出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報
神奈川県南部,三浦半島の大部分を占める市。浦賀水道をはさんで房総半島に対する。1907年横浜市に次いで県内2番目に市制をしき,1933年海軍からの要請で,隣接の田浦町,衣笠(きぬかさ)村を合併,その後も久里浜村,逗子町,浦賀町などを合併して市域を拡大し,第2次大戦後,50年に逗子が分離・独立し,現在の市域となった。人口41万8325(2010)。
海岸線は屈曲に富むことから良港が多く,古くから漁業と水運が盛んであった。古くは東海道が走水(はしりみず)付近から上総(かずさ)国に通じ,記紀は日本武尊東征のおり,弟橘媛(おとたちばなひめ)が走水の海で入水したと伝える。この地に勢力をもち源頼朝の挙兵に応じた三浦氏も衣笠城が落ちた後,安房国に渡っている。浦賀は後北条氏の水軍の拠点で,江戸中期以降浦賀番所,浦賀奉行所が置かれ,干鰯(ほしか)問屋が繁栄した。幕末にはイギリス船,アメリカ船が浦賀沖に来航し,1853年(嘉永6)ペリーが久里浜に上陸した。
幕末のころ,東京湾に突出する横須賀,箱崎の2小半島に囲まれた横須賀湾が良港として注目され,1866年(慶応2)湾奥部に横須賀製鉄所が設立された。これが明治政府の横須賀造船所となり,海軍に引き継がれた。84年,横浜の東海鎮守府が横須賀に移されて横須賀鎮守府となった。1903年には造船所は海軍工厰となり,以後諸施設が置かれ日本海軍最大の軍港に発展した。石川島造船所(現,石川島播磨重工業),浦賀船渠(ドツク)(現,住友重工業)など民間の造船業も発達した。一方,陸軍は東京湾要塞司令部を横須賀に置き,三浦半島一帯の要塞化を図った。戦後,横須賀港は貿易港となったが,横須賀本港はアメリカ海軍と海上自衛隊の専用となっている。そのため小川町の地先海面が埋め立てられ1974年に横須賀新港が完成し,自動車の輸出などに利用されている。近年丘陵地の開発が進み,南部の浦賀・久里浜地区には大規模な住宅団地がある。東京湾岸の馬堀(まぼり)海岸も埋め立てられ住宅地となっている。JR横須賀線は市域内を田浦から久里浜に通じるが,海軍用にしかれた性格が強い。1930年に浦賀,42年に久里浜まで通じた京浜急行線が横須賀の市街部を結び,その横須賀中央駅が都心部の核となっている。日本で最初の洋式灯台のある観音崎,水と音と光の公園,三笠公園,桜の衣笠山など観光地も多い。
→三浦半島
執筆者:伊倉 退蔵
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
…北帯には円海山,天台山,鷹取山などがあり,中帯には二子山,畠山,南帯に半島の最高所大楠(おおぐす)山(241m),武山,富士山がある。半島の海岸線は屈曲に富み,東京湾岸には長浦湾,横須賀湾,浦賀水道には浦賀湾があり,いずれも良港となっている。相模湾岸には北から鎌倉,逗子,葉山と続く砂浜海岸があって良好な海水浴場となり,南端の三崎台地の西岸には小網代(こあじろ),油壺,諸磯(もろいそ)の小湾入が溺れ谷の地形を示し,ヨットハーバーとなっている。…
※「横須賀」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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