石川(読み)いしかわ

精選版 日本国語大辞典 「石川」の意味・読み・例文・類語

いし‐かわ ‥かは【石川】

[1] 〘名〙
① 小石が多く底の浅い川。
※書紀(720)神代下・歌謡「天離(あまさか)る 鄙(ひな)つ女の い渡らす迫門(せと) 以嗣箇播(イシカハ) 片淵」
② 江戸時代、河川を大河、小河、石川、砂川、泥河、谷川に分けたうちの一つ。〔地方凡例録(1794)〕
③ 「あまのがわ(天川)①」の異名。
※新撰菟玖波集(1495)発句下「石河や踏むあと遠き逢瀬哉〈宗伊〉」
[2]
[一] 京都の鴨川(賀茂川)の異名。
※新古今(1205)神祇・一八九四「いしかはや瀬見の小川の清ければ月も流れを尋ねてぞすむ〈鴨長明〉」
[三] 沖縄本島中部の旧市。第二次大戦後、一時アメリカの民政、軍政の中心地となる。昭和二一年(一九四六)市制。平成一七年(二〇〇五)、具志川市、与那城町、勝連町と合併してうるま市になる。
[四] 福島県南東部の郡。阿武隈山地南西部の山間地にある。
[五] 石川県南東部の郡。北半は手取川扇状地で、南半は白山山地。現在は大半が金沢・白山市域。
[六] 大阪府の南東端にあった郡。明治二九年(一八九六)南河内郡に統合され消滅。

いしかわ いしかは【石川】

姓氏の一つ。

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デジタル大辞泉 「石川」の意味・読み・例文・類語

いしかわ【石川】[姓氏]

姓氏の一。
[補説]「石川」姓の人物
石川倉次いしかわくらじ
石川光明いしかわこうめい
石川五右衛門いしかわごえもん
石川三四郎いしかわさんしろう
石川淳いしかわじゅん
石川丈山いしかわじょうざん
石川啄木いしかわたくぼく
石川武美いしかわたけよし
石川達三いしかわたつぞう
石川千代松いしかわちよまつ
石川豊信いしかわとよのぶ
石川郎女いしかわのいらつめ
石川女郎いしかわのいらつめ
石川雅望いしかわまさもち
石川利光いしかわりこう

いしかわ【石川】[地名]

中部地方日本海に面する県。もとの加賀能登の2国にあたる。県庁所在地金沢市。人口117.0万(2010)。
沖縄島中央部にあった市。伊波いは城跡・伊波貝塚がある。平成17年(2005)4月に具志川ぐしかわ市、与那城よなしろ町、勝連かつれん町と合併してうるま市となる。→うるま
京都の賀茂川の異称。
「―や瀬見の小川の清ければ月も流れを尋ねてぞすむ」〈新古今・神祇〉

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改訂新版 世界大百科事典 「石川」の意味・わかりやすい解説

石川[県] (いしかわ)

基本情報
面積=4185.47km2(全国35位) 
人口(2010)=116万9788人(全国34位) 
人口密度(2007)=279.5人/km2(全国23位) 
市町村(2011.10)=10市9町0村 
県庁所在地=金沢市(人口=46万2361人) 
郷土の花クロユリ 
県木=アテ 
県鳥=イヌワシ

本州中央部の日本海沿岸にあり,日本海に長く突出した能登半島と,その基部を占める。東西99.6kmに対し,南北はその2倍の198.8kmある。東は富山県および岐阜県,南は福井県に接する。

先史・古代を通じて本県文化の特徴は,その地理的位置から,つねに近畿地方と東日本,ことに越後平野の影響をうけていたということであろう。時期により強弱の差はあるが,このことが本県の古文化の性格を最も強く規定していたとみてよい。先土器文化については,灯台笹(とだしの)遺跡(能美市)などが知られているが,調査・研究はこれからである。

