イエス・キリスト(読み)いえすきりすと(英語表記)Jesus Christ

翻訳|Jesus Christ

日本大百科全書(ニッポニカ) 「イエス・キリスト」の意味・わかりやすい解説

イエス・キリスト
いえすきりすと
Jesus Christ
(前7ころ?―後30?)

キリスト教の始祖。その生誕年が西暦紀元とされるが、実際には差があると考えられている。「イエス」は「ヤーウェイスラエルの神)は救いである」という意味のヘブライ語の人名イェホーシューア(短縮形ヨシュア)のギリシア語音訳(正確にはイエースース)。「キリスト」は本来固有名詞ではなく、「油注がれた者」を意味するヘブライ語マーシュィーアッハ(メシア)にあたるギリシア語(正確にはクリストス)である。これは『新約聖書』時代のユダヤ人には救済者の称号となっていたが、他の諸民族の間ではその意味が理解されず、したがってイエス・キリストは固有名詞として用いられるようになった。

[川島貞雄]

イエスの実像と資料

イエス・キリストに関する『新約聖書』以外の資料は多くない。ローマの歴史家タキトゥス(55ころ―120ころ)は、総督ポンティウス・ピラトゥスのもとでのキリストの処刑に短く言及している(『年代記』15章44)。ローマの著述家スエトニウス(69ころ―140ころ)は、クレストゥスにそそのかされて絶えず騒動を起こすことを理由に、クラウディウス帝がユダヤ人をローマから追放したと報じているが(『皇帝伝』「クラウディウス」25章4)、このクレストゥスがキリストをさすか否かは明らかでない。ユダヤの歴史家ヨセフス(37―100ころ)は、「キリストと呼ばれるイエスの兄弟」ヤコブの石打ちの刑について語っているにすぎない(『ユダヤ古代誌』20章200)。ユダヤ教のラビ伝承によると、イエスは魔術を行い、イスラエルを惑わし、背教させたので過越祭(すぎこしのまつり)の前日に処刑された(『タルムード』「サンヘドリン」43a)。しかしこれらはいずれも『新約聖書』から知りうる事柄を本質的に越えるものではない。『新約聖書』のなかでイエスに関する主要資料は福音(ふくいん)書であるが、福音書は単なる過去のイエスの歴史ではなく、彼を救済者として信じている原始教会の人々の信仰の告白であり、弁証でもある。福音書著者たちは、それぞれの状況と視点から独自のイエス像を描き出しているが、「これらのことを書いたのは、あなたがたがイエスは神の子キリストであると信じるためであり、また、そう信じて、イエスの名によって命を得るためである」(「ヨハネ伝福音書」20章31)ということばが、基本的には、すべての執筆動機を言い表している。確かに福音書には、イエスに関する古い伝承がしばしば原形に近い形で保存されている。しかし伝承が、すでに福音書以前の口伝の段階で宣教、礼拝、教育など教会の諸活動に適するような仕方で形成されてきたことも考慮されねばならない。最近の研究は、教会の諸活動だけではなく、伝承の担い手の社会的状況も伝承の形成に影響を及ぼすことに注目している。したがって、福音書をイエスの資料として用いるときには、慎重な学問的・批判的検討が必要となる。

[川島貞雄]

生涯

イエスの生年の確定はむずかしい。「マタイ伝福音書」(2章1)によると、彼はヘロデ大王の統治下(前37~前4)に生まれたが、「ルカ伝福音書」(2章1)によると、その誕生は皇帝アウグストゥスによる人口調査の勅令発布の年と結び付けられている。一般にこの人口調査は紀元後6~7年に実施されたと考えられているが、勅令はすでに紀元前7年に発布されていたと推測する学者もいる。ベスレヘムをイエスの出生地とする「マタイ伝福音書」(2章1以下)と「ルカ伝福音書」(2章1以下)の叙述は、メシアはベスレヘムから現れるという、ユダヤ人の期待(「ミカ書」5章2)に基づく物語であるかもしれない。古い伝承によると、イエスは「ナザレのイエス」とよばれているので(「マルコ伝福音書」10章47ほか)、ガリラヤのナザレの出身であったと推測される。父はヨセフ、母はマリア。兄弟たちや姉妹たちもいた(「マルコ伝福音書」6章3)。「マタイ」「ルカ」の両福音書の誕生物語では、イエスを処女マリアから生まれたとして、イエスの聖性の根拠としている。少年時代については、12歳のときエルサレムの神殿で教師たちと問答をし、その賢さに人々が驚嘆したという物語(「ルカ伝福音書」2章41以下)のほかには、何も知られていない。紀元28年ごろヨルダン川のほとりでヨハネの洗礼運動が始まると、彼から洗礼を受け、やがて弟子たちを集めて宣教活動を開始した。「マルコ伝福音書」によると、イエスの活動のおもな舞台はガリラヤである。彼は民衆の間で教え、病人を癒(いや)し、悪霊祓(ばら)いを行うが、後述するように、ユダヤ教の伝統的教えに対して自由にふるまったため、律法学者やパリサイ人などユダヤ教指導者の反感を買った。

