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後鳥羽天皇【ごとばてんのう】
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朝日日本歴史人物事典の解説-
生年:
治承4.7.14 (1180.8.6)
没年: 延応1.2.22 (1239.3.28)
鎌倉前期の天皇。高倉天皇と修理大夫坊門信隆の娘殖子(七条院)の子。寿永2(1183)年,平氏が安徳天皇(後鳥羽の兄)を伴って都落ちしたため,祖父後白河法皇の詔によって践祚,尊成と名づけられた。建久3(1192)年院政を行っていた後白河が没し,後鳥羽天皇の親政となったが,実権は関白九条兼実が握り,同7年,兼実の失脚後は源通親に移った。同9年後鳥羽は皇子の土御門天皇に譲位して院政を始め,土御門・順徳(土御門の弟)・仲恭(順徳の子)の3天皇の時代,23年にわたって院政を行い,特に建仁2(1202)年通親の没後は,独裁的な権力を振るった。当時近衛家・土御門家(通親の系統)と九条家との間には激しい対立があったが,後鳥羽上皇はそれを解消し,すべての貴族に支持される体制を樹立しようとした。また近臣坊門信清の娘(後鳥羽の母の姪)を将軍源実朝の妻として鎌倉に下すなど,鎌倉幕府との友好を図った。しかし幕府内での実朝の権限は弱く,執権北条氏らは,上皇が実朝を介して御家人の権益を侵すことを警戒した。承久1(1219)年,実朝が暗殺されるにおよび,上皇は幕府との友好を断念,討幕を決意し,上皇の皇子を将軍に迎えたいとする幕府の要望を拒否した。そのかわりに摂関家から九条(藤原)頼経(兼実の曾孫)が鎌倉に下ることになったが,上皇は内心これにも不満で,討幕計画を進めた。同3年,上皇は執権北条義時追討の宣旨を出して挙兵し,承久の乱が起こったが,幕府が上洛させた大軍の前に上皇方は敗れ,上皇は出家した(法名は金剛理,あるいは良然)。出家の際,藤原信実に肖像を画かせたが,大阪府水無瀬神宮所蔵の画像(国宝)がそれと伝える。幕府は上皇の兄の後高倉法皇に院政をとらせ,仲恭天皇を退位させ,後高倉の子の後堀河天皇を践祚させ,後鳥羽・土御門・順徳の3上皇を配流した。隠岐に流された後鳥羽上皇は,18年間のわびしい生活ののち,同地で没した。隠岐で火葬され,遺骨は山城の大原に移された。御陵は京都市左京区の大原陵であり,島根県隠岐郡海士町には火葬塚がある。 上皇は芸能や武技に多才ぶりを発揮したが,特に和歌に長じ,建仁1年,和歌所を置いてすぐれた歌人を集め,かれらの協力で,元久2(1205)年『新古今和歌集』を勅撰し,隠岐に流されたのちも,みずから追加・削除を行った。上皇は豊かな財力によって水無瀬(大阪府)・鳥羽(京都市)・宇治などに壮麗な院御所を営んだ。社寺への御幸も多く,特に紀伊(和歌山県)の熊野を信仰し,参詣は28回におよんだ。3上皇が流され,天皇が廃立された承久の乱は,日本の歴史上空前の出来事で,貴族間での衝撃は大きく,このような事態を招いた上皇の不徳を非難する思想も強まった。<著作>『後鳥羽院宸記』『世俗浅深秘抄』『後鳥羽院御集』『遠島御百首』『後鳥羽院御口伝』『無常講式』<参考文献>丸谷才一『後鳥羽院』,樋口芳麻呂『後鳥羽院』,上横手雅敬『鎌倉時代政治史研究』
(上横手雅敬)
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世界大百科事典 第2版の解説-
ごとばてんのう【後鳥羽天皇】
1180‐1239(治承4‐延応1)
第82代に数えられる天皇。在位1183‐98年。高倉天皇の第4皇子。名は尊成。母は坊門信隆の娘殖子(七条院)。1183年(寿永2)平氏が安徳天皇を伴って都落ちした後,祖父後白河法皇の詔によって践祚。践祚の後も後白河法皇が院政を行ったが,92年(建久3)法皇の没後は,法皇と対立していた関白九条兼実が実権を握った。源通親ら法皇の旧側近はこれと対立し,96年通親は策謀によって兼実を失脚させ政権を握った。98年後鳥羽天皇は通親の外孫にあたる皇子為仁(土御門天皇)に譲位,上皇として院政をはじめ,1221年(承久3)まで,土御門・順徳・仲恭天皇の3代にわたり院政を行った。・・・