 縄文文化は早期から晩期までの長い期間,ある時は近畿の,またある時は東日本の影響をうけつつ,能登地区と加賀地区とを主たる文化圏として変遷をとげた。このなかで有名な母子像土偶を出土した上山田貝塚(かほく市)は中期に属し,石囲中から御物石器が出土したことで知られる御経塚遺跡(石川郡野々市町)は晩期が中心の大規模な馬蹄形集落址である。近年,近森遺跡(金沢市)や真脇遺跡(鳳珠郡能登町)の調査で縄文後・晩期の巨大柱列などが明らかにされた。

 本県が本格的に弥生文化の波に浴するのは中期からと思われる。柴山出村(しばやまでむら)遺跡(加賀市)の土器や小松式が標式である。仿製内行花文鏡を出土した次場(すば)遺跡(羽咋市)や各種木器を出土した猫橋遺跡(加賀市)は,それぞれ能登地区と加賀地区とを代表する,ともに後期の標式遺跡である。

 古墳時代では,塚崎遺跡(金沢市)が初期(4世紀前半)の集落址で,付近には方形周溝墓方形台状墓も確認されている。能美古墳群(能美市)には方形周溝墓をはじめ前期から後期までの80基にのぼる古墳があり,この地域における弥生後期から古墳時代後期に至る支配者集団の推移を知ることができる。能登古墳群(鹿島郡中能登町)は能登半島の基部,邑知潟低地帯の中枢部に位置し,うち小田中親王塚古墳は4世紀代の北陸最大の畿内型円墳である。しかし本県で圧倒的に多いのは,後期の群集墳および法皇山横穴群(加賀市)などの横穴墓群である。古墳時代で忘れることのできないのは片山津玉造遺跡(加賀市)で,これは4世紀後半~5世紀半ばにかけての玉つくり専業集団の工房を伴う集落址として,日本で初めて調査された遺跡である。

 歴史時代では,能登半島北東端にある中世窯址群,珠洲(すず)古窯址群(珠洲市,鳳珠群能登町)をあげなければならない。ここでは12世紀中葉~16世紀に伝統的な須恵器の製作技法を踏襲して大甕,すり鉢などを量産し,折しも発達してきた海運に依存しつつ,日本海沿岸各地に商圏を広げ,北海道に至るまで製品を供給した。

明治以前は加賀国,能登国にあたり,近世には加賀藩(金沢藩)と支藩の大聖寺藩が置かれたほか,白山山麓と能登に天領があった。1871年(明治4)廃藩置県をへて大聖寺県は金沢県に合併されたが,能登国と越中国射水(いみず)郡は七尾県として分離した。72年金沢県は石川県と改称し,足羽(あすわ)県から白山山麓を,七尾県から能登を合併した。76年新川県と敦賀県の一部を併せたが,81年福井県,83年富山県が再置され,現在の県域が定まった。
加賀国 →能登国

北陸地方の屈曲部にあり,能登半島が突出する石川県は東西に狭く南北に長い回廊のような形をしている。その地形は羽咋(はくい)郡と河北郡の境で大きく加賀と能登に分けられる。加賀地方は大まかにいえば白山火山を中心とする山地(両白山地北部)と金沢平野に分けられる。山地部は南東端にある白山御前峰(ごぜんみね)(2702m)を直角頂として日本海の海岸線の斜辺に向かって大きく傾斜した直角三角形のような形をしている。この斜面を北から津幡川,森下(もりもと)川,金腐(かなくさり)川,浅野川,犀(さい)川,手取川,梯(かけはし)川,動橋(いぶりはし)川,大聖寺川の諸河川が流下し,その下流部に日本海の海岸線に沿って帯状の金沢平野が形成されている。手取川は県下最大の河川で幹川流路延長72kmに及び,金沢平野の中央部に白山市の旧鶴来町を扇頂部とする大規模で標式的な手取川扇状地を形成している。金沢平野は長さ約55km,幅は最も広いところで15kmあり,海岸線には砂丘が発達し,砂丘の内側には,南では加賀三湖(うち今江潟は干拓で消滅),北には河北潟(一部は干拓)があり,その周辺は低湿地となっている。