 最後に、過越祭を祝うためエルサレムに上京(日曜日)、そこでユダヤ教指導者たちと論争し、弟子たちを教えるが、その週の木曜日に十二弟子と過越の食事(最後の晩餐(ばんさん)となった)をともにし、その一人であるイスカリオテのユダに裏切られ、ユダヤの最高法院(サンヘドリン)によって逮捕、審問され、涜神(とくしん)の罪で死刑の判決を受けた。しかし当時ユダヤ人は死刑執行権をもたなかったので(「ヨハネ伝福音書」18章31)、イエスをローマの総督ポンティウス・ピラトゥスに反ローマ運動の指導者として訴え、死刑を強く要求した。福音書によれば、ピラトゥスはイエスにその罪をみいだすことができなかったが、ユダヤ人の声に負け、彼を「ユダヤ人の王」すなわち反ローマ的メシア僭称(せんしょう)者として、エルサレム郊外のゴルゴタの丘で十字架につけた。このことから、イエスは実際に反ローマ的暴力革命の指導者であったと想像する学者もいるが、福音書によれば彼の運動は政治的でも軍事的でもない。しかしイエスのように、この世界の終焉(しゅうえん)を意味する神の国の宣教と治癒活動によって多くの抑圧された貧しい民衆をひきつける者は、支配者にとって好ましくない人物に違いなかった。しかもイエスのもとに集まる民衆のなかには、彼の意に反して民族的メシア王国の実現を期待する者もいたので、支配層はそこにいっそう危険を感じたことであろう。そのためにイエスの処刑には福音書が報告する以上に、ローマ人が積極的に関与したかもしれない。

 処刑の日は金曜日であったが、「マタイ」「マルコ」「ルカ」の3福音書によると過越祭の日(ユダヤ暦のニサン月15日)、「ヨハネ伝福音書」によるとその前日である。いずれが正確であるかは今日なお議論されている。後者をとるならば、紀元30年4月7日の可能性が生じてくる。この場合イエスの活動期間は、そのなかに三度の過越祭を数える「ヨハネ伝福音書」から推定されるように、2年余りであったと考えられる。この福音書によると、彼は4回エルサレムに上京し、ユダヤ地方にも長く滞在している。ガリラヤをイエスの活動の主要舞台とし、エルサレム滞在を1週間たらずに限定する「マルコ伝福音書」の構成は、ユダヤ教指導者から蔑視(べっし)されがちなガリラヤをイエスの活動の場所、ユダヤ教の中心地エルサレムをイエスの受難と死の場所として図式化しようとする福音書著者の意図を表しているのかもしれない。

[川島貞雄]

イエスの教えとユダヤ教

イエスはユダヤ人たちが待望していた神の国――神の支配――の接近を告知し(「マルコ伝福音書」1章15)、主(しゅ)の祈りのなかでその実現を祈るべきことを教えた(「マタイ伝福音書」6章10)。この限りにおいて、彼はユダヤ教黙示文学の世界に住んでいた。しかし、彼の宣教は独自の特色を備えている。彼にとって神の国は単に接近しているだけではなく、すでに現在の事実となっている。彼の行う悪霊追放はそのしるしとして解釈される。「わたしが神の指によって悪霊を追い出しているのなら、神の国はすでにあなたがたのところに来たのである」(「ルカ伝福音書」11章20)。このように神の国は、未来の事柄であると同時に現在の事実でもある、という。これは一見矛盾であるようにみえるが、イエスにとって決定的に重要なことは、人はいまや神の支配に直面し、それを受容するか拒否するかの決断を迫られているということである。神の支配は人が距離をおいてその到来のときを算定したり、その光景を想像したりすることができるような事柄ではない(「マルコ伝福音書」13章32)。いまや態度決定の保留は許されない(「マタイ伝福音書」11章16~17)。最後の審判においては、ユダヤ民族の特権は認められない。救済の道は各人の悔い改めと信仰のみである(「ルカ伝福音書」13章1以下、「マタイ伝福音書」8章10以下)。

