西福寺(読み)さいふくじ

精選版 日本国語大辞典 「西福寺」の意味・読み・例文・類語

さいふく‐じ【西福寺】

福井県敦賀市原にある浄土宗の寺。山号は大原山。応安元年(一三六八)の創建と伝えられる。開山は良如。崇光上皇、後光厳・後円融天皇の勅願所。天平写経を多く所蔵する。

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デジタル大辞泉 「西福寺」の意味・読み・例文・類語

さいふく‐じ【西福寺】

福井県敦賀市にある浄土宗の寺。山号は大原山。開創は正平23=応安元年(1368)、開山は良如。北陸地方における浄土宗の中心寺院。寺宝に古写経・西福寺文書などがある。

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日本歴史地名大系 「西福寺」の解説

西福寺
さいふくじ

[現在地名]敦賀市原

大原おおはら山の南麓にあり、山号は大原山、浄土宗。本尊円光大師。創建は応安元年(一三六八)、開山は良如という。本山は中世は京都浄華じようけ(現京都市上京区の清浄華院)、近世は同黒谷金戒光明くろだにこんかいこうみよう(現同市左京区)、近代は京都知恩院であった。塔頭寮舎は天正(一五七三―九二)以前は上塔院以下二四以上、近世中期に一五院、末寺も五三ヵ寺をそれぞれ数えた(西福寺文書)

天正年間成立の西福寺縁起(西福寺文書)によれば、良如は府中ふちゆう(現福井県武生市)の人で、幼くして平泉へいせん(現同県勝山市)に入り、のち浄華院敬法に学んで、浄土宗、ことに融通念仏を伝授された。北国に赴き、敦賀つるが津の庄橋しようのはしで西方に弥陀三尊を見て、その山に登ると三尊は大石となって現れた。

西福寺
さいふくじ

[現在地名]日の出町大久野

坊平ぼうへいにある。真言宗豊山派。登覚山来迎院と号する。本尊は不動明王。長徳年中(九九五―九九九)の起立と伝え(武蔵名勝図会)、真観(弘安元年没)により中興されたという(風土記稿)。天正一八年(一五九〇)小田原北条氏滅亡のとき、八王子城において青梅金剛おうめこんごう(現青梅市)高幡たかはた金剛寺(現日野市)とともに怨敵退散の祈祷を命じられ、退出の折防戦の具として兼友の銘がある薙刀を与えられたとされ(風土記稿)、現在も西福寺に伝わっている。

西福寺
さいふくじ

[現在地名]上対馬町西泊 横道

権現ごんげん山の南麓、能理刀のりと神社の境内に接して建立される。富嶽山と号し、天台宗。本尊は阿弥陀如来。宗晴康の菩提寺と伝え(宗氏家譜)、境内に晴康のものという墓所がある。しかし晴康の墓という宝篋印塔(花崗岩製)は室町初期の形式で、晴康のものではないであろう。境内の経蔵に泰定三年(一三二六)杭州普寧寺で印刷した大般若経六〇〇巻(県指定文化財)を納めている。この施入記に「豊崎郡西泊富獄山西福寺」とあるほか、檀越宗刑部少輔貞茂とみえ、貞茂・貞盛と続く室町初期の島主父子は当寺と密接な関連があった。

西福寺
さいふくじ

[現在地名]津島市西御堂町

延享五年(一七四八)の村絵図によれば天王てんのう川の祭河戸まつりこうどの北、西御堂にしのみどノセコにある。紫雲山と号し、浄土宗。本尊は阿弥陀如来立像。

「尾張名所図会」に「時宗。近江国番場宿蓮華寺末。そのかみ堀田尾張守正重の六男、僧となりて一向上人の弟子となり、弥阿と号す。貞和四年当寺を建立せし故、堀田家の菩提寺となし、代々の位牌を納む」とある。同宗で同時期に創建の蓮台れんだい(現弥生町)蔵の弥阿上人坐像(県指定文化財)胎内墨書造像銘に「聖□阿弥仏生寿六十五□□、貞和三年四月十八日、大仏師大夫法橋幸賢」とあるから、弥阿を約六〇年後の尹良親王の従臣堀田尾張守正重の六男(浪合記)とする説には無理がある。

西福寺
さいふくじ

[現在地名]小浜市青井

青井あおいの南側山麓にある。山号は慈渓山、時宗。本尊阿弥陀如来。「若州管内社寺由緒記」によれば、開山は覚阿弥で、大永五年(一五二五)以降の墨印があり、創建はそれよりかなり前と承っているが一乱(応仁・文明の乱)のときに書物を火事で失ったという。延徳二年(一四九〇)六月三日若狭守護武田氏の有力被官である寺井賢仲が、西光さいこう寺より買取った小浜西福寺の敷地を、六親のため西福寺へ永代寄進しており(寺蔵文書)、この頃すでに寺のあったことがわかる。

