高倉天皇(読み)たかくらてんのう

精選版 日本国語大辞典 「高倉天皇」の意味・読み・例文・類語

たかくら‐てんのう ‥テンワウ【高倉天皇】

第八〇代天皇。後白河天皇第七皇子。名は憲仁(のりひと)。母は建春門院滋子。在位一一六八‐八〇)中は後白河院政期であり、また、平清盛の全盛時代にもあたり、清盛の息女徳子を皇后とされ、院と清盛の間にあって苦労が多かった。譲位の翌年二一歳で崩御。応保元~養和元年(一一六一‐八一

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デジタル大辞泉 「高倉天皇」の意味・読み・例文・類語

たかくら‐てんのう〔‐テンワウ〕【高倉天皇】

[1161~1181]第80代の天皇。在位1168~1180。後白河天皇の第7皇子。名は憲仁のりひと後白河法皇院政下に即位し、平清盛の娘徳子(建礼門院)を皇后としたが、法皇と清盛の不和を憂えて安徳天皇に譲位。

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朝日日本歴史人物事典 「高倉天皇」の解説

高倉天皇

没年:養和1.1.14(1181.1.30)
生年:応保1.9.3(1161.9.23)
平安末期の天皇。後白河天皇と建春門院滋子の皇子。諱は憲仁。母滋子の姉は平清盛の妻時子である。3歳で清盛の娘で関白基実の妻盛子の猶子となる。仁安1(1166)年10月10日,6歳で立太子。同3年2月19日即位。父の院政のもとで成長。皇室との密接な関係を求める清盛の政策で,承安2(1172)年清盛の娘徳子(のちの建礼門院)を中宮に迎える。清盛の勢力拡大に伴い,後白河法皇との軋轢が深まるなか,治承2(1178)年,生後間もない皇子(のちの安徳天皇)を皇太子とする。天皇の苦悩にもかかわらず清盛は翌年11月クーデタを起こし,法皇を幽閉し院政をとどめ,軍事政権を敷く。翌年2月譲位し,厳島神社へ御幸する。治承4年の福原遷都へも同行するが,生来の病弱に加えて,父後白河法皇と義父清盛との対立の心労が重なり,翌年死去。詩歌管絃に優れ,特に笛は堪能であった。

(櫻井陽子)

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百科事典マイペディア 「高倉天皇」の意味・わかりやすい解説

高倉天皇【たかくらてんのう】

後白河天皇皇子。1168年六条天皇の譲位により即位。中宮徳子(建礼門院)の父平清盛と後白河院の対立に悩み,1180年徳子所生の安徳天皇に譲位,形式的な院政を行った。

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改訂新版 世界大百科事典 「高倉天皇」の意味・わかりやすい解説

高倉天皇 (たかくらてんのう)
生没年:1161-81(応保1-養和1)

第80代に数えられる天皇。在位1168-80年。名は憲仁(のりひと)。後白河天皇の第7皇子。母は平滋子(建春門院)。1168年(仁安3)六条天皇の譲位を受けて8歳で即位。院政を敷く父法皇と中宮徳子(建礼門院)の父平清盛との対立に悩み,79年(治承3)11月清盛によるクーデタ後まもなく,徳子所生の安徳天皇(3歳)に譲位した。以来,形式上は高倉院政となったが81年1月病没。笛の名手とうたわれた。陵墓は京都市東山区の後清閑寺陵。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「高倉天皇」の意味・わかりやすい解説

高倉天皇
たかくらてんのう
(1161―1181)

第80代の天皇(在位1168~80)。名は憲仁(のりひと)。後白河(ごしらかわ)天皇の第七皇子。母は平時信(ときのぶ)の女(むすめ)滋子(しげこ)(建春門院(けんしゅんもんいん))。永暦(えいりゃく)2年9月3日誕生。天皇の時代は、平清盛(きよもり)の権勢盛んなときにあたる。1180年(治承4)、天皇は清盛の女徳子(とくこ)の生んだ皇子言仁(ときひと)親王(安徳(あんとく)天皇)に譲位し、清盛の強請によって上皇として最初の社参を安芸(あき)(広島県)の厳島(いつくしま)神社に行った。これは京都近辺の寺院勢力の反平氏連合をもたらし、それはまた以仁王(もちひとおう)の挙兵と諸国の源氏の蜂起(ほうき)をよび、ここに源平争乱の時代が始まった。そのさなか、治承(じしょう)5年1月14日没した。御陵は京都市東山区の後清閑寺(のちのせいかんじ)陵。

[山本博也]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「高倉天皇」の意味・わかりやすい解説

高倉天皇
たかくらてんのう

[生]応保1(1161).9.3. 京都
[没]養和1(1181).1.14. 京都
第 80代の天皇 (在位 1168~80) 。名は憲仁。後白河天皇の第7皇子。母は平時信の娘,尊称皇太后建春門院滋子。仁安1 (66) 年六条天皇の皇太子となり,同3年後白河法皇の院政下に即位。平清盛の最盛期にあたり,天皇は名目にすぎなかった。しかも院と清盛との対立は激化し,法皇が平氏の権を押えようとしたため憤激した清盛は,法皇を鳥羽殿に幽閉。清盛の女婿である天皇は深くこれを憂え,治承4 (80) 年中宮建礼門院平徳子所生の安徳天皇に譲位,翌年没した。笛をよくしたという。陵墓は京都市東山区清閑寺陵。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「高倉天皇」の解説

高倉天皇 たかくらてんのう

1161-1181 平安時代後期,第80代天皇。在位1168-80。
永暦(えいりゃく)2年9月3日生まれ。後白河上皇の皇子。母は平滋子(しげこ)(建春門院)。六条天皇が5歳で譲位し,8歳で即位。平清盛が絶大な権力をふるい,後白河上皇との対立がふかまる。治承(じしょう)4年清盛の娘徳子(建礼門院)との間に生まれた3歳の皇子言仁(ときひと)(安徳天皇)に位をゆずった。治承5年1月14日死去。21歳。墓所は後清閑寺陵(のちのせいかんじのみささぎ)(京都市東山区)。諱(いみな)は憲仁(のりひと)。
【格言など】薄霧の立ちまふ山のもみぢ葉はさやかならねどそれとみえけり(「新古今和歌集」)

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「高倉天皇」の解説

高倉天皇
たかくらてんのう

1161.9.3~81.1.14

在位1168.2.19~80.2.21

後白河天皇の第7皇子。名は憲仁(のりひと)。母は平時信の女建春門院滋子(じし)。父の意志により,1166年(仁安元)皇太子に立ち,2年後,六条天皇の譲位をうけて践祚(せんそ)した。78年(治承2)平徳子(清盛の女)が生んだ長子(安徳天皇)を皇太子に立てる。79年,平清盛が後白河法皇を幽閉する事件により,翌80年譲位し,みずから院政を担った。

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旺文社日本史事典 三訂版 「高倉天皇」の解説

高倉天皇
たかくらてんのう

1161〜81
平安末期の天皇(在位1168〜80)
後白河上皇第7皇子で,名は憲仁 (のりひと) 。母は平滋子 (しげこ) (平時忠の妹)。在位中は平清盛の全盛時代で,父後白河と清盛の反目に苦しみ,中宮徳子(清盛の娘)の生んだ安徳天皇に譲位した。

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367日誕生日大事典 「高倉天皇」の解説

高倉天皇 (たかくらてんのう)

生年月日:1161年9月3日
平安時代後期の第80代の天皇
1181年没

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