イタリア文学(読み)いたりあぶんがく

日本大百科全書(ニッポニカ) 「イタリア文学」の意味・わかりやすい解説

イタリア文学
いたりあぶんがく

イタリア文学の特徴

イタリア半島は地中海世界のほぼ中央に位置し、紀元前には南部およびシチリア島を中心に多数のギリシア植民市を擁し、いわゆるマーニャ・グレーチャ(大ギリシア)の文明を築いた。紀元後には、キリスト教を基盤にローマ人が強固なラテン文化を繁栄させ、長く東西両世界の中心となった。このようにして前8世紀から紀元後12世紀までの2000年間にわたり、古代ギリシア文学とローマ文学の流れを直接に受け継いだイタリア文学は、それゆえ、他の諸国に比べて、ヨーロッパ古典文学の正統を守り、つねに古典への回帰を図ってきた。俗語によって古代ギリシア精神の再生を目ざしたルネサンス期のイタリア文学はその代表的な例であり、その後も、たとえば19世紀前半のアルフィエーリにおいて、あるいはザンテ島(ザキントス島)生まれのフォスコロにおいて、さらに19世紀後半のシチリア島出身の小説家ベルガの場合にも、さらにまた1959年ノーベル文学賞を受けた抵抗詩人クアジーモドの場合にも、つねに古典文学への復帰が唱えられ、その再生が前衛的な手法の下敷きになった。

 周知のように、古代ギリシア、ローマ文学の基調をなしたのは叙事詩であり、かつ叙情詩である。それゆえイタリア文学の流れも、まず叙事詩を基軸に展開していった。ダンテ、ボッカチオ、アリオスト、タッソなどというヨーロッパ文学最大の詩人たちの営為はこの系列に属している。またペトラルカを頂点とする叙情詩の世界は、20世紀に至るまで、イタリアの詩人や小説家たちの思索と表現の母体になってきた。そして叙事詩にせよ叙情詩にせよ、イタリア文学の表現の核心をなしたのは、端的にいって、「愛」にまつわる思索であった。一方、フランス、イギリスなどいわゆるヨーロッパ列強諸国よりも遅れて近代国家の統一を果たしたがために、中世都市国家の形態を遅くまで残存させたイタリアは、文学の面においても、ある種の遅れを近代に生じた。すなわち、ブルジョアジー文学の所産ともいうべき近代小説は十分に発達しなかった。政治面においても列強との遅れを取り戻すために急激な近代化を図ったファシズム期において、イタリア・ブルジョアジー文学は一定の発達を遂げつつあった。しかしこれを打ち砕いたのが、政治的には反ファシズムの国民運動であり、文学的にはネオレアリズモであった。それゆえ、第二次世界大戦後イタリア文学の基調は反ブルジョアジーの文学であり、反小説であり、責務の文学である。ネオレアリズモ文学の基盤が叙事・叙情の手法にあったことは、古典文学の伝統を受け継ぐ現代イタリア文学の特徴を明確に表しているであろう。

[河島英昭]

イタリア文学の歩み

中世からルネサンス期の文学

文章語として、また公用語として、もっぱらラテン語が使われていた中世末期において、イタリア語による最初の文学的表現は、1人の革新的な宗教者によってなされた。アッシジの聖者フランチェスコの『被創造物の歌』(1224/1225)である。教皇を中心とする正統の説教者たち――彼らはつねにラテン語を用いていた――に対して、あえてイタリア俗語による布教活動を行った清貧の宗教者は、聖者に列せられなければ異端の徒に転落させられかねない危険な立場に置かれ、文学に依拠したのである。やがてそれから1世紀を経ぬうちに、俗語による『神曲』を著してダンテが教皇庁の腐敗を鋭く批判してゆく萌芽(ほうが)は、すでにここに胚胎(はいたい)していたと考えてよい。

