講座(読み)こうざ

精選版 日本国語大辞典 「講座」の意味・読み・例文・類語

こう‐ざ【講座】

〘名〙
[一] (コウ:) 講義の座席。講師のすわる席。
霊異記(810‐824)中「明朝(あくるあした)講座に登りて言はく」
[二] (カウ:)
大学院をもつ大学におかれる研究、教授のための組織。学問体系上、一定の独立性を持ち、教授、助教授、助手の人的組織から成る。
帝国大学令(明治一九年)(1886)一七条「各分科大学に講座を置き教授をして之を担任せしむ」
② 大学で行なわれる講義。
ヰタ・セクスアリス(1909)〈森鴎外〉「講座は哲学史を受け持ってゐて」
③ 一定の主題に従った講義形式をとり、体系的に編成された講習会、出版物、放送番組
現代史への試み(1949)〈唐木順三〉二「何々文庫、〈略〉何々講座の発行書肆を富ましたのみではない」

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デジタル大辞泉 「講座」の意味・読み・例文・類語

こう‐ざ【講座】

(カウ‐)
㋐大学院や大学に置かれる研究・教育のための組織。教授准教授助教講師助手などの人的構成からなる。「仏文学講座を設ける」
㋑大学で行われる講義をまねた形式の講習会や放送番組。「市民講座」「ラジオ講座
㋒大学の講義形式をとって編集した出版物。
(コウ‐) 寺院などで、講師のすわる席。
[類語]講話説教説法談義講演進講法話道話訓話訓示嘉言

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大学事典 「講座」の解説

講座[独]
こうざ

中世大学成立以来,現在まで伝わっている大学の教授職とそれを支える制度的枠組みのこと。現在日本や諸外国で用いられている教授や准教授なる語句は大学教師の職階を表すが,講座は,それぞれの職階を持つ個別の教師とその教授職の存在形態であるといえる。中世大学以来,教授職は長い歴史を持つが,講座の意味は大学,時代,国家や領邦などによって多様であり,単なる教師のいる「場所」という意味だけでは捉えきれない。それは中世から現代まで,大学という共同体における教師の階層と自律性,授業担当の義務と権利,研究の遂行や共同体内での「同等者の中の首席」(primus inter pares[羅])を選ぶ権限など,多岐にわたる教授(教師のこと)と教授職のあり方の根底に関わる概念である。

[中世大学と講座]

講座なる言葉は,もともとラテン語の「cathedra」(肘掛け椅子)を意味し,これは教師が教室に一段高く置かれたそれに座って話す(講義する)椅子を表す。児玉善仁によれば,カテドラはもともと古代ローマで教師が座る椅子の意味で使われていたが,キリスト教の普及に伴って,司教が座る権威ある「椅子」と同時に場所である「座」を意味するようになり,ここから司教座教会=cathedrale[羅]なる言葉が誕生した。中世大学(パリ大学)司教座聖堂学校ヨーロッパ)から生まれたものであり,したがって,大学が成立し,そこでの授業が制度化される過程で,「cathedra」は教師の地位や講義を表す言葉,すなわち「講座」と訳されるべき言葉として自然な形で使われていったのである。実際イタリアの大学(イタリア)には,市民法や教会法に関した「講義」(lectura=読むことを意味するラテン語のlectioに由来)のことが「講座」(cathedra)と書かれた14世紀以降の大学団の規約も存在している。これは,講義(lectura)が主として授業の形態(中世大学の授業には講義のほか,討論disputatio[羅]やその裁定determinatio[羅]など,いくつかの形態があった)を表すのに対して,「講座」は講義と結びつき,それを行う特定の人物が座るべき地位を意味していたものとして理解できる。

 中世大学では元来,教師が上下関係を規定する職階で区別されることはなく,教授免許(licentia docendi[羅])である学位(ドクトル)を有する教師が団体を構成し,そこに所属する教師がすなわち大学で教える人であった。その意味で教師は教師であればよく,それ以上の地位や身分に関する制度的枠組みなどはもともと必要がなかったといえる。しかし,講義には法学部の教会法など,本来その名称が必要であり,大学の制度的確立と教授すべき学問分野の拡大に伴って,講義の種類や教師数も増えてくる。ここに,講義名を系統的に定め,どの教師がどの講義を担当するかを決める必要が生じてくる。また後述するように,教師に給料(salaria[羅])を支払う俸給制の採用に伴って,俸給を受ける有給教師とそれに与らない無給教師の区別が生まれ,さらに有給の講義(科目)においてもその重要度の違いが発生し,そこから俸給額(給料)が変わる状況が生まれることによって,講義(学問)の存在を通して教授職の分裂,つまり元来平等であった教師に階層制が発生してくる。講座は,この俸給制(給料)と教師の階層制の発生の問題にも大きく関わってきたといえる。