 能登半島は海に囲まれた丘陵の多い土地で,宝達(ほうだつ)丘陵が白山山系の北端から北東へ大きく弧を描き,その南端近くに能登の最高峰宝達山(637m),北端近くに修験道の山として知られる石動(いするぎ)山(556m。史)がある。能登半島の基部を南西から北東方向に斜めに走っている邑知(おうち)潟低地帯は能登半島での最大の平野である。この低地帯の北方では,半島の脊梁をなす奥能登丘陵が北東へ大きく弧を描いてのびる。最高点は輪島市にある高洲(こうのす)山(567m),次いで同市と珠洲(すず)市の境にある宝立(ほうりゆう)山(469m)で,これらを除けば一般に標高200~300mの準平原状の低い丘陵であり,樹枝状に開析されている。半島の日本海側は外浦,富山湾側は内浦と呼ばれ,地形的には外浦では高い海食崖をめぐらした能登金剛,曾々木海岸(名・天)などの男性的景観がみられるのに対し,内浦ではゆるやかな曲線を描き,九十九(つくも)湾,七尾湾,能登島などの沈降性の女性的景観がみられる。気候的にも対照的で,間垣(まがき)に囲まれた集落は外浦の景観を特色づけているが,これは冬季の風浪を防ぐためのものである。これに対し内浦は気候が温和で,冬季も風浪に悩まされることが少なく,また雪も少ない。

 石川県は南東方向にしだいに高まりをみせる地形から,冬季北西季節風が吹き荒れると,対馬暖流から運ばれた水蒸気は雪となる。金沢の年平均降水量は2645mmであるが,白山北西麓の山間部では3500mmをこえる。北陸豪雪地帯の一環をなし,降雪期間は4ヵ月に及んでいる。既往最深積雪は三八豪雪といわれる1963年(昭和38)1月27日で1m81cm(金沢)を記録し,白峰村(現,白山市)は約2ヵ月間も陸の孤島となった。したがって石川県では,生活や生産活動に対する雪の影響は決して無視できない。

第2次世界大戦前の最も重要な産業は農業で,戦後も1955年ころまではその傾向を強く持続していた。低湿地が多く灌漑用水に恵まれていることもあって,水田面積は全耕地面積のほぼ85%を占めており,水稲単作が支配的であった。そして単作の不利を米の出荷時期を早めることによってカバーしようと,品種改良,灌漑用水整備,耕地整理などの努力が重ねられ,明治中ごろから全国でも有数の早場米出荷(9月初旬)県となってきた。金沢平野は全面的に水田化されて北陸地方の穀倉の一環をなし,県人口の大部分が集中している。金沢市周辺では近世以来たけのこ,れんこん,砂丘地でのブドウなどの栽培が発達したが,多くの蔬菜は愛知県などから移入されている。これに対し丘陵の多い能登地方では,邑知潟低地帯以外は樹枝状にひろがる開析谷が谷頭近くまで水田化され,輪島市白米(しらよね)の千枚田のように階段状耕地もみられる。ほかに段丘上の畑でのタバコ栽培や,山地を覆う雑木林でのクリやシイタケ栽培,半島をめぐる海での漁業や加賀藩に保護された製塩(現在観光用として珠洲市に残存)を生業としてきた。能登の人口は半島先端部にいくほど希薄になり,農業所得も低いため,古くから杜氏(とうじ)に代表されるように県内外への出稼ぎが多い。高度経済成長の進展とともに農業の重要性はしだいに低落し,それを補うように農家の兼業化が進行し,現在農家の兼業率の高さは全国有数である。96年現在の専業農家は販売農家数のうち8.4%で,兼業農家の91%が第2種兼業で占められている。

 海岸線の長い石川県では,古来水産業は重要産業の一つで,能登半島沿岸が最も盛んであった。外浦沿岸と内浦沿岸とでは漁業形態が著しく異なり,外浦では漁船漁業が中心であるが,内浦では漁船漁業のほかに定置網漁業が盛んである。また内浦の小木(おぎ)および姫(ともに能登町)の各漁業集落では,北海道沖のイカ釣漁業ならびに日本海を漁場とするサケ・マス流し網漁業が生業である。海草,魚介類の宝庫である舳倉(へぐら)島では海女の潜水漁業がみられる。なお内浦の定置網漁業の歴史は江戸時代にまでさかのぼるもので,内浦を含めて富山湾一円にみられる。