 ところで、13世紀初頭に、俗語文学は早くもイタリアの北部において盛んに流布していた。そして吟遊詩人たちがオイル語やオック語の文学をしきりに北イタリアの諸都市にもたらしていた。そのころ、シチリア島パレルモに宮廷をもつホーエンシュタウフェン家のフェデリーコ2世は、各地から文才に富む人材を集め、プロバンスの恋愛詩を積極的に取り入れたので、ここにシチリア派が勃興(ぼっこう)した。フェデリーコ2世自らも優れた俗語詩を表したが、彼の真の意図は、ラテン文化の牙城(がじょう)である教皇庁に向かって新しい文化を対峙(たいじ)させることにあった、と考えねばならない。シチリア派の宮廷詩人たちのなかには、たとえばソネット(十四行詩)の創始者といわれるジャコモ・ダ・レンティーニのような卓抜な人材が輩出したが、彼らの主題は「愛」をめぐる論争であった。しかし、ホーエンシュタウフェン家の没落とともに、シチリア派の詩人たちも四散して、彼らの詩法は北イタリアに広まり、ボローニャ派の詩人たちと微妙に影響しあって、トスカナ地方に「清新体」派を生み出した。その代表的詩人がフィレンツェ市国のダンテ・アリギエーリである。彼は散文に叙情詩を混交させ、『新生』(1293ころ)を著して、「愛」をめぐる新しい詩的地平が開かれたことを告げ、これを中世神学の宇宙観と合体させて、俗語による壮大な叙事詩『神曲』にまとめあげたのである。三位一体説(さんみいったいせつ)に基づき、地獄・煉獄(れんごく)・天国の三界を、三行韻詩によって遍歴してゆくこの作品のなかで、生きながら地獄の底を旅する詩人ダンテの導者は、ラテン世界最高の詩人ウェルギリウスである。ウェルギリウスは北イタリアのマントバ近郊に生まれ、ギリシアに旅して、ナポリに埋葬された。ダンテは自らを、ギリシアのホメロス、ラテンのウェルギリウスの叙事詩的伝統を受け継ぐ者とし、さらにこれを超克したイタリア語の詩人として自負している。しかも、天国へ向かうダンテの最後の導き手は、「愛」の化身であるベアトリーチェであった。

 中世神学を締めくくったダンテの文学が本質的に過去へのまなざしを内蔵していたのにひきかえ、ほとんど同時代に生きながら、フランチェスコ・ペトラルカもジョバンニ・ボッカチオも、「愛」に対する考えを――前者にあってはラウラが、後者にあってはフィアンメッタが存在するとはいえ――一転させて、近代へ向かって大きく進み出た。ダンテにおいては「愛」の寓意(ぐうい)であるベアトリーチェはつねに天上の光と一体化するが、ペトラルカの叙情詩におけるラウラは、むしろ失われた光を嘆いている。ましてやフィアンメッタ(「小さな炎」の意味もある)は、ボッカチオの肉欲を焼く業火にほかならない。そしてボッカチオの大作『デカメロン』(1349~1351ころ)は『神曲』と同じように完全数10の2乗すなわち100にこだわり、十日百話の体裁をとってはいるが、主題の「愛」は絶対的なものではなく、すでに「愛」と「運」と「才」に分割されて、近代小説の心理の世界を描き出しつつあった。そしてボッカチオの描く地上の、むしろ卑猥(ひわい)で、辛辣(しんらつ)で、日常的な俗世界は、人間個体に基礎を置くルネサンス精神と相まって、フランコ・サッケッティ、マッテーオ・バンデッロなどの短編物語の系譜を生み出し、またイタリア半島の外にはチョーサーやシェークスピアの文学を用意した。