[有給教授職と講座]

俸給制の導入は,ボローニャでは1280年に教会法学者ガルシアをスペインから高額の経費で招聘したときに始まったといわれるが,すでに13世紀初頭,パレンシア大学(スペイン)を設立したカスティーリャ王アルフォンソ8世は,大学に必要な教師をパリやボローニャから招聘するため,有給教授職(英語ではendowed professorship)の制度を中世大学に初めて設けた。これは,教師を選ぶことより先に,俸給付きの特定の分野の教授職を設けるのであるから,教師が就くべき職,すなわち講座を設置したことにほかならない。1398年にはバリャドリード大学(スペイン)で,国王エンリケ3世によって付与された三分の一税によって,教会法,市民法,論理学など,いくつかの有給教授職への支援が行われている。16世紀の同大学の規約では,講座担当教授はCathedrariusと表現されている(ラシュドール『大学の起源(中)』)。こうした俸給制,すなわち有給講座教授職はフランスでも導入され,トゥールーズ大学(フランス)(1229年創立)では神学4,教会法2,教養諸科6,文法2の計14講座が設立された。基金は,トゥールーズ伯レイモン7世とフランス国王ルイ聖王により提供された。注目すべきことに,俸給は文法の10マルクから神学教授の50マルクまで,講座(分野)により異なっていた。

[教師の階層化と講座]

14世紀まで大学を持たなかったドイツでは,教授招聘のため,最初から俸給制を取らざるを得ない面があった。ドイツでは,とくに教養諸科(学芸学部)のためにカレッジ(寮舎,collegium)が設立された。パリやオックスフォードと異なり,これは教師のための寮舎(カレッジ)であり,これに財政援助が行われた。ハイデルベルク大学(ドイツ)では,1390年に12人の教養科教師のために学寮が設けられ,翌年,ルプレヒト2世伯によって3000グルデンが寄贈された。またグライフスワルト大学(ドイツ)(1456年創立)では,記録に残る最初の例として個人の寄付によるドイツの教授職が設けられたが,この教授職はラテン語でCollegiatraといわれた(ラシュドール『大学の起源(中)』)。ドイツ大学では,寮舎(カレッジ)に住む有給の教授は寮舎付き教師(コレギアトゥス)と呼ばれ,この寮舎付き教師はのちに正教授(Professor Ordinarius)となっていく。

 また,権限を持つ有給教授職の誕生には分野の固定,つまり特定の教授が特定の分野(講義)を持つようになっていったことも重要な役割を果たした。ウィーン大学オーストリア)では14世紀末まではどの教授もあらゆる主題について講ずることができたが,次第に上級学部で講義担当が決まっていき,1399年には30人の教養諸科の教師にさまざまな科目が割り当てられたという。ディルセー,S.はこれを,近代的な意味における教授職の誕生のもとになった永続的,固定的講座の起源ではないかと考えている。ウィーン大学では,1533年の改革によって,上級学部でも教養諸科でも,すべての学問領域を特定の有給教授職に結びつける第一改革令がフェルディナンド1世により発布されている。

[教師と講座―その影響]

このように,教皇や国王などの権力により設立された後発の大学を中心にして,教師全員ではない有給の教授職と特定の教師に対して講義(分野)が固定化するシステムが中世大学で生まれ,それは16世紀までには完成した。この過程は,教授職を規定する枠組みとしての講座が出現し,それが制度化されていく過程と捉えることができる。同時に,12世紀に発生した大学での教師の同僚制が消失していく過程ともいえ,教授職に権威と階層制を生むことになった。このことはドイツにおいて,正教授,員外教授,私講師というドイツ大学を長く規定することになる制度を生み出していくことになる。ドイツ大学に限らず,一般に大学教師の給料は学生からの聴講料,教会聖職禄,大学等からの俸給(国王などの私庫からの場合もある)であったが,学生からの聴講料以外の給料(俸給)を受けることは,その教師が俸給を与える普遍権力(教会)や国王,領邦君主,都市などの権力機構から何らかの制約を受けることをも意味していた。
著者: 赤羽良一