 しかしイエスは神の審(さば)きよりも恵みを強調する。神は慈愛に満ちた天の父として、「悪い者の上にも良い者の上にも、太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも、雨を降らしてくださる」(「マタイ伝福音書」5章45)。天にいます神すなわち聖なる超越的な神は、遠き神であると同時に、幼児が父親を呼ぶときに使う「アバ」ということばで、親しく、全き信頼をもって呼びかけることができる近き神でもある(「ルカ伝福音書」11章2、「マルコ伝福音書」14章36)。迷い出た一匹の羊を懸命に捜し歩く羊飼い、失われた一枚の銀貨を一心に捜す女、放蕩(ほうとう)息子の帰宅を喜び迎える父親などに関する一連の譬(たとえ)(「ルカ伝福音書」15章1以下)は、神の国は人間の敬虔(けいけん)や功績に対する報酬ではなく、純粋な恵みの賜物(たまもの)として、「律法をわきまえない群衆」(「ヨハネ伝福音書」7章49)に与えられることを示している。したがってイエスは、律法を守りえないゆえに神から見捨てられているとみなされていた取税人や罪人と食事をともにし、彼らに救いを約束する(「マルコ伝福音書」2章16以下)。他方、自己の敬虔に頼り、それを神の前に誇り、その報酬として救いを得ようとする者は、神から退けられる(「ルカ伝福音書」18章9以下)。そこには高慢の危険がある。こうしてユダヤ教的報酬思想は批判され、ユダヤ教指導者たちはイエスのふるまいに憤る。

 神の無限の恵みの賜物として神の国を約束された者は、それに対する感謝の応答として神と隣人への限りない愛を求められる。神への愛と隣人への愛は不可分であり、この二重の戒めよりも大事な戒めはない(「マルコ伝福音書」12章28以下)。そして愛は敵にまで及ばなければならない。「敵を愛し、迫害する者のために祈れ」(「マタイ伝福音書」5章44)。こうしてイエスは、愛を徹底的に重視する結果、ときにはユダヤ教律法の規定に反する言動をも示す。安息日に病人を癒し(「マルコ伝福音書」3章1以下)、法的、社会的に弱い婦人の立場を考慮して離婚を禁じ(同10章1以下)、人間相互の交わりを妨げる食物規定を批判する(同7章15)。しかし律法に対する批判的言動はユダヤ教からみれば涜神(とくしん)にほかならず、とうてい許容できるものではなかった。これがイエス処刑の決定的な原因になったと思われる。

[川島貞雄]

イエスの人格

福音書を批判的に読むと、イエスがメシアの自覚をもち、自己に対する信仰を要求したと推測することは困難である。しかしイエスは律法およびその伝統的解釈に拘泥する律法学者とは異なり、自らの権威によって、神の意志を説いた(「マルコ伝福音書」1章22)。その発言が「まことに、まことに(アーメン、アーメン)わたしはあなた(がた)にいう」ということばで始められることもあるが(「ルカ伝福音書」4章25ほか)、このイエス独特の導入句は、並外れた確信と権威を暗示する。彼は前述したように律法に対しても自由にふるまう。弟子たちに対しては絶対的、徹底的服従を要求する(「マタイ伝福音書」10章37、「マルコ伝福音書」8章34以下)。彼の奇跡は神の支配のしるしである。彼に出会う者は神の支配に直面する。それを受けるか拒むかの決断が人の運命を最終的に、永遠に決定する(「マルコ伝福音書」8章38)。したがってイエスは、律法を論じ知恵を教える教師、神の国の到来を告げ知らせる預言者、多くの病人を癒す奇跡行為者などの範疇(はんちゅう)を超えていた。

[川島貞雄]