▼後鳥羽天皇について記述のある項目
水無瀬神宮【みなせじんぐう】 新古今和歌集【しんこきんわかしゅう】 鴨長明【かものちょうめい】 承久の乱【じょうきゅうのらん】 水無瀬三吟百韻【みなせさんぎんひゃくいん】 鎌倉時代【かまくらじだい】 建久新制【けんきゅうしんせい】 千五百番歌合【せんごひゃくばんうたあわせ】 藤原定家【ふじわらのさだいえ】 源実朝【みなもとのさねとも】
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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説-
後鳥羽天皇 ごとばてんのう
 
1180-1239 鎌倉時代,第82代天皇。在位1183-98。
治承(じしょう)4年7月14日生まれ。高倉天皇の第4皇子。母は藤原殖子(しょくし)(七条院)。安徳天皇が平氏とともに西国にのがれたため,祖父後白河法皇の命で神器なしに4歳で践祚(せんそ)し,一時天皇がふたりとなった。19歳で譲位した後,土御門・順徳・仲恭天皇の3代23年間院政をしいた。鎌倉幕府の打倒をくわだてたが敗れ(承久(じょうきゅう)の乱),隠岐(おき)に流され,延応元年2月22日配所で死去。60歳。詩歌・書画にすぐれ,藤原定家らに「新古今和歌集」をつくらせた。墓所は大原陵(おおはらのみささぎ)(京都市左京区)。諱(いみな)は尊成(たかひら)。法名は良然。別名に顕徳院,隠岐(おきの)院。
【格言など】人もをし人も恨めし味気(あじき)なく世を思ふゆえに物おもふ身は(「小倉百人一首」)
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デジタル大辞泉の解説-
ごとば‐てんのう 〔‐テンワウ〕 【後鳥羽天皇】
[1180~1239]第82代天皇。在位1183~1198。高倉天皇の第4皇子。名は尊成(たかなり)。祖父後白河法皇の院政下、神器継承なしに即位し、譲位後、土御門(つちみかど)・順徳・仲恭(ちゅうきょう)3帝にわたって院政を執った。北条義時追討を謀って承久の乱を起こしたが失敗、隠岐(おき)に流された。諡号(しごう)ははじめ顕徳院、のち後鳥羽院。蹴鞠・琵琶・笛などの芸能や和歌にもひいで、新古今集を勅撰。日記「後鳥羽院宸記」がある。
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百科事典マイペディアの解説-
鎌倉初期の天皇。高倉天皇第4皇子。在位は1183年―1198年。安徳天皇が平氏とともに都落ちした後,1183年践祚(せんそ)。1198年土御門天皇に譲位して院政をとった。
(1180-1239)
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大辞林 第三版の解説-
ごとばてんのう【後鳥羽天皇】
(1180~1239) 第八二代天皇(在位1183~1198)。名は尊成(たかひら)。高倉天皇の皇子。土御門(つちみかど)天皇に譲位後,三代にわたって院政を行う。1221年(承久3)北条義時追討の院宣を発して鎌倉幕府打倒を試みたが失敗(承久の乱)。隠岐(おき)に配流され,その地で没した。はじめ顕徳院と諡号(しごう)され,のち後鳥羽院と改められた。多芸多才で蹴鞠(けまり)・琵琶(びわ)・箏(そう)などに秀で,特に和歌をよくし,和歌所を設置し,「新古今和歌集」を撰した。隠岐院。歌集「後鳥羽院御集」,歌論集「後鳥羽院口伝」,日記「後鳥羽院宸記」などがある。
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