近代になって科学が制度化され,大学で科学の教育と研究が行われるようになった。講座の問題は,この科学の制度化とも深く関わってくる。とくに,講座ともなり得る研究室内での共同作業が中心となる自然科学系分野では,講座の性格が,研究費の分配や講座での階層制に基づく論文作成におけるオーサーシップ(互いに共著者になるかどうか)など,いわば研究者としての自律性に関わる重要な問題に関係してくることになる。

[ヨーロッパ]

現在,ドイツの大学教授職は,高等教育機関に勤務する公務員である大学教師に適用される俸給(給与)の等級に用いられるW(学問を表すWissenschaftの頭文字)を用いて,W3とW2という名称で表される。W3はアメリカでのFull Professor(教授),W2はAssociate Professor(準教授)に相当するが,厳密な比較は困難である。職階の上下はあるが,これらは互いに独立で研究を進めることができる教授職であり,研究を進める上ではW2がW3の指示を受けることはない。また,公務員の扱いを受けない(定員外の)Außerplanmäßiger Professor(Apl. Professorと略)という教授職もある。この職も独立して研究活動を行い,授業も担当する。旧来,ドイツでは博士号取得後,教授資格試験(ドイツ)(ハビリタツィオン(ドイツ))を取得して講義や研究指導もできるPD(Priv.-Doz.: Privat Dozent=私講師(ドイツ))となり,ここから昇進していく職務経歴が普通であったが,現在はハビリタツィオンを経ないでJuniorprofessor[独](ジュニア・プロフェッサー(ドイツ))を経て教授(W2やW3)を目指す研究者が増えている。PDになるまでは博士号取得後も教授の指導のもとに研究活動に参加するが,ジュニア・プロフェッサー(任期制)は,W2,W3(俸給表のこと)が適用される教授職ではないが独立して研究を行うことができ,自然科学系でも高位の教授と共著の論文発表はない。なお,「講座」を表す「Lehrstuhl」は,通常,分野を示してLehrstuhl für Präparative Organische Chemie(合成有機化学講座)のように,研究室を管理する教授(通常W3)に現在も使われ,講座保持者を明示する場合はLehrstuhlinhaber(head of chair)と表現される。

 一方,フランスの大学の研究室は,とくに自然科学系では,制度上,CNRS(Le Centre National de la Recherche Scientifique: フランス国立科学研究センター)と共同で研究室を構えていることが多く,CNRSの職員が代表者(Directeur de recherche)として研究室を主宰している場合もある。研究室では大学に所属する教授(Professuer)とアメリカの准教授あるいは助教授に相当するメートル・ドゥ・コンフェランス(フランス)(Maître de conférences)が研究グループを形成する。この場合,メートル・ドゥ・コンフェランスは教授からは独立はしていず,論文は共著となる。このように,フランスの大学の自然科学系研究室では,二人以上の教師が教授を代表者として研究室を構成する場合がある。

[アメリカ合衆国]

ヨーロッパとまったく異なった大学アメリカの教授職のあり方を創造したのがアメリカである。カレッジでも研究大学でも教師の職階はAssistant Professor(助教授),Associate Professor(准教授)(Full)Full Professor(教授)と3段階に分かれているが,これらの教授職には研究を遂行する上での上下関係は存在せず,各教授は完全に独立して研究室(research group)を構えることにシステムとしての特徴がある。これはとくに研究大学において,①(正)教授に定員がなく,したがって定員に左右されずに学内の基準を満たせば必ず昇進できること,②基本的に外部資金(本人だけが受領する研究経費)だけで研究を行う,ということによって可能となっている。研究室に教員(研究代表者)は常に一人であるから,共同研究を行っている場合を除いて,自然科学系分野でも,ある教授が別の研究代表者の論文の共著者となることはない。アメリカでは,講座という固定的な概念が存在しないので,ある特定の分野が代を追って継承されていくことはないが,その選択(すなわち人の選択)は学問の重要性や新分野の趨勢を見て学科内の議論で決定されることになる。
著者: 赤羽良一

大学における教育・研究活動組織の最小単位の一つである講座は,かつては研究室とほぼ同義であった。2000年代以降はいくつかの研究室から構成されることが多い。

[講座制の特徴]

日本の大学における講座制度(日本)は,1893年(明治26)に当時の文部大臣であった井上毅が帝国大学に導入したのがはじまりである。その意図は,設立当初の帝国大学から官界への人材流出を防ぎ,各専門分野に対する大学教授の責任を明確化することにあった。導入時の制度設計では一講座に教授一人をあてる方式をとり,座という言葉が「すわること」を意味するように,講座とは「教授の椅子」を体現するものであった。

