禅林寺(読み)ぜんりんじ

精選版 日本国語大辞典 「禅林寺」の意味・読み・例文・類語

ぜんりん‐じ【禅林寺】

[一] 京都市左京区永観堂町にある浄土宗西山禅林寺派の総本山。山号は聖衆来迎山。初めは真言宗。斉衡二年(八五五)空海の弟子真紹(しんじょう)鎮護国家の道場として創建。貞観五年(八六三勅願寺となり清和天皇から禅林寺の号を賜わった。承暦年間(一〇七七‐八一)七世永観(えいかん・ようかん)が中興して以来念仏道場となる。山越阿彌陀図、金銅蓮花文磬(こんどうれんげもんけい)の国宝がある。本尊は「見返り阿彌陀」の俗称で知られる。永観堂。
[二] 奈良県葛城市にある当麻寺(たいまでら)の正称。
[三] 東京都三鷹市下連雀にある黄檗(おうばく)宗の寺。山号は霊泉山。万治二年(一六五九)火防地として公収された江戸神田の連雀町から当地に移住した住民の願いにより、築地本願寺の松之坊を移したのに始まる。元祿一二年(一六九九)に黄檗宗に改宗。森鴎外太宰治の墓がある。

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デジタル大辞泉 「禅林寺」の意味・読み・例文・類語

ぜんりん‐じ【禅林寺】

京都市左京区にある浄土宗西山禅林寺派の総本山。山号は聖衆来迎山。開創は斉衡2年(855)、開山空海の弟子真紹。以来真言道場であったが、承暦年間(1077~1081)に永観が入寺して念仏道場となり、のち法然の弟子清遍や浄音が住持となり浄土宗となった。本尊は見返り阿弥陀如来として有名。所蔵の山越阿弥陀図は国宝。永観堂。

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日本歴史地名大系 「禅林寺」の解説

禅林寺
ぜんりんじ

[現在地名]海南市幡川

日方ひかた川南側の丘陵麓にあり、幡川山薬師院と号し、高野山真言宗。本尊薬師如来。俗に幡川はたがわのお薬師さんとよばれ、信仰を集める。幡川寺とも称された。弘安元年(一二七八)八月八日の伝灯大法師宗鑁置文案(禅林寺文書)に「倩以当寺者聖武天皇之勅願、為光上人建立之伽藍也、本尊者七薬師随一、効験奇特霊像也」と記されるが、その真偽は不明。寺蔵の大般若経巻四五四の奥書に「養和二年二月八日奉書写之 願主宗心」とあり、平安時代最末期に禅林寺があったらしいことが知られる。建武元年(一三三四)一〇月八日の沙弥覚心重書等紛失状案(「続風土記」所収禅林寺文書)には、当時敷地内には仏聖八所(金堂・宝堂・地蔵堂・経蔵・阿弥陀堂・鐘楼・文殊堂・温室)・御社(熊野・吉野・白山)・僧坊一二・承仕三があったことが記され、鎌倉時代末期には幡川の谷一帯に伽藍が広がっていたことが知られる。

禅林寺
ぜんりんじ

[現在地名]広尾郡広尾町西二条

広尾町市街地の南西部にある。龍雲山と号し曹洞宗。本尊は釈迦如来。明治一六年(一八八三)日高国幌泉ほろいずみ(現えりも町)法光ほうこう寺に留錫中の建入教山を招き、茂寄もより村に説教所が開かれたのが始まり。同二二年函館高龍こうりゆう寺一八世国下海雲を開山に迎え、同二三年四月龍雲山禅林寺として寺号公称を認可された(寺院沿革誌)。十勝国最古の寺院。同二七年に大津おおつ大林だいりん(現豊頃町)を開創したのを手始めに広尾郡・当縁とうぶち郡・河西かさい郡などに教線を広げ、末寺を開創した。

