世界大百科事典(旧版)内の《風と共に去りぬ》(映画)の言及
【MGM】より
…ウォール街の金融資本と結びついて黄金時代を迎えたハリウッドで,MGMは〈芸術のための芸術〉というモットーで飾ったほえるライオンをトレードマークとし,20年代初めに前身のメトロ社が,ルドルフ・バレンティノ主演の諸作によって基礎をつくった〈スターシステム〉を伝統に,グレタ・ガルボ,クラーク・ゲーブル,グロリア・スワンソン,ロバート・テーラー等々,〈空の星より多いスター〉を誇り,ひたすら〈健全な娯楽映画〉の製作を目ざした。とくに〈女性の撮影所〉と呼ばれたほど女性観客を重視し(その記念碑的代表作が《風と共に去りぬ》1939),また,《ブロードウェー・メロディ》に始まり《巨星ジーグフェルド》(1935),《オズの魔法使》(1939)を経て,アーサー・フリード製作の《踊る大紐育》(1949),《巴里のアメリカ人》(1951),《雨に唄えば》(1952),《バンド・ワゴン》(1953),《恋の手ほどき》(1958)に至るミュージカル映画を特色の一つにして発展した。30年代と40年代前半が最盛期であったが,観客の減少による不況期には,タルバーグ亡きあと42年に製作担当副社長になったドーリ・シャリー(1905‐80)が低額予算と合理主義による製作方針で腕をふるった。…
【カラー映画】より
…そして,このシステムによる最初の長編劇映画《虚栄の市》(1935)で心理描写を色彩効果によって強調する独自の領域が開拓され,カラー映画も〈成人〉に達したと評価された。続いて《丘の一本松The Trail of the Lonesome Pine》(1936)ではテクニカラーによる最初の野外撮影が行われ,《砂漠の花園》(1936),《スタア誕生》(1937),イギリス映画《暁の翼》(1937)などを経て,《風と共に去りぬ》(1939)の成功によってカラー映画は一つの頂点に達し,〈テクニカラー〉は〈カラー映画〉の同義語になった。なお,39年にはアカデミー賞にカラー撮影部門が設けられている。…
【セルズニック】より
…《風と共に去りぬ》(1939)で知られるアメリカの映画製作者。ピッツバーグ生れ。…
※「《風と共に去りぬ》(映画)」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」