県内の工業は藩政時代以来の伝統をもち,湿潤(平均湿度75~80%)で雪の深い自然条件と,近畿地方から北前船によって移入された技術および加賀藩の殖産興業策に負うところが大きい。現在も輪島漆器,九谷焼,金沢箔,加賀友禅などがその伝統を強く示しており,明治以降発達してきた繊維,機械などの近代工業と共存していることが大きな特色といえよう。漆器製造業は輪島市,金沢市,加賀市の旧山中町が中心地をなすが,応永年間(1394-1428)に起源をもつといわれる輪島塗が産額からみても圧倒的重要性をもっている。寛文年間(1661-73)に起源をもつといわれる九谷焼は幕末の開港以来,輸出によって著しく発展し,現在能美市の旧寺井町,小松市が中心となり,金沢市もその一角を占めている。金沢市の加賀友禅は優雅な絵模様の高級和服として独自の地位を築き,また金沢箔は全国生産の90%以上を占め,おもに京都の西陣織の金銀糸に使用される。古い歴史をもつ絹織物業(加賀絹)は,近世,小松,大聖寺(現,加賀市)を中心に大きく発展した。明治に入って金沢製糸会社などが創立され,明治20年代には金沢を中心に輸出用羽二重の産地となり,大正初期に生産はピークに達した。大正末期以降は人絹織物に代わり,世界恐慌の影響で羽二重は漸減し,第2次大戦後は合成繊維織物が主流となった。それとともに,原糸メーカー,金沢市の産元商社,機屋を一貫する系列化が進行していった。1898年には北陸本線,七尾線(七尾まで)が開通,1935年に七尾線が穴水を経て輪島へ(2001年穴水~輪島は廃止。現在,和倉温泉~穴水はのと鉄道),1964年穴水からの能登線が先端の蛸島(たこじま)まで延びるのに伴い(2005年穴水~蛸島は廃止),機屋も河北郡,羽咋郡,鹿島郡の各町村へと北上して普及し,奥能登にも立地するようになり,同地域の就業機会の増大に役立っている。

 繊維工業と並んで重要性をもつようになった近代的機械工業は,繊維工業の躍進に伴う力織機の需要の増大とともに発達した。大正期以降は機械工業もしだいに多様化し,加賀市,旧山中町を中心として自転車部品のチェーンの生産,小松市を中心とするブルドーザーの製造工業が発達した。近年は電気関係の工業の発展がめざましく,製造品出荷額(1995)のうち,一般機器,電気機器で約4割を占めており,さらに最近ではメカトロニクス化へと進みはじめている。

