精選版 日本国語大辞典 「木下長嘯子」の意味・読み・例文・類語
きのした‐ちょうしょうし【木下長嘯子】
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(飯倉洋一)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
江戸前期の歌人。名は勝俊(かつとし)。長嘯、天哉(てんさい)などと号し、堂号に挙白堂(きょはくどう)などがある。豊臣(とよとみ)秀吉の正室寧子(ねね)(北政所(きたのまんどころ))の弟木下家定の嫡男。播磨(はりま)国(兵庫県)龍野(たつの)城主を経て、若狭(わかさ)国(福井県)小浜(おばま)城主となったが、関ヶ原の役後、封を奪われ、32歳で京都東山に隠棲(いんせい)、藤原惺窩(せいか)、林羅山(らざん)、松永貞徳、小堀遠州など多くの文化人たちと交わりながら、文雅を楽しむ生活を送った。晩年72歳以後は、京都の西郊小塩山麓(おしおさんろく)に移居、慶安(けいあん)2年6月15日、81歳で没した。和歌は細川幽斎に学んだが、師の二条家歌学尊重の立場を越えて自由闊達(かったつ)な詠風を示し、当時の歌壇に異彩を放った。またその文章も、和漢の古典を豊かに踏まえながら、ときに諧謔(かいぎゃく)味を加えた独特なもので、ものにとらわれぬ自在な精神が脈打ち、後の芭蕉(ばしょう)、其角(きかく)などの俳人にも影響を与えた。家集に『挙白集』(1649刊)がある。
[嶋中道則]
里は荒れて燕(つばめ)ならびし梁(うつばり)の古巣さやかに照らす月かげ
『吉田幸一編『長嘯子全集』全6巻(1972~75・古典文庫)』
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出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
江戸前期の歌人。名は勝俊。別号挙白人。父は木下肥後守家定。豊臣秀吉の北政所は伯母。若狭守となり小浜城に入る。左近衛権少将。関ヶ原の戦後はみずから隠居して京都東山の霊山などに住み,松永貞徳,九条道房などの儒家,縉紳と交わった。和歌は細川幽斎に学ぶ。堂上二条派の伝統にとらわれず,自由闊達な歌風。近世初頭武士の典型的隠者である。家集《挙白(きよはく)集》,紀行文《九州のみちの記》がある。
執筆者:柳瀬 万里
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
…《万葉代匠記》は,下河辺長流(しもこうべちようりゆう)が水戸光圀に請われてはじめた万葉集注釈の作業を,長流老齢のため引き継いだ仕事であった。長流の師は《万葉集》を尊重した木下長嘯子である。つまり,長嘯子,長流,契沖という《万葉集》尊重の立場に立つ系譜が成立しつつあったのであり,こうしたなかから,田安宗武,賀茂真淵らが出たのである。…
…近世大名。豊臣秀吉の生家木下氏と秀吉の妻(高台院)の実家杉原氏流木下氏がある。秀吉の父弥右衛門は織田信秀の足軽で尾張中村の百姓。秀吉は信長に仕え木下藤吉郎と名のるが,出世に伴い1573年(天正1)羽柴氏に,さらに86年豊臣氏に改姓した。杉原氏は定利の女が秀吉の妻(北政所)となり,秀吉の一族として繁栄,北政所の伯父家次は秀吉に仕え丹波福知山城主となった。兄家定は秀吉に近侍し木下姓に改めて播磨姫路城主,関ヶ原の戦後備中足守(あしもり)に移封された。…
…江戸初期の歌文集。木下勝俊(木下長嘯子)詠,打它公軌(うつだきんのり)・景軌・山本春正編。1649年(慶安2)刊。…
※「木下長嘯子」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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