西福寺
さいふくじ

[現在地名]石下町新石下

新石下しんいしげ集落南部の鬱蒼とした古松に囲まれている。寿広山観音院と号し浄土宗。本尊阿弥陀如来。「下総旧事考」「趣味の結城郡風土記」によれば新石下村の開発者初代小口孫兵衛が寛永九年(一六三二)に開基。開山は江戸増上寺一七世住職の照誉了学。慶安元年(一六四八)朱印地一〇石を受ける。境内に瀬戸内海と四国を模した池と築山があり、築山には古松が生い茂り四国霊場八十八ヵ所が移されている。これは天明二年(一七八二)名主孫兵衛が飢饉に苦しむ農民たちの救済事業として築いたものといわれる。

西福寺
さいふくじ

[現在地名]熊本市小沢町

ふる町西北端、小沢こざわ町にあり、了雲院東光山と号し、浄土宗、本尊阿弥陀如来坐像。「国誌」によれば、慶長年間(一五九六―一六一五)釈誉の開基。加藤忠広室(崇法源夫人)が釈誉に帰依し、本尊と二五菩薩を寄進したといわれ、現本尊と脇侍の右の観音坐像、左の勢至坐像はそれと伝える。忠広は寺領五〇石を寄付、細川家も引続き安堵した。寺地は一反六畝二四歩で、年貢免許地を含む。台徳院(徳川秀忠)、相高院(忠広の母)、見樹院(蒲生忠郷)、正清院(忠広の姑、徳川家康の娘)、弘真寺(蒲生秀行)の位牌が安置されていた。遊行日鑑(神奈川県清浄光寺蔵)によれば、当寺は正徳五年(一七一五)遊行上人四九代一法の回国遊行の際宿舎となり、ほぼ一ヵ月滞在した。

西福寺
さいふくじ

[現在地名]長岡市渡里町

うら三之町の北側、下横町しもよこちよう通に接して境内があり、うち川にも近い。浄土真宗本願寺派、巌水山と号し、本尊阿弥陀如来。伝えによると、承久の乱に敗れた大江親広が剃髪して名を恵信と改め、真言宗西崇福さいすうふく寺を越前に建てたが、貞永元年(一二三二)親鸞の弟子となり、西福寺に改めたという。天文年中(一五三二―五五)の兵乱により三度その位置を替え、慶長(一五九六―一六一五)初年長岡に移ったという。戊辰戦争に焼失したが、その後復興。

西福寺
さいふくじ

[現在地名]弘前市新寺町

新寺しんてら町寺院街にあり、貞昌ていしよう寺もと境内北側、徳増とくぞう寺の東に位置。松林山と号し、浄土宗。本尊は阿弥陀如来。もと貞昌寺塔頭。

蓮門精舎旧詞(続浄土宗全書)によれば、慶長二年(一五九七)の創立とあり、開山は念蓮社焉憶。開基は不詳。「新撰陸奥国誌」によれば、はじめ堀越ほりこし村にあったが、慶長年間弘前のてら町の貞昌寺門内に引移ったとあり、近江国出身の久安を中興とする。

西福寺
さいふくじ

[現在地名]大和高田市北片塩町

初瀬はせ街道(横大路)の南側に位置する。古くは最福寺とも書いた。三倉山と号し、浄土宗。本尊地蔵菩薩。「感身学正記」によれば、奈良西大寺の叡尊は弘安四年(一二八一)四月一五日に平田ひらた最福寺に来て結界を行っている。西大寺との関係は同三年九月の西大寺僧房造営奉加帳(塩沢文書)に「最福寺三貫文」とあることからもうかがえる。室町時代には奈良興福寺の支配下となったようで、応永六年(一三九九)正月一三日の興福寺供養料足段銭収納注文(春日大社文書)に「平田最福寺」とみえ、平田荘からあがる興福寺供養の年貢を収納した寺であった。

西福寺
さいふくじ

[現在地名]岩国市岩国二丁目

錦見にしみの寺町の中ほど、瑞相ずいそう寺の筋向いの地にある。浄土真宗本願寺派。山号は押谷山、本尊阿弥陀如来。

玖珂郡志」に「当寺開基宗秀ハ、芸州新庄御領地ノ節、熊谷氏ノ俗体ニテ候処ニ発心仕リ小庵ヲ取立テ住居也、然処ニ広家公雲州御入城ノ節、彼地エモ御供、夫ヨリ当国御打入之砌御迹ヨリ罷リ越シ、玖珂郡ノ内祖生郷サマト云所ニ一寺建立候ヘドモ、当地ヘ罷出候様ニトノ儀ニ付テ、河西沖原ヘ一旦曳越候ヘドモ洪水ニ流失ス、其後錦見唯今ノ寺地拝領建立仕候事、当国エ罷越候迄ハ法名寺ほうみようじニテ候処ニ、慶長九甲辰年十月十六日西福寺ト寺号申請候事」とある。

