東福門院(読み)とうふくもんいん

精選版 日本国語大辞典 「東福門院」の意味・読み・例文・類語

とうふく‐もんいん ‥モンヰン【東福門院】

後水尾天皇中宮。名は和子。父は徳川二代将軍秀忠、母は贈従一位崇源院浅井達子。幕府婚姻による朝廷懐柔策で元和六年(一六二〇)入内。明正天皇はじめ一皇子五皇女を産み、後光明・後西・霊元三天皇の養母となる。寛永六年(一六二九国母として院号宣下があり東福門院と称した。慶長一二~延宝六年(一六〇七‐七八

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デジタル大辞泉 「東福門院」の意味・読み・例文・類語

とうふく‐もんいん〔‐モンヰン〕【東福門院】

[1607~1678]後水尾天皇の中宮。徳川秀忠の娘。名は和子。徳川幕府の朝廷対策により、14歳で入内。明正天皇の母。

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改訂新版 世界大百科事典 「東福門院」の意味・わかりやすい解説

東福門院 (とうふくもんいん)
生没年:1607-78(慶長12-延宝6)

江戸前期,後水尾天皇の中宮。2代将軍徳川秀忠の五女,和子(まさこ)。母は浅井長政の三女江与(崇源院)。江戸幕府初期の不安定な朝幕関係の中で,徳川氏の婚姻政策により後水尾天皇の女御として入内した。入内は1614年(慶長19)に決定されたが,大坂の陣や家康の死などでのび,20年(元和6)に実現を見た(和子14歳)。幕府の権力を背景とした婚姻であったが,入内後は和子の温順な性格もあって天皇との関係は良く,23年に一宮興子(明正天皇)を生み,翌年には中宮となり,のちさらに2男4女をもうけた。29年(寛永6)後水尾天皇の譲位にともない院号宣下。当時幕府は,禁中並公家諸法度等により天皇と朝廷に対し法に基づく統制に努めていたが,この入内で将軍は天皇の外戚としての地位をも獲得し,その支配権をより確実なものとした。また入内と同時に女御様御付役人として武士が禁中に常駐するようになり,幕府の朝廷監視体制も強化されるようになった。
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百科事典マイペディア 「東福門院」の意味・わかりやすい解説

東福門院【とうふくもんいん】

徳川秀忠の八女。名は和子(かずこ)/(まさこ)。14歳で入内し,後水尾天皇女御となり,1623年一宮興子(いちのみやおきこ)(明正天皇)を産み1624年中宮となる。1629年院号宣下。徳川氏はこれで朝廷と姻戚(いんせき)関係を初めてもった。なお入内と同時に女御様御付役人として禁中に武士が常駐するようになった。
→関連項目大宮御所寛永文化

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朝日日本歴史人物事典 「東福門院」の解説

東福門院

没年:延宝6.6.15(1678.8.2)
生年:慶長12.10.4(1607.11.23)
江戸前期,後水尾天皇の中宮。江戸幕府2代将軍徳川秀忠と御台所達子(浅井長政の3女。お江与の方,崇源院)の末娘。名は和子。江戸で生まれる。誕生後まもなくから入内が画策されていたようで,慶長17(1612)年には公武間で交渉が進んだ。その後,大坂の陣や徳川家康,後陽成天皇の相つぐ死などがあり延引。さらに御与津御寮人の一件もあり,入内が実現したのは元和6(1620)年6月のことであった。化粧料は1万石。2皇子5皇女を儲けたものの2皇子1皇女は夭折。寛永1(1624)年11月中宮となる。5年後,「紫衣事件」など幕府との軋轢のなか,後水尾天皇が東福門院所生の興子内親王(明正天皇)に突然譲位。これに伴い院号宣下を受けた。その後,後光明(生母は壬生院),後西(生母は逢春門院),霊元(生母は新広義門院)と3代の天皇の養母となる。東福門院の入内は禁裏の財政を支え,後水尾天皇の多くの皇子女の生活を救った。寛永の宮廷文化形成に欠くべからざる存在である。墓所は京都泉涌寺山内の月輪陵。<参考文献>熊倉功夫『後水尾院』

(久保貴子)

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「東福門院」の意味・わかりやすい解説

東福門院
とうふくもんいん

[生]慶長12(1607).10.4. 江戸
[没]延宝6(1678).6.15. 京都
後水尾天皇の中宮和子。父は徳川秀忠,母は浅井長政の娘徳子。徳川氏は『禁中並公家諸法度』を公布して朝廷を押える一方,婚姻政策で朝廷を懐柔しようとした。元和6 (1620) 年和子は 14歳で女御となり,寛永1 (24) 年皇后に冊立されて明正天皇をはじめ,2皇子,5皇女を産んだ。同6年院号宣下,後光明,後西,霊元の3天皇の養母となった。陵墓は京都市東山区今熊野の月輪陵。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「東福門院」の解説

東福門院 とうふくもんいん

1607-1678 江戸時代前期,後水尾(ごみずのお)天皇の中宮(ちゅうぐう)。
慶長12年10月4日生まれ。徳川秀忠の娘。母はお江与(崇源院)。元和(げんな)6年14歳で後水尾天皇の女御(にょうご)となる。9年興子(おきこ)内親王(明正(めいしょう)天皇)を生み,寛永元年中宮。6年院号をさずけられる。延宝6年6月15日死去。72歳。江戸出身。名は和子(かずこ)((まさこ))。
【格言など】武蔵野の草葉の末にやどりしかみやこの空にかへる月かげ(辞世)

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「東福門院」の解説

東福門院
とうふくもんいん

1607.10.4~1678.6.15

後水尾(ごみずのお)天皇の中宮。名は和子(まさこ)。2代将軍徳川秀忠の女。母は浅井長政の女崇源院。1620年(元和6)6月女御として入内。2皇子5皇女を生んだが,うち2皇子1皇女は夭折。24年(寛永元)11月中宮。29年11月後水尾天皇が興子内親王(明正(めいしょう)天皇)に譲位したのにともない,院号宣下をうけた。その後3代の天皇の養母にもなり,皇族への物心両面にわたる援助に心を砕いた。

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旺文社日本史事典 三訂版 「東福門院」の解説

東福門院
とうふくもんいん

1607〜78
江戸前期の後水尾天皇の中宮
2代将軍徳川秀忠の娘,名は和子 (まさこ) 。幕府の朝廷懐柔政策のため結婚,女帝明正 (めいしよう) 天皇をはじめ,2皇子5皇女を生んだ。

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367日誕生日大事典 「東福門院」の解説

東福門院 (とうふくもんいん)

生年月日:1607年10月4日
江戸時代前期の女性。徳川秀忠の娘で、後水尾天皇の皇后
1678年没

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「東福門院」の意味・わかりやすい解説

東福門院
とうふくもんいん

徳川和子

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