 やがて旧制大学において学部・学科内の専門分野ごとに講座が設置され,各講座は教授1-助教授1-助手1ないし数名で構成されるようになった。一人の教授を数名の若手教官(当時)が支えるこの仕組みは「講座制(日本)」と呼ばれる。この制度は第2次世界大戦後も旧帝国大学を中心とする国立の研究大学において継承され,1990年代まで1世紀にわたって存続した。一方,戦後に設立された新制国立大学や私立大学の多くは,学部・学科に必要な学科目ごとに教員を置く「学科目制(日本)」をとった。学科目制では教授と助教授,講師,助手などの若手教員層の間に制度上の上下関係はないが,研究費は講座制に及ばなかった。

 講座制では一人の教授が助教授,講師,助手,研究員などを統率し,さらに大学院生や学部生を擁する。助教授以下の人事選考には教授が大きな影響力を持った。この制度は,教授のリーダーシップのもとで,先輩-後輩関係にある研究者が一丸となって研究活動を推進する場合などに適している。大学の教官定員や予算も講座を基礎として積算された。講座には理系実験,理系非実験,文系実験,文系非実験の4種類があり,実験講座の方が非実験講座よりも多くの予算を割り当てられた。講座化の可否は,各大学の概算要求を通じて文部省(現,文部科学省)が決定権を握った。

[大講座制への改編]

ところが1990年代に大学院強化策の一つとして大学院重点化(日本)の動きが加速し,各研究大学(日本)は従来の講座を再編して大講座化し,大学院の定員拡充を図った。「大講座(日本)」とは複数の教授による研究・教育グループのことで,多くの場合は従来の講座を統合する形で編成された。大講座では複数の教員による民主的な教育・研究体制を実現することが期待された。2007年(平成19)には学校教育法と大学設置基準が改正され,准教授,講師,助教の教育・研究活動上の独立性が明記された。それでもなお,旧講座制および大講座制は今でも伝統的な研究大学において存続している。

 大講座化による弊害は次のように指摘されている。大講座の名称と各学問分野が必ずしも一致しなくなり,大講座がどんな専門分野をカバーしているのかが外部からわかりにくくなったという批判がある。また,制度上は大講座化しているが,教授の名前を冠した研究室などの形で,かつての講座が運用上は存続している場合も少なくない。教員間の上下関係がなくなったことにより,学生に対する教育上の責任が不明確になりやすいことも問題視されている。
著者: 近田政博

1893年,井上毅により帝国大学に導入された講座制は,帝国大学令17条(明治26年改正勅令82号)で「各分科大学ニ講座ヲ置キ教授(日本)ヲシテ之ヲ担任セシム」とされ,「帝国大学各分科大学講座ノ種類及其数」(明治23年改正勅令93号)により,法科大学の「憲法・国法学」,医科大学の「解剖学」など,帝国大学全体で合わせて123講座が置かれた。

[一講座一教授(日本)]

講座制の大きな特徴は,帝国大学教官俸給令(明治26年勅令84号)によって,通常の俸給(本俸)に加えて,講座担当の教授・助教授(日本)には職務俸が支給されたこと,そして講座は通常教授が担当したが,これを欠く場合は,職位が下の助教授または嘱託講師もそれを担当できるとしたことである(帝国大学令中改正勅令82号)。とくに後者の,職階の最高位である教授でなくても分野を定めた講座を担当できたことは,のちに教官間に階層制を生むなど,権威主義的システムであると問題視されがちであった性格を,設置された講座制がこの時点では持っていなかったことを示唆している。また,発足当初は勅令82号にあるように,「一講座一教授(または助教授または嘱託講師)」であって,通常は講座内に複数の教官(教授または助教授)はおらず(講座を担当しない助教授は存在したようである),その場合は職階の違いからくる教官の間の葛藤は同一講座内では生じ得なかったことも指摘されるべきである。

[講座制(日本)の展開・意義]