西福寺
さいふくじ

[現在地名]岸和田市春木大小路町

浄土宗、遍照山摂取院と号し、本尊阿弥陀如来。寺伝によると詳細は不明だが、応永年間(一三九四―一四二八)の開創という。寺蔵の十六羅漢図の裏書に応永三〇年の年紀がみえる。もと現在地より東方にあったが天文二三年(一五五四)燈誉光然が現在地に諸堂を中興造営した(天保一四年「南郡寺社覚」鬼洞文庫蔵)。燈誉は京都知恩院二七世となった人物で(浄土伝灯総系譜)、和泉地方の浄土宗寺院を開創・中興した高僧である。

西福寺
さいふくじ

[現在地名]武雄市武雄町武雄字下西山

厭欣山と号し、浄土宗。本尊は阿弥陀如来。

天正一一年(一五八三)武雄領の家臣成松新左衛門の開基。文禄三年(一五九四)西誉意外を開山として、住吉すみよし城麓の杵島きしま宮野みやの(現杵島郡山内町)に竣工したが、慶長四年(一五九九)住吉城が焼失し、領主が武雄の旧塚崎つかざき城跡に館をつくって移住したため、現地に移転した。

西福寺
さいふくじ

[現在地名]大町町大字福母

現大町町西部の丘陵上にある。山号は雲山。曹洞宗。開山は華弘英禅師であり、本尊は如意輪観世音菩薩、作者は定朝法印という。元禄一四年(一七〇一)六月一八日建築の棟札があり、創建の年代と考えられている。

この寺には経蔵、一名輪堂があり、寄棟造の葦葺屋根であったが、昭和三八年(一九六三)に合掌造に改築して、屋根にはセメント瓦を載せた。

西福寺
さいふくじ

[現在地名]東山区轆轤町

寺門は北の六波羅表門ろくはらおもてもん通に面し、本堂は東に向く。桂光山敬信院と号し、浄土宗。本尊は阿弥陀如来。「京羽二重(貞享二年刊)に四十八願寺の一として「三十一願 西福寺 六波羅の角」とみえ、「拾遺都名所図会」(天明七年刊)に「西福寺、六波羅蜜寺の門前にあり。浄土宗、本尊阿弥陀仏、春日の作、坐像三尺計。四十八願所巡りの卅一番也。又土仏の地蔵尊を安置す。

西福寺
さいふくじ

[現在地名]三島市大宮町一丁目

江戸時代の三島町の北部、富士の雪解け水が湧き出す水上みずかみにある時宗寺院。山号は高源山、本尊阿弥陀如来。声阿通天の開山になる。遊行歴代譜によれば、第一二代遊行上人尊観法親王(亀山上皇孫)は至徳四年(一三八七)二月二六日「豆州三嶋西福寺」で賦算をしている。寺記によると、親王が相模国へ向かう途中箱根はこね山があまりにも険しかったので三島宿にとどまって当寺の第六世を継ぎ、のちに総本山清浄光しようじようこう(現神奈川県藤沢市)に入ったと伝える。

西福寺
さいふくじ

[現在地名]塩尻市大字下西条

下西条しもにしじよう村にあり、曹洞宗、本尊釈迦如来。開山は本洗馬もとせば村の長興ちようこう寺二世圭岳殊白禅師とするが、これより先明応二年(一四九三)現在地の南東、久野井字大久保の地に清林宗泉長老が一草庵を建て久野くのう寺と称した。

西福寺
さいふくじ

[現在地名]山陽町大字郡 梶中

寺の前方はもと海で、現在沖開作おきがいさくとなり水田である。浄土真宗本願寺派で利生山と号し、本尊は阿弥陀如来。

「寺社由来」によれば開基は玄信といい、豊前国森山の教覚もりやまのきようかく(現大分県宇佐市)を本寺として天文二年(一五三三)梶浦かじうらに一宇を建立、四世玄智のとき寛永一八年(一六四一)寺号公称を許されたという。