 一方、「俗事詩片」という副題をもつ、ペトラルカの叙情詩集『カンツォニエーレ』(1335年ごろから最晩年まで、プレ・キージ本は1348年)は、ソネットを中心に、まさに完璧(かんぺき)な、そして複雑深遠な、詩的イメージの世界を展開して、その後数百年間の詩史に君臨し、いわゆるペトラルキズモは現代詩――たとえばウンガレッティの詩集『約束の地』(1950)――にまで濃い影を落としている。しかし、ペトラルカとボッカチオの後代に及ぼした影響という点では、この2人が確立し推進した人文主義の思想を、より重要なものとして指摘せずにはいられない。15世紀イタリア・ルネサンスの基盤をなした人文主義は、ペトラルカとボッカチオの古典文献の発掘とギリシア思想の再認識に始まったのである。人文主義運動は、古代ギリシア、ラテンの古典思想とキリスト教世界の調和という主題をめぐって、メディチ家支配下のフィレンツェにネオプラトニズモを生み出した。自らも詩を書き、文化の積極的擁護者であったロレンツォ・デ・メディチ、アンジェロ・アンブロジーニ(通称ポリツィアーノ)、あるいはラブレーやセルバンテスに通じる荒唐無稽(こうとうむけい)な巨人モルガンテの騎士物語を著したルイージ・プルチなどが、代表的な文学者である。『モルガンテ』(1483)に始まる古典文学と中世騎士道物語との混交は、マッテーオ・マリーア・ボイアルドの『恋するオルランド』(1499)から、ルネサンス期最大の叙事詩ルドビーコ・アリオストの『狂えるオルランド』(決定版1532)を経て、ルネサンス末期もしくはバロック期最大の叙事詩トルクァート・タッソの『解放されたエルサレム』(1575)に受け継がれ、ジャンバッティスタ・マリーノの長編叙事詩『アドーネ』(1623)に至って技巧は粋を極め、マリニズモと称せられた。そしてマリニズモはダンテ以来の叙事詩の精神を煩瑣(はんさ)な韻律のうちになかば窒息させた、といってもよいだろう。

 ところでルネサンスがもたらした個としての人間の発見は、一方において宗教の束縛から人間の精神を解き放ったが、同時に、個としての人間が不自由な社会機構のとりこである現実をより確かな明るみに引き出した。いまや自由な精神の持ち主であるルネサンス人は不自由な存在である個の状態を描き出す。ニッコロ・マキャベッリの『君主論』(1513)、バルダッサーレ・カスティリオーネの『廷臣論』(1528)、ピエトロ・アレティーノの『談論』(1534~1539)、フランチェスコ・グイッチャルディーニの『回想録』(1561~1564)などは、アリオストやタッソの小品や書簡などとともに、専制君主の宮廷社会に生きる困難な自由思想の持ち主たちの悲哀と狡智(こうち)と明晰(めいせき)さとを露(あらわ)にしてみせる。また廷臣よりは民衆もしくは無頼漢に近い存在の彫金師ベンベヌート・チェッリーニは、口述筆記させた『自伝』(出版は1728)のなかで、ルネサンス期社会の実態と限界とをおのずから明らかにしてみせた。

[河島英昭]

古典主義からロマン主義へ

すでに述べたように、14世紀から16世紀にかけては、詩においてペトラルカが、そして散文においてボッカチオが、多くの詩人や作家たちの鑑(かがみ)となった。しかしながら、もっぱら都市国家群の危うい均衡のうえに成り立っていたイタリア半島の文化は、まま地方主義に陥りがちであったので、ダンテ以来の「輝かしい俗語」の伝統を守るために、文学用語としての言語の純粋さを保つ論議が繰り返され、1525年にピエートロ・ベンボは『俗語論』を著して、イタリアにおける文章語の基礎を14世紀トスカナ地方の作家たち、とりわけペトラルカとボッカチオの言語に置くべきであることを主張した。これがフィレンツェのクルスカ学会(1583創設)の支持を受けて、1612年には最初の『イタリア語辞典』が刊行された。また文学表現においては極端に装飾的になった詩法マリニズモが一世を風靡(ふうび)したため、1690年にはアルカディア学会が創立され、古典への復帰が改めて唱えられ、簡潔な文体が尊ばれるようになった。そしてマリニズモにおける文章上の行き詰まりは、他方で、これを打ち破る地平を劇作面にみいだし、まずピエートロ・メタスタージオが喜劇と悲劇の融合を図ってメロドラマを創案した。また、16世紀に端を発する即興仮面劇コメディア・デラルテを改革し、カルロ・ゴルドーニは、ベネチア方言を基に性格劇を編み出して、イタリアの喜劇に新しい時代を到来させた。同じころカルロ・ゴッツィは、民話を劇に取り入れ、ついで、ビットーリオ・アルフィエーリが古典に題材を求めて荘重な悲劇の世界を繰り広げた。