「一講座一教授」制は,1926年(大正15)に一講座に複数の教官(教授1,助教授1,助手1など)を持つ制度変更が行われるまで存続した。教官が複数いる講座制には後述のように問題もあったが,それは理工系,農学系,そして医学系などの学部における研究の推進と学生の研究者へ向けた訓練において大きな役割を果たした。講座では教授,助教授,助手(のち助教)等がそれぞれ関連した別の研究課題を持ち,学生は各課題を担当して実験を行い,実験報告や新着学術雑誌購読の輪講には全員が参加する。したがって,研究室(講座)に配属される学生には,自分の研究課題以外のさまざまな課題に触れるだけではなく,講座内の複数の教員と議論する機会も日常的に存在したのである。それは講座制が複数の教員が共同研究を行う体制であったからこそである。この点はアメリカの研究大学などにはない長所であったといえよう。

[教育・研究体制の今後]

問題は同一講座に複数の教官(教員)がいたこと,そして,一講座の教員の数に関係なく,教授や助教授の職に(国立大学で)定員があったことである。前者によって,つまり若手の教員が複数いることによって,博士研究員(日本)などの研究スタッフの考え方は最近まで生じてこなかったし,助教授(准教授)以下の教員のイニシアティブによる外部機関との共同研究なども発展せず,研究・教育を支援する教員以外のスタッフの概念(すなわち分業)も生まれてこなかった。後者は,①場合によっては人事の停滞を生み,②若手教員の自由な主体的研究活動を阻害する効果をもたらしたことは否定できない。

 この二つの問題はすでに寺﨑昌男により,講座制そのものによるものではなく,教官の定員などに関わるものであるのではないかとの指摘がなされている。井上毅の講座制では,分科大学や講座によって職務俸は異なっていた。教授ではなくとも講座を担当できた。これらは逆説的ではあるが,見方によっては教員が必ずしも独立していない現代の研究室体制よりもむしろ近代的にさえ見える。ドイツでは教授の定員制はあるが,学位取得後の若手の研究者は独立するようになってきている。現代のアメリカでは大学からの俸給は実績等によって教授により異なるのが普通であり,中世大学でも俸給は講座や個人で異なっていた。何が日本に真にふさわしい制度なのか,講座制の規定廃止後の教授職と研究室体制について,まことに日本の大学制度の骨格に関わる大きな課題が提起されているといえよう。
著者: 赤羽良一

参考文献: 寺﨑昌男『東京大学の歴史―大学制度の先駆け』講談社,2007.

参考文献: 別府昭郎『ドイツにおける大学教授の誕生―職階制の成立を中心に』創文社,1998.

参考文献: 寺﨑昌男「講座制の歴史的研究序説―日本の場合(1)」「同(2)」『大学論集』第1集(1973年),第2集(1974年).

参考文献: 児玉善仁「起源としての大学概念」,別府昭郎編『〈大学〉再考―概念の受容と展開』知泉書館,2011.

参考文献: ステファン・ディルセー著,池端次郎訳『大学史 上・下』東洋館出版社,1988.

参考文献: ヘースティングス・ラシュドール著,横尾壮英訳『大学の起源―ヨーロッパ中世大学史 上・中』東洋館出版社,1966,1968.

参考文献: 島田雄次郎『ヨーロッパの大学』玉川大学出版部,1990.

参考文献: 児玉善仁『イタリアの中世大学―その成立と変容』名古屋大学出版会,2007.

参考文献: ジャック・ヴェルジェ著,大高順雄訳『中世の大学』みすず書房,1979.

参考文献: 横尾壮英『大学の誕生と変貌―ヨーロッパ大学史断章』東信堂,1999.

参考文献: 池端次郎『近代フランス大学人の誕生―大学人史断章』知泉書館,2009.

参考文献: Hastings Rashdall, The Universities of Europe in the Middle Ages, Vol.1: Saleruno, Bologna, Paris, Cambridge University Press, 2010.

参考文献: Hastings Rashdall, The Universities of Europe in the Middle Ages, Vol.2-Part1: Italy, Spain, France, Germany, Scotland(et al.), Cambridge University Press, 2010.

参考文献: 岩田弘三『近代日本の大学教授職―アカデミック・プロフェッションのキャリア形成』玉川大学出版会,2011.

参考文献: 國學院大学梧陰文庫「講座ニ関スル仏書抄訳」(B-2680)

参考文献: 國學院大学梧陰文庫「分科大学講座職務俸」(B-2701)

参考文献: 國學院大学梧陰文庫「教授職務俸額分配表」(B-2702)

参考文献: 國學院大学梧陰文庫「帝国大学講座及俸給ニ係ル勅令(原題)」(B-2694)

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普及版 字通 「講座」の読み・字形・画数・意味

【講座】こうざ

講席。

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