復活

イエスが逮捕されるや、弟子たちは彼を見捨てて逃げ去ってしまったが、まもなく、イエスが復活したとの確信を抱き、彼を神の子メシアとして信じ、その死を『旧約聖書』に書かれている神の救済計画に基づく贖罪(しょくざい)の死と考えるようになった。イエスの復活についてわれわれが所有する最古の伝承は、「キリストが、(旧約)聖書に書いてあるとおり、わたしたちの罪のために死んだこと、そして葬られたこと、聖書に書いてあるとおり、3日目に甦(よみがえ)ったこと、ケパ(ペテロ)に現れ、次に、12人に現れたこと」(「第一コリント書」15章3~5)を伝えている。ここには復活のイエスの顕現が語られているが、その詳細は明らかでない。それはのちに成立した福音書の復活物語に待たねばならない。確かにこれらの物語には、教会の神学的、護教的モチーフが多様な形で反映している。イエスの墓が空虚であったという物語の歴史性については、議論が多い。顕現の場所に関してもガリラヤであったか(「マルコ伝福音書」)、エルサレムおよびその近郊であったか(「ルカ伝福音書」)、あるいはその両方であったか(「マタイ伝福音書」「ヨハネ伝福音書」)、諸福音書の報告は一致していない。しかしいずれにせよ、なんらかの形でイエスの顕現を経験した弟子たちは、「神が死人のなかからイエスを甦らせ」(「ローマ書」10章9)、天に引き上げ、万物の主とした(「ピリピ書」2章9~11)と信じ、「われらの主よ、きたりませ」(「第一コリント書」16章22)と祈りつつ、終末のときにおける彼の再臨を待ち望むようになったのである。

[川島貞雄]

美術に現れたイエス・キリスト

美術におけるキリスト像は、生涯の物語場面の主人公としての像と、単独像として礼拝の対象となった教義的表現とに大別される。しかしイエス・キリストの具体的な容姿については福音書にはいっさい記されていない。この点について当然のごとく初代教会の教父たちの議論するところとなった。『旧約聖書』には来るべき救世主(メシア)の姿かたちについての言及がたびたび認められる。たとえば「イザヤ書」53章では救世主の容姿は貧弱であると記され、テルトリアヌスやオリゲヌスらの初代教会の神学者たちは、イエスも当然そうであったに違いないと記している。しかし実際には、ギリシア文化の伝統を継承したヘレニズム世界に生まれたキリスト教美術は、「詩篇(しへん)」45章にみるもう一つの救世主像、つまり理想化され、人として最高の美しさをもった救世主像としてイエス・キリストの容姿を創造していった。この場合二つの表現形式が生まれる。短い巻毛の頭髪で髭(ひげ)のない青年像と、黒く長い髪と同じく黒く豊かな髭を蓄えた荘厳なキリスト像とである。6世紀ころまではキリスト教世界全域でこの二つの型の表現が採用されている。しかし、後の東ヨーロッパの中世美術(ビザンティン美術)では荘厳なキリスト像が圧倒的となった。西ヨーロッパの中世美術ではロマネスク美術時代までは二つの型が使い分けられていたが、ゴシック美術時代になって14世紀以降は黒く長い髪と有髭(ゆうし)の荘厳なるキリスト像が優勢となる。

 こうした美術におけるキリスト像のほかに、「真の肖像」の問題がある。いわゆるアケイロポイエトス(人の手によって写されたものではない)としてのキリストの容姿で、次の三つがある。まずキリストが押し当てた布にキリストの顔が写ったという「聖骸布(せいがいふ)」で、エデッサのアブガルス王伝説中のものと、聖女ベロニカのものとがある。また死んだキリストの身体を包んだ布に全身像が写ったとされる北イタリアのトリノの聖布も現存する。さらに使徒ルカが描いたとされる肖像など、生存中のイエス・キリストを人が実際に描いたものとされる肖像も伝説化されて伝えられている。しかしアウグスティヌス(354―430)がすでに当時「イエス・キリストの容貌(ようぼう)がどうであったか、われわれはまったく知らない」と記しているように、こうした「真の肖像」は後代のキリスト教徒の熱烈なる聖なる遺物信仰が生んだものとみなして差し支えないであろう。

 こうしてキリスト教美術は3~4世紀の形成期に、なによりもまず第一にイエス・キリストの容姿を定型化せざるをえなかったわけで、そこに生まれたのが前に記した二つの型であった。青年像のキリスト表現が生まれた背景には、古代ギリシアのアポロン神像や英雄化された競技者像などがあったとみなされている。同様に長髪で有髭の荘厳なキリスト像は、ゼウス神像やアスクレピオス神像、哲学者像や教師像、さらにオリエントの君主像などを原型としたものと推察されている。

[名取四郎]

