清原武衡(読み)キヨハラノタケヒラ

デジタル大辞泉 「清原武衡」の意味・読み・例文・類語

きよはら‐の‐たけひら【清原武衡】

[?~1087]平安後期の武将武則の子。後三年の役で、家衡とともに清衡源義家の軍と争い金沢の柵で敗れ、殺された。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「清原武衡」の意味・わかりやすい解説

清原武衡
きよはらのたけひら
(?―1087)

平安後期の武将。出羽山北(でわせんぽく)の俘囚主(ふしゅうしゅ)清原光頼(みつより)の弟武則(たけのり)の子。武貞(たけさだ)の弟。「清原氏系図」の一本に「将軍三郎、住奥州岩城(いわき)郡」とある。岩(磐)城は南にすぎるとして「岩手郡」とする説もあるが、岩城は勿来関(なこそのせき)が置かれた要地なので、鎮守府将軍になった武則が三男であろう彼をそこに配しておいたものと考えられる。1083年(永保3)後(ご)三年の役が起こり、甥(おい)の家衡(いえひら)が沼柵(ぬまのき)で陸奥守(むつのかみ)源義家(よしいえ)を撃退すると、名将を破るは家門の名誉と甥に与同し、拠点を金沢柵(かねさわのき)に移させた。義家・清衡(きよひら)軍の包囲と対抗、善戦したが兵粮(ひょうろう)攻めにあい、弱気になって敵の副将源義光(よしみつ)を頼り降伏を申し出たが、義家は認めず、寛治(かんじ)元年11月14日金沢柵落城により斬首(ざんしゅ)となる。

[新野直吉]

『新野直吉著『古代東北の覇者』(中公新書)』『新野直吉著『古代東北史の人々』(1978・吉川弘文館)』

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改訂新版 世界大百科事典 「清原武衡」の意味・わかりやすい解説

清原武衡 (きよはらのたけひら)
生没年:?-1087(寛治1)

平安後期の奥羽の武将。鎮守府将軍武則の子。後三年の役(1083-87)において甥の家衡とともに金沢柵(現,秋田県仙北郡美郷町の旧仙南村,横手市)に立てこもって源義家らと戦い,落城のときに捕らえられて斬られた。1086年(応徳3)清原家衡は沼柵(現秋田県横手市,旧雄物川町)に義家を迎え撃ち,大雪を利してこれを撃退したが,これを聞いた武衡は,義家ほどの名将に勝つとは家の名誉である,といって,家衡を金沢柵に誘い,ともに立てこもったという。
執筆者:

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朝日日本歴史人物事典 「清原武衡」の解説

清原武衡

没年:寛治1.11.14(1087.12.11)
生年:生年不詳
平安後期の東北地方の豪族。将軍三郎と称する。父は前九年の役(1051~62)で活躍した鎮守府将軍の武則。後三年の役で沼柵(秋田県雄物川町または大曲市)に立て籠もり源義家軍をうち破った清原家衡を一族の名誉とほめたたえ,みずから参軍して沼柵より強固な金沢柵(横手市金沢)に立て籠もって抗戦することを進言した。しかし,義家軍が徐々に金沢柵を包囲すると形勢の不利を覚り,義家の弟義光に頼って降伏を申し入れた。家衡の乳母千任丸に父の悪口をいわれたのを怨んだ義家は拒み,柵内の武士や家族を惨殺した。捕らわれた武衡は義光を通じて命乞いをしたが,首をはねられ,その首を舌を抜かれた千任丸に踏ませたという。

(朧谷寿)

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百科事典マイペディア 「清原武衡」の意味・わかりやすい解説

清原武衡【きよはらのたけひら】

平安後期の奥羽の武将。武則の子。1086年沼柵(秋田県横手市または大仙市)で陸奥守源義家らの軍を撃退した甥の家衡を,翌年沼柵より堅固な金沢(かねざわ)柵(現同県横手市)に誘い,ともに籠城して戦ったが敗死した。→前九年・後三年の役

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「清原武衡」の解説

清原武衡 きよはらの-たけひら

?-1087 平安時代中期-後期の武人。
清原武則(たけのり)の子。清原武貞(たけさだ)の弟。清原家衡(いえひら)の叔父。出羽(でわ)山北(せんぼく)(秋田県)の豪族。後三年の役で家衡が藤原清衡(きよひら),源義家(よしいえ)を撃退すると,家衡に荷担し金沢柵(かねざわのさく)に拠点をうつすようすすめてともにこもったが,兵糧攻めにあって捕らえられ,寛治(かんじ)元年11月14日斬首(ざんしゅ)された。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「清原武衡」の解説

清原武衡
きよはらのたけひら

?~1087.11.14

平安後期の武将。武則の子。将軍三郎と称す。後三年の役では,甥の家衡を支援して清原清衡・源義家と戦った。1086年(応徳3)沼柵(現,秋田県横手市雄物川町)での戦に勝利を収めた家衡に,金沢柵(現,秋田県横手市)に移ることを進言。翌年同柵で2人は抗戦したが,義家軍の兵粮攻めに苦戦。投降を申し入れたがうけいれられず,捕らえられて義家に助命を願ったが殺された。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「清原武衡」の意味・わかりやすい解説

清原武衡
きよはらのたけひら

[生]?
[没]寛治1(1087)
平安時代後期の武将。武則の子。後三年の役に,甥家衡と出羽金沢柵に拠り,源義家と戦ったが,敗死した。

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旺文社日本史事典 三訂版 「清原武衡」の解説

清原武衡
きよはらのたけひら

?〜1087
平安中期の武将。奥羽の豪族
武則 (たけのり) の子。後三年の役(1083〜87)に際し,甥の家衡を助けて金沢柵に拠り藤原清衡・源義家らに抗戦,敗れて殺された。

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世界大百科事典(旧版)内の清原武衡の言及

【後三年の役】より

…1083年(永保3)から87年(寛治1)まで,陸奥守源義家と清原一族の間で戦われた乱。清原氏ははじめ出羽国仙北3郡の豪族であったが,前九年の役のあとで安倍氏の旧領の奥6郡をあわせて,奥羽最大の勢力になった。しかしその一族内部には複雑な対立が存在した。乱の直接の契機は清原武貞の3人の子の対立にある。この兄弟は,嫡子の真衡が先妻の子,家衡が後妻安倍氏(安倍頼時の娘,藤原経清の後家)との間の子,清衡がその後妻の連れ子という複雑な関係にあった。…

※「清原武衡」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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