李自成(読み)りじせい(英語表記)Lǐ Zì chéng

精選版 日本国語大辞典 「李自成」の意味・読み・例文・類語

り‐じせい【李自成】

中国明末、農民反乱指導者。駅卒から身を起こして反乱軍の首領となり、新順王と称した。一六四四年西安占領大順国をたてた。同年北京包囲、明を滅ぼしたが、満州軍に敗れ湖北で殺害された。(一六〇六‐四五

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デジタル大辞泉 「李自成」の意味・読み・例文・類語

り‐じせい【李自成】

[1606~1645]中国、末の農民反乱の指導者。米脂(陝西せんせい)の人。1628年、陝西地方に大飢饉が起こると反乱に加わってその首領となり、各地を転戦して、1643年には新順王を称し、西安を占領。翌年北京を攻略して明を滅ぼすが、呉三桂攻撃敗退湖北で殺害された。

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改訂新版 世界大百科事典 「李自成」の意味・わかりやすい解説

李自成 (りじせい)
Lǐ Zì chéng
生没年:1606-45

中国,明末の農民反乱指導者。陝西省米脂の貧農出身。若いころは牧童などをしたが,のち駅卒となった。しかし駅站の廃止によって失業した彼はついで兵隊となった。おりしも1628年(崇禎1)ころ陝西地方には干ばつによる大飢饉が起こり,各地で飢餓農民の暴動が発生していた。彼は食糧の欠配などのため不満をたかめていた兵隊を率いて反乱に加わった。初期の反乱指導者は王嘉胤(おうかいん)であったが,彼が明軍に討たれたあと,高迎祥が反乱軍を率い,李自成はその下で隊長となり闖将(ちんしよう)と呼ばれた。各地を転戦するうち,36年高迎祥が戦死すると,彼は闖王と称し一方の首領となったが,このころ反乱勢力は後退し,他の首領も多く明軍に下った。しかし40年華北を襲った飢饉をついて河南に進出した彼の勢力は再び強大となり,李巌(りがん),牛金星らの読書人層の参加をえると彼らの建言を採用し,新しい政策をかかげた。〈貴賤にかかわらず田を均しくし,三年間税を免じる〉といった経済政策,また〈殺人せず,愛財せず,姦淫せず,略奪せず〉といった厳しい軍律をとなえて民衆の支持をえたのである。

 やがて41年には洛陽を占領して明の皇族福王を殺したのをはじめ,つぎつぎに大都市をも攻略し,43年には襄陽(湖北省)で新順王を称えた。44年には西安を占領し,ここを都として大順国を建て,年号永昌と定め,官僚制度を設けて国の体制をつくった。そして軍隊を整えると東征軍を起こし,3月太原,大同をへて明の国都北京を攻撃した。このとき明軍の主力満州族との戦いで山海関にあったので,北京はたちまち陥落し,崇禎帝は自殺した。李自成はここで官制を改め新国家の体制を建てようとしていたが,山海関にいた明将呉三桂は満州軍に投降し,その援助のもとに李自成を打ち破った。李自成は北京をすて西安に逃れたが,のち45年(順治2)通城(湖北省)の山中で地主武装軍に殺された。しかし彼の部下はその後も各地でゲリラ戦を展開して清軍に反抗,また明軍と結んで反清闘争を行ったものも多かった。
張献忠
執筆者:

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「李自成」の意味・わかりやすい解説

李自成
りじせい
(1606―1645)

中国、明(みん)末の農民反乱の指導者。米脂(べいし)(陝西(せんせい)省)の農民出身。彼の生家は小地主であったともいわれるが、明朝の政治的腐敗と過酷な税によって没落、破産し、牧夫ののち駅卒となったが失業、兵隊になった。おりしも1628年、陝西地方に大飢饉(ききん)が起こり、飢餓農民の反乱が起こった。彼は飢兵を率いて反乱に参加、まもなく高迎祥(こうげいしょう)のもとで隊長となり、闖将(ちんしょう)とよばれた。36年高迎祥の戦死後は一方の首領となり闖(ちん)王を称し、他の首領たちの投降後も活動を続け、40年河南省に入るとふたたび強勢となり、李巌(りがん)、牛金星ら読書人層の参加をも得るに至った。自成は彼らの建言により「貴賤(きせん)にかかわらず田を均(ひと)しくし、3年間徴税をしない」という民生策を掲げ、「殺人せず、愛財せず、姦淫(かんいん)せず、略奪せず」と唱えて軍規を厳しくし、民衆の支持を得た。やがて43年には襄陽(じょうよう)(湖北省)で新順王を称し、西安を占領、翌年には国号を「大順」、年号を「永昌(えいしょう)」と定め、官僚制度を設け国家体制をつくるや、東征軍をおこし、3月、山西を経て北京(ペキン)に入城し、明の崇禎(すうてい)帝を自殺させた。しかし満州軍の援助を得た呉三桂(ごさんけい)軍の進攻の前に敗退し、北京を捨てて西に逃れ、45年湖北の山中で地主武装軍に殺された。しかし彼の残存勢力はのち各地で反清(しん)闘争を続行した。

[谷口規矩雄]

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「李自成」の解説

李自成(りじせい)
Li Zicheng

1606~45

明末の反乱の首領。陝西(せんせい)省米脂(べいし)の人。貧農の子で,駅卒(駅に配置された従吏)の出身。1628年陝西地方に発生した大飢饉によって起こった暴動は,各地の流民を吸収して大規模な反乱に発展していった。李自成は反乱の首領高迎祥(こうげいしょう)の部下となり,その死後みずから闖王(ちんおう)と称し,43年西安を占領して都とし,国を大順と号した。その集団は軍規厳正で,徴税を免じ富を等しくして貧を救うなどのスローガンを唱えたので,各地の人民の支持を受け,44年北京を攻略。このとき,明は崇禎(すうてい)帝が自殺して滅亡したが,清に援助を求めた呉三桂(ごさんけい)に李自成はたちまち討たれて西安に逃れ,ついで清軍に追撃されて湖北で自殺した。

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百科事典マイペディア 「李自成」の意味・わかりやすい解説

李自成【りじせい】

中国,朝を滅ぼした反乱軍の首領。陝西省の貧農出身。1628年の陝西飢饉(ききん)による反乱続発の際に乱徒に投じ,のち首領となって闖(ちん)王と称した。明軍に敗れたのち四川で再起。流賊性を脱し均田の実施,免税を唱えて,農民の信頼を集め,軍紀厳正な集団を編制した。1643年西安を西京とし国号を大順と称した。翌年北京を占領し明朝を滅ぼしたが清軍に敗れ,のち湖北で武装地主軍に殺された。
→関連項目呉三桂

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世界大百科事典(旧版)内の李自成の言及

【崇禎帝】より

…とくに西北辺境では,明朝の駅伝削減により失業した駅夫や,食糧欠配に悩んだ兵士が,この反乱に加わり反乱の勢力は急速に拡大した。この反乱の中から李自成,張献忠らの力が台頭し,それぞれ大勢力を築きあげた。やがて李自成は西安を占領すると,ここを本拠として明朝討伐軍をおこしたが,明朝の将軍たちはつぎつぎ李自成に投降した。…

※「李自成」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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