 そして18世紀の末に、当時、外国勢力の支配下に呻吟(しんぎん)していたイタリア各地は、フランス革命の余波とナポレオン1世の攻略によって次々に解放され、いったんは共和制が敷かれながらも、ふたたび旧体制によって抑圧されることになった。このような歴史の変転のなかで、自らの希望と絶望に打ちひしがれながら優れた作品を発表した詩人に、ビンチェンツォ・モンティや、亡命先のロンドン郊外に客死したウーゴ・フォスコロがいた。わけてもフォスコロは、祖国愛と女性の愛に二重に裏切られた青年詩人をモデルに書簡体の長編小説『ヤーコポ・オルティスの最後の手紙』(1802)を著し、かつイタリア文学史の講義を行って、後世の文学史の礎(いしずえ)を築いた。イタリア・ロマン主義は、後期のフォスコロの文学活動に始まり、国家統一運動(リソルジメント)と軌を一にして、アレッサンドロ・マンゾーニとジャーコモ・レオパルディという2人の巨人を生み出した。マンゾーニは『婚約者』(1827)において、外国の圧制に屈しない民衆を描くと同時に、イタリア語の基礎をトスカナ語に置くことを確認して、近代国家イタリアの精神的統一に大きな役割を果たした。

[河島英昭]

近代文学から現代文学へ

世界でもっともペシミストの詩人とよばれるレオパルディは、幼いときからの必死の勉強のために――彼は15歳ですでに一家をなす論文を発表した――くる病になって夭逝(ようせい)したが、その優れた虚無の思想と詩作品は、後世に深甚な影響を与えた。

 20世紀に入り、イタリアはローマを首都と定め、統一を完成させた。このイタリア近代国家の統一は、同時にロマン主義文学の終焉(しゅうえん)をもたらした。いや、むしろ、国家統一(リソルジメント)運動が不徹底な改革であったがゆえに、統一国家によって裏切られた民衆の側の失望は深く大きかったといわねばならない。とりわけ、南部イタリアとシチリア島は旧体制にも劣らぬ圧政下にあえぎ、そのような民衆の赤裸々な姿を描く真実主義(ベリズモ)の文学がおこった。シチリア島出身のジョバンニ・ベルガは、シチリア語から編み出した新しい文体で、統一国家の政治の恩恵にもキリスト教の光にもいっさい浴さない貧しい人々の姿を描き出した。ベルガに至って初めて、イタリア文学は最下層の民衆を知の世界に写し出したのである。それゆえ、大勢において、統一後に蔓延(まんえん)した世紀末の頽廃(たいはい)主義、未来主義あるいはガブリエーレ・ダンヌンツィオの冒険主義が、前衛文学の運動とともにファシズムのなかへ吸収されていく過程にあって、1936年のスペイン内戦を境に、困難な状況のなかで、先にも述べたように反ファシズムの思想を埋め込んだネオレアリズモ文学が用意されていった。1941年に発表されたチェーザレ・パベーゼの『故郷』、エーリオ・ビットリーニの『シチリアでの会話』は、ともにベルガ文学を梃子(てこ)にして、叙事・叙情の手法を用い、ダンテ以来のイタリア叙事詩の伝統を意識しつつ、反ファシズムの思想を貫いて、現代イタリア小説に新しい地平を切り開き、慰みの文学に堕さない、社会的責務を担った、戦後文学の主潮を用意したのである。

