要因の撤廃を図ろうとしてきた。日本でも,原水爆禁止(原水爆禁止世界大会),憲法擁護,軍事基地反対(基地問題),ベトナム反戦(ベ平連)等を内容とし,全国的規模のものとなった。1975年のベトナム戦争終結は日本の反戦平和運動の当面の目標を消滅させた。加えて1978年―1979年の,ソ連のアフガニスタン侵攻,ベトナム軍のカンボジア侵入,中越戦争等社会主義国間の軍事衝突が相次ぎ,また極東ソ連軍の脅威が喧伝(けんでん)されて自衛隊必要論が起こり,憲法改正論議が活発化したことなどから停滞気味となったが,1992年の自衛隊のPKO参加決定により新たな局面を迎えた。→反戦運動ベルリン・アピール
→関連項目ストックホルム・アピール戦争抵抗者インターナショナル

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「平和運動」の解説

平和運動(へいわうんどう)

平和運動が国際化したのは19世紀末である。再度にわたるハーグ平和会議の議題や合意には,民間平和団体の主張がある程度反映した。平和団体の運動や,反戦を標榜した社会主義インターナショナルも第一次世界大戦の防止には無力だったが,戦後には国際連盟の設立など戦前からの平和運動家の主張が実現した。両大戦間期の海軍軍縮やパリ不戦条約も,平和運動家に希望を与えた。国際秩序崩壊の兆しがみえた1933年にオクスフォード大学学生連盟は不戦決議を行い,翌年には1000万人を超えるイギリス市民が平和投票に参加した。しかし,平和主義はやがてファシスト国家の勢力拡張を助長する結果になったため,平和運動家はジレンマに直面した。第二次世界大戦後の平和運動は冷戦下,核軍拡競争が始まった50年代に,核兵器の禁止を訴えたストックホルム・アピール,科学者の立場から戦争廃絶を求めたラッセル‐アインシュタイン宣言,それを受けて開かれた科学者のパグウォッシュ会議などの形をとって展開し,日本でも原水爆禁止を国際的に呼びかける運動が始まった。ベトナム反戦運動のように具体的な戦争への反発に触発された運動もあったが,20世紀後半の平和運動は主として核軍拡や核拡散に対処するために展開された。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「平和運動」の意味・わかりやすい解説

平和運動
へいわうんどう
peace movement

地球上から戦争をなくし,世界の平和を保持しようとする運動。平和運動の理念や形態にはいくつかあり,その一つは宗教,特にキリスト教の理念を背景として,個人の良心に基づく非戦を主張する運動で,17世紀以降クェーカー教徒を中心に推進され,18世紀にはイギリス,アメリカ両国で大規模な平和協会の設立に成功した。両世界大戦時には「良心的非参戦者」運動の強力な母体となったが,国際的な影響力は限られている。第2次世界大戦後,各国の反戦世論に乗って急速に伸長した世界平和評議会系の諸運動も,ソ連の東欧干渉や中ソ対立の余波を受けて分裂,動揺を続けていた。また,核兵器の発達によって人類滅亡の危険が現実のものとなったことから,個別主権国家の枠組を越えた世界的権威の樹立によって初めて人類の平和を保障しうると主張する世界政府運動や,核兵器廃止運動が起り,特に後者は従来のイデオロギー的な平和運動と異なり,市民が運動のにない手になったという点で 80年代に入って新機軸を開いた。西ヨーロッパ全域に広まった反核平和運動は,やがてアメリカ大陸にも波及し,87年の中距離核戦力 INF全廃条約の締結をもたらすという成果を収めている。

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改訂新版 世界大百科事典 「平和運動」の意味・わかりやすい解説

平和運動 (へいわうんどう)

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世界大百科事典(旧版)内の平和運動の言及

【反戦・平和運動】より

…反戦・平和運動とは,戦争そのもの,あるいは戦争が引き起こされそうな事態そのものに反対する大衆的な運動のことをいう。別な言い方をするならば,戦争と戦争につながる一切のものを拒否する大衆的な運動を総称するといえよう。…

※「平和運動」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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