平安道(読み)へいあんどう(英語表記)P`yǒngan-do

改訂新版 世界大百科事典 「平安道」の意味・わかりやすい解説

平安道 (へいあんどう)
P`yǒngan-do

朝鮮半島北西部の地方。朝鮮八道の一つで,関西地方とも呼ばれる。現在は朝鮮民主主義人民共和国に属し,平安北道(道都,新義州),平安南道(道都,平城市。平壌市の北郊が1968年分離したもの),慈江道(1949新設。道都,江界市)の3道と,平壌および南浦の2直轄市に分かれている。

北部から東部にかけて,本道大部分は標高1500~2000mの狼林山脈やその支脈の狄踰嶺(てきゆれい)山脈・妙香山脈などの険峻な山地によって覆われているが,黄海沿岸には平坦な海岸平野がえんえんと続き,よい対照をなしている。特に大同江中・下流域には平壌平野と楽浪準平原が連なり,北朝鮮最大の平野地帯となっている。楽浪準平原は露出した石灰岩層が広く分布し,カルスト地形がみられる。中国との国境をなす鴨緑江は北部山地の大部分を流域とする朝鮮最長の河川である。冬季には凍結し,徒歩による渡河が可能である。沿岸部の年平均気温は9℃前後,1月は-8~-9℃に下がる。最北部の中江鎮(慈江道)は1月の平均気温が-20℃以下の酷寒地である。年間降水量は900~1000mmだが,年によって変化が大きい。山地部にはカラマツモミなどの亜寒帯性針葉樹林が広く分布する。

李朝が鴨緑江を国境と定め,防備を固めるまで,本道は中国北方勢力の影響を絶えず受けてきた。古くは漢が楽浪郡を設置して支配(前108~後313)し,高句麗,女真族などが入れかわり立ちかわり支配した。高麗王朝に至り,本道の多くを支配下に置き,北界として安北都護府に管轄させた。14世紀末に侵入した中国の紅巾軍を撃破する過程で,李朝創始者の李成桂が本道を朝鮮領に確定させた。李朝は中期以降鎖国政策をとったが,西北辺境の義州では中国と交流する定期市が開かれた。李朝末の開国から日本植民地時代にかけて,朝鮮の中では特に本道にキリスト教を中心とする西欧文明の影響が浸透し,愛国啓蒙運動や抗日独立運動の志士を多数輩出している。日中戦争の開始とともに平壌を中心に兵站(へいたん)基地が建設され,植民地時代末期の水豊ダム発電所竣工以後は鴨緑江下流の新義州軍需工業が発達した。1948年の分断国家成立後,平壌が共和国の首都として拡張,整備された。また,49年には北部内陸の山岳地帯に慈江道が設置された。

黄海沿岸の平野地帯は人工灌漑施設も整い,北朝鮮の代表的な米作地帯となっている。北部山岳地帯は水力資源と山林資源が豊富であり,これを背景に化学繊維,パルプ,家具などの諸工業が新義州を中心に発達している。山間の雲山煕川江界などは工具,工作機械を中心とした特色のある工業都市となっている。また,金(雲山,朔州,宣川など)をはじめ,鉛(文礼,天摩),タングステンニッケルなどの鉱物資源も豊富である。平壌は首都として,政治,経済,文化の中心であるが,その周辺は石炭,石灰石,鉄鉱など地下資源も多数産し,それを背景に重工業から軽工業にいたる北朝鮮最大の総合的工業地帯となっている。特に平安南部炭田(徳山,江東,江西など),平安北部炭田(价川,徳川など)は北朝鮮の無煙炭の大半を生産する炭鉱地帯である。大同江河口の広梁湾は干潟地が広く発達しており,塩田などに利用されている。比較的単調な海岸線には天然の良港がみられないが,竜岩浦南浦(なんぽ)などの港を基地とするグチ,フグなどの漁業が行われている。南浦は平壌の外港の役割を果たすとともに,造船工業の発達がみられ,1979年に直轄市とされた。
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出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

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