[河島英昭]

第二次世界大戦後

このような文学状況を招いた、歴史的経緯を、確認しておこう。1943年7月、ムッソリーニが失脚して、ローマにバドリオ軍事政権が成立した。しかし9月に、連合軍との休戦協定が公表されるや、イタリア国王とバドリオ政府は、首都ローマを無防備都市にして、安全な南部へ逃亡してしまった。

 元来、イタリア半島は北部と南部で、対立する社会的・経済的要因をはらんでいたが、これを機に、戦乱のなかで、大きく二分された。すなわち南部は、バドリオ政権によるイタリア王国が存在して連合軍占領地域となり、入れ替わりにローマを制圧したドイツ軍と、ドイツ軍に救出されたムッソリーニの傀儡(かいらい)政権とが、北部を支配下に置いた。

 けれども、休戦協定が公表されるのとほぼ同時に、反ファシズムの国民解放委員会が結成され、レジスタンスも始まった。その結果、ローマまでの南部は連合軍によって解放されたが、北部は果敢な武装闘争のあげくに自力解放され、1945年4月、ムッソリーニはパルチザンによって銃殺されたのである。

 1940年代後半から50年代へかけては、このような反ファシズム闘争の熾烈(しれつ)な経験を舞台にした文学作品が、多数、発表された。それらを整理し、新しい戦後文学の筋道をたてようとしたのが、ビットリーニの編集による政治文化雑誌『ポリテークニコ』(1945~1947)、同じくビットリーニの編んだエイナウディ社の『ジェットーニ叢書(そうしょ)』(1951~1958)、そして年1冊刊行の文芸誌『メナボ』(1959~1967)であった。

 この間に発表された主要作品は、ビットリーニ『人間と否と』(1945)、パベーゼ『雄鶏の鳴くまえに』(1949)、カルビーノ『まっぷたつの子爵』(1952)、パゾリーニ『不良少年』(1955)などである。

 1950年に自殺するまで、エイナウディ社の編集長を務めたパベーゼは、神話を基盤にして、詩や長短編の重要な作品を発表したが、新人の問題作も数多く世に送り出した。カルビーノの長編処女作『蜘蛛(くも)の巣の小径(こみち)』(1947)もその一つである。

[河島英昭]

1950~1960年代

1950年代も後半に入ると、二つの文学運動がおこった。第一は『オッフィチーナ』誌(1955~1959)によったパゾリーニ、ロベルシRoberto Roversi(1923―2012)、フォルティーニらの活動であり、反エルメティズモと反ネオレアリズモを唱え、ガッダを暗黙の師と仰いでいた。

 第二は、『イル・ベッリ』誌(1956~1974)により、詩論家アンチェスキを師とする、バレストリーニ、ポルタ、サングイネーティジュリアーニらの活動である。彼らも反エルメティズモと反ネオレアリズモを唱え、1963年にパレルモで第1回の集会を開いたことから「63年グループ」とよばれるようになった。

 ビットリーニは『メナボ』誌第5号(1962)で、『オッフィチーナ』誌と『イル・ベッリ』誌の両同人たちの問題作を掲載し、1960年代文学の行く末を見定めようとした。が、病を得て、1966年に没した。カルビーノは『メナボ』誌第10号(1967)を「ビットリーニ追悼号」として終刊させた。

 この間の問題作は、詩集ではサングイネーティ『ラボリントゥス』(1956)、パゾリーニ『グラムシの遺灰』(1957)、ジュリアーニ編の詩選集『最新人』(1961)である。小説には、ガッダ『メルラーナ街の怖るべき混乱』(1957)、トマージ・ディ・ランペドゥーザ『山猫』(1958)、モラービア『倦怠(けんたい)』(1960)、バッサーニ『フィンツィ・コンティーニ家の庭』(1962)などである。

[河島英昭]