西福寺
さいふくじ

[現在地名]菊池市西寺 水町

水町みずまちにある。無量山と号し、浄土宗。本尊阿弥陀如来。もと禅の古刹で、和銅二年(七〇九)の創建と伝えるが、詳細は不明。菊池氏一五代武光の菊池五山建立のときその一つに列したという。「一統志」に「無量山西福禅寺者安阿弥陀仏像鎮守八幡祇園阿蘇三社也」とあり、文化一一年(一八一四)頃の深川手永手鑑に「阿弥陀堂、但菊池時代無量山西福寺と唱え菊池五山之内」と記される。

西福寺
さいふくじ

[現在地名]横浜町 寺下

通称横浜集落の東寄りにある。龍幡山と号し、浄土宗。本尊は阿弥陀如来。明治初年の「新撰陸奥国誌」には「卵塔の裏、慶長の年号を鐫しものあれは夫より以前の開基なるへし。享保十二年五月再建なりし時より、良堂と云僧中興の開山とすと云ふ」とある。寛政年間(一七八九―一八〇一)の「邦内郷村志」には「西福寺 龍幡山盛岡大泉寺末寺」とあり、当寺の末庵に見性けんしよう庵があった。

西福寺
さいふくじ

[現在地名]吉良町吉田 桐杭

県道西尾―吉良線と名鉄西尾線の中間に位置する。北星山宝幢院と称し、浄土宗西山深草派。本尊阿弥陀如来。縁起によると、建長六年(一二五四)北条時頼が創立した天台宗の寺であったが、元弘元年(一三三一)兵火に遭い焼失、焼跡に道金沙弥が草庵をつくる。

西福寺
さいふくじ

[現在地名]小野田市大字西高泊

西高泊の郷にしたかとまりのごうの丘の上にある。浄土宗西山禅林寺派で霊社山と号し、本尊は阿弥陀如来。「寺社由来」によれば永和元年(一三七五)に没したという行満慈法の開山で、古くは時宗寺院であった。その後九代目の雲覚禅牧西堂の時から浄土宗に改宗したという。

「注進案」は阿弥陀如来について「当村西ノ海上ニおゐて毎夜光りを放、里人不思議の思ひをなし則網を下し是を引に、慈覚大師之御正作阿弥陀如来網に懸らせ玉ふ」との伝承を記す。

西福寺
さいふくじ

[現在地名]豊中市小曾根一丁目

浄土真宗本願寺派、山号正因山、本尊阿弥陀如来。境内の庭に広がる扇松で知られ、松の寺ともよばれる。寺伝によると、延慶元年(一三〇八)乗雲の開創。小曾根山と号する天台宗寺院であったが、文保二年(一三一八)道念のとき浄土真宗に転じたという(大阪府全志)。「摂陽群談」には「西本願寺門下、西成郡天満興正寺御堂に属す」とある。

西福寺
さいふくじ

[現在地名]五條市畑田町

真土まつち峠西にあり、高野山真言宗。本尊の不動明王や地蔵菩薩などを安置する。境内に長禄三年(一四五九)の六字名号碑、寛正二年(一四六一)の名号碑、応仁二年(一四六八)の一石五輪塔、文明四年(一四七二)の双石仏などの石造遺物が多い。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「西福寺」の意味・わかりやすい解説

西福寺
さいふくじ

福井県敦賀(つるが)市原にある浄土宗の寺。大原山妙華(みょうげ)院と号する。1368年(正平23・応安1)、良如智水(りょうにょちすい)を開山とし、後光厳(ごこうごん)天皇の勅願により、将軍家の援助を受けて建立された。以後、天皇家あるいは足利(あしかが)家などの帰信厚く、天文(てんぶん)年間(1532~1555)には塔頭(たっちゅう)23院、寺領700石余に達した、この地方屈指の名刹(めいさつ)である。寺宝も多く、聖武(しょうむ)・孝謙(こうけん)天皇や伝教(でんぎょう)大師(最澄(さいちょう))、弘法(こうぼう)大師(空海)、小野篁(おののたかむら)などの古写経(後花園(ごはなぞの)天皇の下賜)や、光明(こうみょう)皇后、白河(しらかわ)、後白河(ごしらかわ)、後小松(ごこまつ)、後土御門(ごつちみかど)天皇の宸翰(しんかん)、絹本着色主夜神像1幅など国重要文化財指定の什物(じゅうもつ)を蔵する。また、書院庭園は国指定名勝。

[森 章司]


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事典・日本の観光資源 「西福寺」の解説

西福寺

(大阪府大阪市東淀川区)
私が選んだ東淀川100選」指定の観光名所。

出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報

デジタル大辞泉プラス 「西福寺」の解説

西福寺

福井県敦賀市にある浄土宗の寺院。御影堂、阿弥陀堂などは国指定重要文化財、書院庭園は国指定名勝。

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