桜田治助(初代)(読み)さくらだ・じすけ

朝日日本歴史人物事典 「桜田治助(初代)」の解説

桜田治助(初代)

没年:文化3.6.27(1806.8.11)
生年享保19(1734)
江戸歌舞伎中興の祖と位置づけられる歌舞伎狂言作者。初名田川治助,津村治助,堀越治助。俳名左交。江戸本石町一丁目河岸の薪炭商の子。通称を笠屋善兵衛,幼名治三郎などと伝えられるが不詳。狂言作者三宅(津村)清蔵の世話で劇界に入り,25歳で狂言方見習いとなる。29歳から4年間京都で修業し,江戸に戻ってのち明和4(1767)年11月3代目市川団蔵の取り立てで立作者となる。2年後には4代目市川団十郎を中心とする「市川揃え」と呼ばれる大一座の作者に抜擢され,安永2(1773)年11月の「御摂勧進帳」の大当たりで人気作者の地位を不動にする。「天明ぶり」を代表する作風で,ことに4代目松本幸四郎に書いた顔見世狂言二番目の世話場「雪ふりの場」などは,洒落た台詞,華やかな趣向,思い付きのよい見立てなどで人気を呼び,「花の江戸の桜田」とたたえられた。52歳から3年ほど劇界を離れたが,復帰してのちは73歳で死ぬまで台本を書いた。最盛期は安永~天明期(1772~89)で,戯作者の山東京伝と共に,町人出身の作者として文壇,劇壇に新風を起こした。 根っからの芝居好きで,勘当されて預けられた上野国佐野(高崎市)でも,手習いの師匠をしながら子供たちに芝居を教えたという。また,大の吉原好きで,毎夜廓に行かねば寝られなかったともいう。芝居と遊里が生んだ作者であった。江戸の豊後節浄瑠璃の作詞もよくし,常磐津の「戻駕色相肩」,富本の「花川戸身替の段」などに,その特色がよく表されている。語り物としての浄瑠璃のなかに,局面本位の長唄の所作事の小唄尽くしの性格を取り込み,舞台面に多彩な変化を可能にした。また,浄瑠璃の詞章に漢語俗語を入れた壕越二三治の「菜陽風」を慕い,その堅い表現を廓言葉などで和らげ洗練した。その作風は「桜田風」と呼ばれ,没後,本所柳島妙見(法性寺,墨田区業平)に治助の辞世の句「花清し散ても浮む水の上」を刻んだ浄瑠璃塚が建立された。桜田風は,門弟の福森久助,2代・3代目桜田治助らの所作事のなかに継承されていった。<参考文献>大久保忠国「初世桜田治助研究資料」(守随憲治編『国劇研究』1942年9月号),河竹繁俊『歌舞伎作者の研究』

(古井戸秀夫)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「桜田治助(初代)」の解説

桜田治助(初代) さくらだ-じすけ

1734-1806 江戸時代中期-後期の歌舞伎作者。
享保(きょうほう)19年生まれ。江戸の人。壕越二三治(ほりこし-にそうじ)に師事し,一時京坂で上方狂言をまなぶ。明和6年市川団十郎一座の立(たて)作者となり「御摂勧進帳(ごひいきかんじんちょう)」などの当たり狂言をかく。浄瑠璃(じょうるり)の作詞者としても知られ,作品に常磐津(ときわず)「戻駕色相肩(もどりかごいろにあいかた)」など。文化3年6月27日死去。73歳。号は柳井隣,花川戸。屋号は成田屋。俳名は左交。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

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