『A・M・ハンター著、竹森満佐一訳『現代のイエス伝』(1956・新教出版社)』『A・シュヴァイツァー著、遠藤彰・森田雄三郎訳『イエス伝研究史』上中下(1960~1961・白水社)』『E・シュタウファー著、高柳伊三郎訳『イエス、その人と歴史』(1962・日本基督教団出版局)』『R・ブルトマン著、川端純四郎・八木誠一訳『イエス』(1963・未来社)』『G・ボルンカム著、善野碩之助訳『ナザレのイエス』改訂増補版(1967・新教出版社)』『M・ディベリウス著、神田盾夫・川田殖訳『イエス』(1973・新教出版社)』『E・シュヴァイツァー著、佐伯晴郎訳『イエス=キリスト』(1974・教文館)』『J・エレミアス著、角田信三郎訳『イエスの宣教』(1978・新教出版社)』『荒井献著『イエス・キリスト』(1979・講談社)』『田川建三著『イエスという男』(1980・三一書房)』『F・F・ブルース著、川島貞雄訳『イエスについての聖書外資料』(1981・教文館)』『タイセン著、荒井献・渡辺康麿訳『イエス運動の社会学』(1981・ヨルダン社)』『ルイ・ルプランス・ランゲ他著、荒井献監修『世界伝記双書1 イエス・キリスト』(1983・小学館)』『荒井献著『イエスとその時代』(岩波新書)』


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百科事典マイペディア 「イエス・キリスト」の意味・わかりやすい解説

イエス・キリスト

ギリシア語で正しくはイエスス・クリストスで,〈油を注がれた者・王・救世主たるイエス〉の意。この表現自体が彼を開祖と仰ぐキリスト教徒の立場を反映していることに注意しなければならない。福音書の伝えるその生涯は巌密な史学的検証に耐えないが,およそ以下のように推定される。ヘロデ大王(前4年没)の晩年にガリラヤのナザレに生まれ,後28年ころバプテスマのヨハネに洗礼を受けてその運動に参加,のち独立してガリラヤを中心に宣教し,後30年ころエルサレムで捕縛・処刑された。死後復活して弟子たちに顕現したと伝える。ここに原始キリスト教が成立,以後の世界史に重大な役割を演じることになった。→キリスト教
→関連項目オリーブ[山]ナザレベツレヘムユニコーン

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「イエス・キリスト」の意味・わかりやすい解説

イエス・キリスト
Jesus Christ

[生]前6~前4頃. ベスレヘム
[没]後30頃. エルサレム
世界最大級の宗教の一つであるキリスト教の創始者。ガリラヤのイエス,ナザレのイエスともいう。イエスの行ないとことばは新約聖書の四つの福音書に記されて今日に伝えられている。福音書の記述は信仰と史実が融合しているが,生涯の大要は知ることができる。イエスは神からつかわされて救いを告知する神の子,メシアをもって自認し,神の国の到来と,特に貧者,病者,罪人の解放の福音を述べ伝えたほか,多くの癒やしの奇跡によって悩める人々を救ったといわれる。しかし形骸化した律法に固執する当時のユダヤ教指導者の偽善を厳しく批判し,律法からの解放と,真の隣人愛を説いたため,彼らからローマに対する反逆人として訴えられ,30年頃エルサレム郊外で十字架刑に処せられた。このイエスが 3日後に復活したとする確信によって弟子たちのイエスを救い主とする信仰が固められ,十字架の死は人類を罪から救うあがないの死であり,これによって旧約に代わる救いの新しい契約が神と人との間になったとされて,キリスト教の宣教が開始された。(→キリストキリストの復活

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とっさの日本語便利帳 「イエス・キリスト」の解説

イエス・キリスト

明日のことを思いわずらうな。明日のことは、明日自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である。\『新約聖書』
イエス・キリスト(前四頃~後三〇頃)のことば。

イエス・キリスト

この世は橋である。渡ってゆきなさい。しかし、そこに、棲家を立ててはならない。\イエス・キリスト
北インドの町の城門に刻されたことば(前四頃~後三〇頃)。

イエス・キリスト

何事でも人々からしてほしいと望むことは、人々にもその通りせよ。\『新約聖書』
イエス・キリスト(前四頃~後三〇頃)のことば。

イエス・キリスト

人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。\『新約聖書』
イエス・キリスト(前四頃~後三〇頃)のことば。

イエス・キリスト

幸いなるかな、貧しき者よ。\『新約聖書』
イエス・キリスト(前四頃~後三〇頃)のことば。

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367日誕生日大事典 「イエス・キリスト」の解説

イエス・キリスト

生年月日:前4頃年12月25日
キリスト教の始祖

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