平野が広く人口が集中する加賀地方と,全般的に丘陵が多く人口希薄な能登地方とでは対照的な性格がみられる。古代には海上交通に有利であった能登(717年立国)が加賀(823年立国)よりも早くひらけ,福浦(ふくら)(現志賀町,旧富来(とぎ)町)の港は8~9世紀に渤海使節の指定寄港地として重要視された。中世末には加賀,能登にわたって真宗本願寺教団の門徒農民を中心とする一向一揆に支配された。1581年(天正9)前田利家が能登七尾の小丸山に居城をおいたが,83年に金沢に城を移して100万石を領して以来,加賀に中心が移った。また加賀を縦貫する北陸街道(現,国道8号線)とそれから分岐する能登街道内浦街道,外浦街道など陸上交通の発達によって加賀の先進性が顕著となった。1873年金沢が県庁所在地となり,87年には全国で五つの高等中学校の一つ第四高等中学校(戦後,石川師範,金沢医大などを合わせ国立金沢大学となる)が創立され,県の政治・文化の中心となっていった。産業の面でも,北陸本線,北陸自動車道,国道8号が通じ,交通の便のよい加賀地方は第2次・第3次産業の構成比が高く,伝統工業,繊維工業,機械工業などが盛んで,農家の兼業率も高い。一方,七尾線,のと鉄道が通じるが交通不便な能登地方は第1次産業の構成比が高く,半農半漁で出稼ぎも多く,対照的である。観光の面では,加賀地方には戦災を受けず城下町の景観がよく保存され,日本三名園の一つといわれる兼六園(名)をもつ金沢市,福井県から続く越前加賀海岸国定公園の景勝地,また白山国立公園は静寂な環境と豊富な高山植物(30種余もハクサンの名を冠する),自然林や野生動物に恵まれ,山麓の岩間の噴泉塔群(特天)や白峰村(現,白山市)などの村々に残る民俗資料が貴重であるほか,設備の整った加賀温泉郷がある。一方,自然に恵まれた能登地方は海岸部の大半が能登半島国定公園となっている。また古い歴史を反映して能登一宮の気多(けた)神社妙成(みようじよう)寺(日蓮宗),総持寺(曹洞宗),七尾城などの古社寺や史跡が多く残り,漂着神の伝説や古い民俗の宝庫でもある。両地方とも多くの観光客をひきつけている。
執筆者:


石川[町] (いしかわ)

福島県南東部,石川郡の町。人口1万7775(2010)。石川郡の中央部に位置し,郡山,白河,いわき,水戸を結ぶ交通の要衝にある。中世は石川荘に属し,源氏の豪族石川氏が三芦城を居城として当地一帯を支配した。近世は高田,下泉などに常陸街道の宿駅が置かれ,市場町としてもにぎわった。現在も石川地方の産業・文化の中心地である。1955年に石川町など1町5村が合体したが,合体当時2万5000を数えた人口は,高度経済成長期に若年層の流出があいつぎ減少を続けた。産業の中心は農業で,米作を中心に葉タバコの栽培,畜産,養蚕が行われるが,近年は第2次・第3次産業への移行がめだつ。東北一のラジウム含有量をもつ母畑温泉がある。JR水郡線,国道118号線が通じる。
執筆者:

石川(沖縄) (いしかわ)

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日本歴史地名大系 「石川」の解説

石川
いしかわ

大阪府東南部の南河内地方を流れる大和川の有力な支流。和泉山脈の燈明とうみよう(八五七メートル)付近に源流を発し、加賀田かがた川・天見あまみ川・石見いしみ川を合した三日市みつかいち川、佐備さび川、水越みずこし川・千早ちはや川を合した東条とうじよう川を合せて北北東方向へ流れ、次いで北流して、太井たい川を合したうめ川、飛鳥あすか川などの諸支流を合してから柏原かしわら片山かたやま町と藤井寺市船橋ふなはし町の境で大和川に合流する。上流部はかつて西条さいじよう川とよばれた。幹川流路延長一六・九キロ、流域面積は河内長野市富田林とんだばやし市・南河内郡千早赤阪ちはやあかさか村・同郡河南かなん町・同郡太子たいし町・羽曳野はびきの市・藤井寺市・柏原市にわたって、二六二・二平方キロ。流域の約八〇パーセントをなす山地は、大阪・和歌山・奈良の三府県境界をなす神福じんぷく(七九二メートル)付近で鉤形に合体する金剛山地と和泉山脈、およびその前山をなす河泉かせん丘陵である。谷幅は本流・支流ともに上中流では狭く、河谷平野を形成しないが、富田林市の錦織にしごりより下流では広くなり、最大幅約二キロに及ぶ。中流から下流にかけて、本流の両岸には上位・中位・下位の三つの段丘が発達する。したがって両岸の氾濫原はきわめて狭小である。

石川の文献上の初見は「日本書紀」仁徳天皇一四年是歳条で石河と記されるが、「住吉大社神代記」には石川とある。「日本書紀」崇峻天皇即位前紀の、蘇我氏が物部守屋を攻めた時の記事に「餌香えが川」がみえ、同書天武天皇元年(六七二)七月条に大海人皇子方の坂本臣財と近江方の壱伎史韓国との両軍勢が「衛我河」で戦ったとあるが、これらは石川の大和川合流点に近い流路をさすものであろう。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「石川」の意味・わかりやすい解説