禅林寺
ぜんりんじ

[現在地名]羽村市羽東三丁目

羽村堰の東方、奥多摩街道と新奥多摩街道の中間にある臨済宗建長寺派寺院。東谷山と号し、本尊は十一面観音。「風土記稿」や旧高旧領取調帳には深林寺と記される。文禄二年(一五九三)鎌倉円覚寺の春覚を開山、当地の島田氏の祖である島田九郎右衛門を開基として創建されたと伝える。寺名は、本山鎌倉建長寺総門の扁額「天下禅林」に由来するという。文化八年(一八一一)火災により堂宇が灰燼に帰したが、天保一三年(一八四二)再興(西多摩村誌)。明治期以降、羽村・西多摩村の政治的集会場としてしばしば利用された。大正一一年(一九二二)漏電により本堂が焼失、その原因究明のため村民決起大会が境内で開催された。

禅林寺
ぜんりんじ

[現在地名]福井市徳尾町

徳尾とくおの南東部山麓にある。円通山と号し、曹洞宗。本尊釈迦如来。開山の普済善救(応永一三年没)は総持寺派の府中龍泉ふちゆうりゆうせん(現福井県武生市)の開山通幻寂霊の門下で、その十哲の一人。応永一二年(一四〇五)徳尾保白沢永幸の請を受けて当寺を創立した(日本洞上聯灯録)。当寺は近世に入って結城秀康(福井藩主)の生母長松院の保護を受け、秀康の家臣梶原美濃守(二千石)の菩提所ともなった。

禅林寺
ぜんりんじ

[現在地名]上磯郡上磯町中央二丁目

上磯町役場の西側にある。浄土宗、覚夢山と号し、本尊阿弥陀如来。創建は宝永元年(一七〇四)とも(「北海道志」巻一〇)有川ありかわ村に正徳二年(一七一二)建立とも(寺院明細帳)、元禄一五年(一七〇二)建立とも伝えられる(寺院沿革誌)。開基は明細帳・沿革誌とも箱館称名しようみよう寺に寄留中の転夢に求める。

禅林寺
ぜんりんじ

[現在地名]長崎市寺町

三宝さんぽう寺・深崇しんそう寺の北にある。河東山と号し、臨済宗妙心寺派。本尊は如意輪観音。寛永年間(一六二四―四四)長崎を訪れた祖芳が長崎奉行の馬場三郎左衛門の知遇を得てキリスト教書籍の書物改役を勤め、正保元年(一六四四)その功により寺院の開創が認められ、唐通事の潁川官兵衛からその別荘を寺地として寄進され、同三年建立された。万治元年(一六五八)開山とされた石峰が没し、二世に三峰宗元が入った。

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改訂新版 世界大百科事典 「禅林寺」の意味・わかりやすい解説

禅林寺 (ぜんりんじ)

京都市左京区にある浄土宗西山禅林寺派の総本山。山号を聖衆来迎山,院号を無量寿院といい,一般には永観堂の名で親しまれる。空海の弟子真紹は仁明天皇の厚遇に報いるため河内の観心寺に五仏を安置したが,辺地の縁に乏しいことを嘆き,855年(斉衡2)上表して藤原関雄の東山の山荘を買得し,一宇を建立して五仏を安置し,鎮護国家の道場としたのが初めである。2世の宗叡は真紹の甥で清和天皇に進講し,863年(貞観5)天皇は禅林寺の寺名を下して定額寺とし,877年(元慶1)には山城愛宕(おたぎ)郡の公田4町が施入された。ついで3世に平城天皇の皇子真如法親王,4世に宇多天皇の孫寛忠,5世に九条師輔の子深覚,6世に花山天皇の皇子深観が入寺し,真言宗の血脈にそいながら貴族の寺として栄えた。承暦年中(1077-81)に深観の弟子永観が入寺し,一角にある東南院に幽居して《往生拾因》などを著し,いわゆる念仏宗を唱え,往生講を勤修したので,禅林寺は真言浄土の寺となった。1082年(永保2)永観は念仏行道のとき,弥陀顧命(みかえり)の相を感得して,本尊としたと伝え,その教化はひろく僧俗に及んだので,禅林寺は中興と称される永観の名をとって,永観堂と呼ばれるようになった。そののち真言浄土の僧珍海が入寺し,また浄土宗の祖法然房源空の門下に入った真言僧の静遍が住持すると,源空を招請して開山としたので,禅林寺は浄土宗に転じることとなった。そのあとには源空の弟子で浄土宗西山の派祖証空が入寺し,ついで2代は藤原氏出身の園城寺の僧が続いたが,17世に西山派西谷流の祖浄音が住持して以来同派の寺となった。恵心僧都源信が描いたと伝える国宝の《山越阿弥陀図》や重要文化財の《当麻曼荼羅(たいままんだら)縁起》をはじめ,浄土教絵画を中心に多くの寺宝がある。平安時代末期からの念仏ゆかりの寺としての面影を残し,境内には禅林十二境がある。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「禅林寺」の意味・わかりやすい解説

