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柳沢吉保【やなぎさわ・よしやす】
8件の用語解説(柳沢吉保で検索)
朝日日本歴史人物事典の解説-
生年:
万治1 (1658)
没年: 正徳4.11.2 (1714.12.8)
江戸中期の幕臣,大名。通称は主税,弥太郎。諱は初め房安,保明。初め幕臣,のち徳川綱吉に付属して館林藩士となった安忠の子。延宝3(1675)年父の家督(知行160石,廩米370俵)を相続して綱吉に仕え,小性組を勤めた。8年綱吉の将軍家相続に伴って幕臣に加えられ,小納戸となった。天和1(1681)年には300石を加増されたうえ,廩米を改められて830石を知行す。貞享1(1684)年200石加増。翌2年従五位下出羽守に叙任され,3年にも1000石加増。元禄1(1688)年側用人に昇進して1万石を加増され,大名に取り立てられた。3年2万石,5年3万石,7年にも1万石を加増されて7万2030石を領し,武蔵国川越城主となった。その間,3年に従四位下に昇り,7年には初めて評定の席に出座を許され,侍従に任じ,老中格に昇進。10年2万石加増。翌11年には左近衛少将に任ぜられて老中より上席となり,14年には松平の家号を許されるとともに,綱吉の諱の1字を与えられて美濃守吉保と称した。 元禄15年にも2万石加増。宝永1(1704)年には,綱吉が甲府藩主徳川家宣を継嗣に定めたときの功労により3万9200石余を加増され,家宣の旧領であった甲斐・駿河両国のうち15万1200石余を賜った。さらに翌2年,駿河国の領知を甲斐国のうちに移されて山梨・八代・巨摩3郡一円を領することになったが,その実高は22万8700石余にもおよんでいた。宝永6年綱吉の死後隠居し,駒込の別荘六義園(東京都文京区)で没した。異例の出世をしたため,権勢欲の強い人と思われがちであるが,むしろ誠実な人柄で,その出世は,毀誉褒貶の激しい綱吉に忠勤第一に仕えた結果とみられる。元禄3年当時の諸大名を調査し編纂した『土芥寇讎記』という書にも,「信アレバ徳アル故ニ,上意ニモ叶ヒ,家繁昌スト見ヘタリ」と記載されている。
(深井雅海)
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世界大百科事典 第2版の解説-
やなぎさわよしやす【柳沢吉保】
1658‐1714(万治1‐正徳4)
江戸幕府5代将軍徳川綱吉の寵臣。初名房安,保明(やすあきら),通称弥太郎。父安忠は館林藩時代の綱吉に仕え,勘定頭を務め,知行高160石と蔵米370俵を受けた。保明は1675年(延宝3)相続,綱吉の小姓を務め,80年綱吉の将軍就任に従って幕臣に加えられ,小納戸となった。その後頻繁に昇進,加増を受け,85年(貞享2)従五位下出羽守に叙任。88年(元禄1)側用人に昇り,1万2000石の大名となる。90年従四位下に昇進,2万石加増。・・・
▼柳沢吉保について記述のある項目
六義園【りくぎえん】 側用人【そばようにん】 甲州金【こうしゅうきん】 川越藩【かわごえはん】 甲斐国【かいのくに】 柳沢騒動物【やなぎさわそうどうもの】
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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説-
柳沢吉保 やなぎさわ-よしやす
 
1659*-1714 江戸時代前期-中期の大名。
万治(まんじ)元年12月18日生まれ。柳沢安忠の子。5代将軍徳川綱吉の小納戸(こなんど)役から元禄(げんろく)元年側用人(そばようにん),7年武蔵(むさし)川越藩(埼玉県)藩主となり老中格にすすみ,14年松平姓をゆるされる。荻生徂徠(おぎゅう-そらい)らを登用し文治政治を推進。宝永元年15万石余に加増され,甲斐(かい)(山梨県)府中藩主柳沢家初代となる。6年綱吉没後に隠居。正徳(しょうとく)4年11月2日死去。57歳。初名は房安,保明(やすあきら)。通称は弥太郎。号は保山,元養。著作に「常応録」など。
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江戸・東京人物辞典の解説- 1658〜1714(万治元〜正徳4)【側用人】五代綱吉の寵愛を一身に受け、破格の出世を遂げた側用人。 将軍綱吉の側近。綱吉が将軍就任以前の上野国館林藩主の頃から綱吉に仕えた。綱吉が将軍となって幕臣となってからは、数度の加増と昇進で、500石余りから15万石を超える大名に異例の出世を遂げた。老中上座として幕府最高権力者となり、元禄時代の幕政を主導した。松平姓と綱吉の一字を賜り、松平吉保と改名するなど、将軍のあまりの寵愛に様々な憶測も流れたが、川越藩主としての評判もよく、実直な人柄だったという。
監修:江戸東京博物館 都市歴史研究室長 北原 進
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美術人名辞典の解説- 江戸前・中期の老中。名は保明・房安、通称主悦・弥太郎、号は保山。安忠の子。吉里の父。徳川綱吉の小姓から川越藩七万石、老中上座、松平の姓を与えられ美濃守吉保となり、甲府藩十五万石を領する。学問の奨励・荻生徂徠の登用等文治政治の推進者として評価される。正徳4年(1714)歿、57才。
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百科事典マイペディアの解説-
江戸前期の幕府重臣。名は保明(やすあきら)。幼少から館林(たてばやし)藩主徳川綱吉に仕え,1680年綱吉が将軍になると側用人に登用された。その後,1694年川越藩主(7万余石)で老中格,1698年大老格,1704年甲府藩主(15万石)と異例の出世ぶりを示した。
(1658-1714)
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デジタル大辞泉の解説-
やなぎさわ‐よしやす 〔やなぎさは‐〕 【柳沢吉保】
[1658~1714]江戸中期の大名。徳川綱吉の側用人となり、やがて老中格から大老格となって甲府15万石を領した。文治政策を推進したが、綱吉の失政の責任を一身に負わされ、綱吉死後は隠棲。
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大辞林 第三版の解説-
やなぎさわよしやす【柳沢吉保】
(1658~1714) 江戸中期の老中。将軍綱吉の信を得て,側用人(そばようにん)として幕政を掌握,文治政治を推進。川越藩七万石,ついで甲府藩一五万石に封。綱吉の死後は隠棲。
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柳沢吉保に近い言葉→柳沢吉里|柳沢|野沢吉兵衛(3代)|野沢吉兵衛(6代)|野沢吉兵衛|野沢吉兵衛(4代)|野沢吉兵衛(7代)|野沢吉兵衛(2代)|野沢吉兵衛(8代)|野沢吉兵衛(5代)
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