草場佩川(読み)くさばはいせん

精選版 日本国語大辞典 「草場佩川」の意味・読み・例文・類語

くさば‐はいせん【草場佩川】

江戸末期の朱子学者、画家肥前の人。名は鞾。通称瑳助。江戸の古賀精里師事対馬に行き、朝鮮と外交折衝を行なう。のち佐賀藩儒官。詩をよくし、南宋画にすぐれた。著に「対馬日記」「珮川詩鈔」など。天明七~慶応三年(一七八七‐一八六七

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デジタル大辞泉 「草場佩川」の意味・読み・例文・類語

くさば‐はいせん【草場佩川】

[1787~1867]江戸後期の儒学者・漢詩人肥前の人。名は韡。あざなは棣芳。江戸で古賀精里に学び、佐賀藩に仕え、詩と絵に長じた。著「佩川詩鈔」など。

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改訂新版 世界大百科事典 「草場佩川」の意味・わかりやすい解説

草場佩川 (くさばはいせん)
生没年:1787-1867(天明7-慶応3)

江戸後期の漢詩人,儒者。肥前の人。名は鞾,字は棣芳,通称瑳助,佩川は号。佐賀藩の支藩の多久藩士の家に生まれ,23歳の時江戸に出て,佐賀藩出身の儒者古賀精里について学んだ。のち多久藩の儒官となり,さらに本藩の儒官に進む。資質有能で,藩士の教育だけでなく藩政にも参与し,藩主鍋島閑叟(かんそう)の信任が厚かった。詩人としての才能にも恵まれ,江戸と佐賀をたびたび往復して,菅茶山,市河寛斎,頼山陽らと親交があった。多作家で,日記をつけるように毎日数首ずつ詠じ,これを〈詩暦〉と称した。その作品は《佩川詩鈔》(1853)に収められる。絵もよくし,とくに墨竹画にすぐれた。
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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「草場佩川」の解説

草場佩川 くさば-はいせん

1787-1867 江戸時代後期の儒者。
天明7年1月7日生まれ。肥前佐賀藩家老多久(たく)氏の家臣。古賀精里にまなぶ。文化8年対馬(つしま)で朝鮮通信使詩文をかわして名をあげる。のち藩校弘道館教授。漢詩,墨竹画をよくした。慶応3年10月29日死去。81歳。名は韡。字(あざな)は棣芳。通称は瑳(磋)助。別号に珮川,玉女山樵など。著作に「津島日記」,詩集に「珮川詩鈔」など。

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367日誕生日大事典 「草場佩川」の解説

草場佩川 (くさばはいせん)

生年月日:1787年1月7日
江戸時代後期の漢詩人;肥前佐賀藩の儒官
1867年没

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