石川
いしかわ

沖縄県沖縄本島中部の東海岸、金武湾(きんわん)に面してあった旧市名(石川市)。現在はうるま市の北西部を占める。旧石川市は1945年(昭和20)美里(みさと)村(現、沖縄市の一部)から分離し、市制施行。2005年(平成17)具志川(ぐしかわ)市、中頭(なかがみ)郡与那城(よなしろ)町、勝連(かつれん)町と合併、うるま市となった。旧石川市の市街地は海岸低地の砂浜地からなり、背後は北部から続く脊梁(せきりょう)山地と、開析(かいせき)された丘陵地。また、市街地と西海岸の恩納(おんな)村仲泊(なかどまり)間は沖縄本島での最地狭部である。東海岸を南北に貫く国道329号が通り、また沖縄自動車道が通じ、中南部と北部とを結ぶ交通の要地。第二次世界大戦の沖縄戦中、アメリカ軍が避難民収容所を設置したことから、戦前の人口1800人が3万5000人に急増した。1945年琉球(りゅうきゅう)政府の前身である沖縄諮詢会(しじゅんかい)がこの地に設立されるなど、戦後沖縄の政治、経済、教育、文化の中心地として知られる。1946年10月、沖縄諮詢会は佐敷(さしき)町に移り、避難民の故郷への帰村が始まったことから、人口は漸減をたどった。市街地は、戦前の碁盤形の村落の名残(なごり)をとどめ、整然とした道路割りがみられる。アメリカ軍用地の大半は返還された。海岸は石川ビーチと称し、アメリカ軍専用の海水浴場であったが、現在は住民の憩いの場。卸・小売り・サービス業に特化した消費都市であるが、農業も盛んで、サトウキビ、茶などが栽培され、近年はミカン、メロン、マンゴー、養豚が盛ん。伊波(いは)城跡、伊波貝塚(国指定史跡)がある。闘牛が盛んで闘牛場がある。

[堂前亮平]

『『石川市誌』(1975・石川市)』

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「石川」の意味・わかりやすい解説

石川
いしかわ

沖縄県沖縄島中部東海岸にあるうるま市北部の旧市域。金武湾の奥に位置する。1945年市制。2005年具志川市,勝連町,与那城町と合体,うるま市となる。中心市街地の石川は第2次世界大戦前,美里村(→沖縄市)の小集落であった。1945年4月アメリカ軍が難民収容所を設置し,中部,南部の難民を収容するようになってから,人口が急激に増加。隣接の東恩納などと美里村から分離し,1945年9月戦後第1号の市となった。琉球政府の前身となった沖縄諮詢会,アメリカ軍政府などが石川市に置かれ,市の人口は一時 4万に近づいたが,難民が各市町村に移動することを許されたうえ,諮詢会なども移転したため,1946年から人口が安定した。市街地は石川岳(204m),読谷岳(約200m)を背後に控え,整然とした道路網をもつ長方形をなす。周辺部では 1964年石川ダムの完成により畑を水田化したが,その後サトウキビ栽培に押されて再び畑に戻したところが多い。南西部ではチャ(茶)が栽培される。市街地の南に国指定史跡の伊波貝塚がある。海岸には海水浴場として知られた石川ビーチがあったが,1972年沖縄本土返還後大半は埋め立てられて,市役所その他の施設が建設された。

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世界大百科事典(旧版)内の石川の言及

【加賀国】より

…加州。いまの石川県南半部。
【古代】
 律令体制成立以前は(こし)とよばれた地域の一部で,7世紀末の国評制の施行から奈良期を経て平安初期に至るまでは越前国に属したが,823年(弘仁14)に越前守紀末成(きのすえなり)の建議によって,越前国北半部の江沼・加賀2郡を割いて新たに立国された。…

※「石川」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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