禅林寺
ぜんりんじ

京都市左京区永観堂(えいかんどう)町にある浄土宗西山(せいざん)禅林寺派総本山。聖衆来迎山無量寿院(しょうじゅらいごうさんむりょうじゅいん)と号し、俗に永観堂とよばれる。空海の弟子真紹(しんじょう)によって855年(斉衡2)に創建され、863年(貞観5)禅林寺の勅額を賜った。以来、密教の正法を伝えたが、第7世として三論宗の永観(ようかん/えいかん)が住し、東南院を構えて浄土念仏を唱導するに及び念仏の道場となった。当寺にはこの永観にちなむ伝承が多く、念仏行道のとき弥陀(みだ)が先に立って後ろを振り返ったというので本尊を「見返り阿弥陀如来(あみだにょらい)」といい、また念仏三昧(ざんまい)に入ると光明赫然(かくぜん)として星のごとく聖衆が来迎したので、聖衆来迎を山号としたなどと伝える。また永観堂の称も永観の名に発する。その後、法然(ほうねん)(源空)に深く帰依(きえ)する静遍(じょうへん)が第12世として住し、西山派祖証空(しょうくう)がこれを継いで、当寺はまったく浄土宗に改宗され、寺門は大いに興隆した。源頼朝(よりとも)は静遍の高徳を慕い、当寺に帰依(きえ)して『大般若経(だいはんにゃきょう)』を転読させたので、この法会(ほうえ)が今日に伝わる。しかし応仁(おうにん)の乱などの戦乱もあってしばらくの間衰微したが、34世宏善(こうぜん)、37世果空(かくう)らの努力によって回復に向かい、豊臣(とよとみ)秀吉、徳川家康などの加護もあって漸次堂塔伽藍(がらん)も再興された。寺宝の絹本着色山越(やまごし)阿弥陀図(鎌倉時代)と金銅蓮花文磬(れんげもんけい)(平安後期)は国宝。そのほか浄土教系の美術遺品が多い。紅葉(もみじ)の名所として知られ、「いわがき楓(かえで)」は『古今集』にも詠み込まれている。

[森 章司]

『『古寺巡礼 京都23 禅林寺』(1978・淡交社)』

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「禅林寺」の意味・わかりやすい解説

禅林寺
ぜんりんじ

京都市左京区永観堂町にある浄土宗西山禅林寺派の大本山。山号は聖衆来迎山。旧号は無量寿院。通称,永観堂。斉衡2 (855) 年空海の弟子真紹が創建し勅願寺となった。のち念仏を広めた永観が入寺して,中興の祖といわれた。国宝『山越阿弥陀図』『金銅蓮華文磬』を所蔵する。

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百科事典マイペディア 「禅林寺」の意味・わかりやすい解説

禅林寺【ぜんりんじ】

永観堂とも。京都市左京区永観堂町にある浄土宗西山禅林寺派の本山。空海の弟子真紹が真言宗の寺として創建,宗叡の時清和天皇の帰依を受け発展。11世紀末永観が三論および浄土念仏をすすめて中興した。本堂の見返りの弥陀(みだ),山越阿弥陀図,十界図等寺宝が多い。

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デジタル大辞泉プラス 「禅林寺」の解説

禅林寺〔北海道〕

北海道広尾郡広尾町にある曹洞宗の寺院。山号は龍雲山。1883年、当時の茂寄村に説教所が開かれたのが起源。道指定文化財の円空作観音像がある。

禅林寺〔東京都〕

東京都三鷹市にある寺院。黄檗宗。山号は霊泉山。森鴎外、太宰治の墓があることで知られる。

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