洲崎(読み)スノサキ

デジタル大辞泉 「洲崎」の意味・読み・例文・類語

す‐の‐さき【洲崎】

千葉県房総半島西端の岬。この岬と三浦半島剣崎を結んだ線が浦賀水道入り口となる。洲崎灯台がある。すさき。

す‐さき【×洲崎】

《「すざき」とも》
州が海中または河中に長く突き出て岬のようになった所。
「―にさはぐ千鳥の声は」〈平家・八〉
1の形の模様
「萌黄色に染鹿子の―」〈浮・胸算用・五〉

すさき【洲崎】[地名]

東京都江東区の旧地名。木場の東隣で、元禄年間(1688~1704)に埋め立てられ、弁天社ができた。明治21年(1888)根津から遊郭が移転し発展。

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精選版 日本国語大辞典 「洲崎」の意味・読み・例文・類語

す‐の‐さき【洲崎】

千葉県館山市、房総半島南西端の岬。三浦半島の剣崎と対して東京湾湾口を押え、房総半島の海岸を内房(うちぼう)と外房(そとぼう)とに分ける。洲崎灯台がある。すさき。

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日本歴史地名大系 「洲崎」の解説

洲崎
すさき

寺分てらぶん梶原かじわら山崎やまざき一帯の古称。須崎とも書き、元弘三年(一三三三)五月、鎌倉幕府滅亡の際、攻撃する新田義貞以下の軍と、防御の北条軍との間で激戦が行われた古戦場。京浜急行電鉄有料道路の急坂の途中に「洲崎古戦場」の石碑が立つ。

「太平記」によれば、新田軍を防ぐため、武蔵・相模出羽・奥州の軍六万余騎を率いた執権北条守時は五月一八日洲崎に向かい、日に五、六度まで白兵戦を敢行したが、ついに非勢とみて切腹し、侍大将南条高直ら九〇余人も自殺し、攻撃軍は一八日夜、やまうちまで侵入に成功したという。

洲崎
すざき

[現在地名]敦賀市川崎町

しようノ川の河口の浜。天正六年(一五七八)正月の敦賀斤屋惣中申状(道川家文書)に「すさきの浜」、慶長三年(一五九八)七月の津内村検地帳(田保家文書)に「すさき」とみえる。「敦賀志」は

<資料は省略されています>

と記す。安政四年(一八五七)頃には勧進相撲も興行されている(「朝嵐常右衛門相撲場所拝借願書案」岩谷家文書)。また「敦賀志」にみえる高灯籠は享和二年(一八〇二)に庄山清兵衛が屋敷内に建造したもので高さ三丈、日本海側最古の灯台ともいわれる(市指定文化財)

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百科事典マイペディア 「洲崎」の意味・わかりやすい解説

洲崎【すさき】

東京都江東区南部,東陽1丁目(旧洲崎弁天町)地区。元禄年間海岸の低湿地を埋め立てて弁天をまつったのに始まる。1881年以来洲崎遊廓が置かれたが,1958年廃止。埋立地は臨海工業地区。洲崎神社(弁天社)がある。
→関連項目深川

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「洲崎」の意味・わかりやすい解説

洲崎
すのさき

千葉県南西部,館山市の南西に突出する岬。房総半島の内海側と太平洋側,すなわち内房外房との分岐点。灯台や洲崎神社があり,露地栽培の花畑が続き,一帯は南房総国定公園に属する。

洲崎
すさき

東京都江東区中西部,隅田川の河口東岸の旧町名。現在の東陽1丁目周辺にあたる。江戸時代中頃から陸化した隅田川の沖積低地で,寛政3 (1791) 年には津波の災害を受けた記録がある。南部の埋立て地には金属,機械工業が発展した。洲崎神社などがある。

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世界大百科事典(旧版)内の洲崎の言及

【館山[市]】より

…海岸は無霜地帯で,花卉の促成栽培が盛んであり,船形港と館山港はカツオ船への生餌の供給地として知られる。洲崎には源頼朝が信仰した洲崎神社があり,洲崎踊,湯華(湯立)の神事が行われる。また1792年(寛政4)完成の台場や灯台もある。…

【剣崎】より

…〈けんざき〉と俗称されることもある。対岸の房総半島の洲崎(すのさき)とともに東京湾口にあたる浦賀水道の関門である。標高28mの海食台上に1871年(明治4)創建の灯台がある。…

※「洲崎」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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