1970年代以降

1968年、大学闘争に端を発した反体制運動は、1970年代に入って、「赤い旅団」や「第一線」など、過激な武装闘争に発展し、元首相モーロの誘拐殺害事件(1978)にまで至った。「63年グループ」に集まった若い詩人や作家たちは、パゾリーニやモラービアたち「前衛派」に対して、「新前衛派」ともよばれたが、サングイネーティ、バレストリーニらに加えて、アルバジーノ、エーコら15名が集まって『クィンディチ』誌(1967~1969)を刊行した。その後を受けて発刊されたのが『アルファベータ』誌(1979~1988)である。

 この間に、激動したイタリアの社会情勢を反映した問題作は、シャーシャ『コンテクスト』(1971)、カルビーノ『宿命の交わる城』(1973)、モランテ『歴史』(1974)、バレストリーニ『描きだされた暴力』(1976)などである。

 1970年代の弾圧と抗争の渦巻く社会を、中世末期の正統と異端の対決する血腥(ちなまぐさ)い事件に重ね合わせて書いた、記号論学者エーコの長編処女作『薔薇(ばら)の名前』(1980)は、イタリア国内のみならず、全世界に大きな反響を呼び起こした。

 この間に、パゾリーニが「不慮の死」(1975)を遂げ、ノーベル文学賞が、クアジーモド(1959)、モンターレ(1975)に続き、フォー(1997)に贈られた。そして1985年にカルビーノとモランテが亡くなり、1990年にはモラービアも亡くなって、20世紀イタリアの豊饒(ほうじょう)な文学の季節は幕を閉じた。

[河島英昭]

イタリア文学の受容

明治時代――維新後、英独仏露などヨーロッパ諸国の文学に伍(ご)して、イタリアの文学作品も、重訳により、少しずつ知られるようになった。形式と内容からみて、まず、二つの流れに大別できよう。その一は散文。西洋奇話の淵源に位置するボッカチオの『デカメロン(十日物語)』から、日本の読者に喜ばれそうな短篇(ノベッラ)が、翻訳というよりは、むしろ翻案となって、しきりに紹介出版された。尾崎紅葉の「鷹料理」(1895)は世評を集めた例の一つである。

 その二は韻文。ダンテの叙事詩『神曲』を、内村鑑三などキリスト者たちが、熱烈に紹介翻訳した。純文学者としては、上田敏の『詩聖ダンテ』(1901)がもっとも早くに発表された。また、上田敏の訳詩集『海潮音』(1905)には、巻頭にダンヌンツィオの詩行が収められている。

 大正~昭和前半時代――ボッカチオ『デカメロン』の全訳を、戸川秋骨(英訳から、1916)や森田草平(独訳から、1931)らが刊行したが、しばしば不当な検閲や削除を蒙(こうむ)った。他方、ダンテ『神曲』の全訳は中山昌樹(1886―1944)訳(1917)、山川丙三郎(1876―1947)訳(1922)などによって刊行され、中山昌樹はさらに『ダンテ全集』全10巻(1925)も出版した(英訳から)。

 昭和時代を、ここでは、便宜上、前半と後半に分けるが、その境をなすのは第二次世界大戦の終り昭和20年(1945)である。明治維新から昭和前半までは、日本におけるイタリア語の高等教育機関が、東京外国語学校(1899年創立)しかなかった。そのため、イタリア文学がイタリア語から直接に翻訳されたり紹介されるまでには、有島生馬(東京外国語学校、第2回生、イタリアその他留学、1905~1910年)の登場を待たねばならなかった。明治末年から昭和前半にかけて、有島生馬およびその弟子の岩崎純孝(1901―1971)らが翻訳紹介した文学作品、たとえばデレッダ、ピランデッロなどは、かつてない質と量に達した。

 昭和後半~平成時代――ダンテ『神曲』の新訳も相次ぎ、重訳も減って、現代イタリア文学の豊饒(ほうじょう)な実体がようやく明らかになりつつある。

[河島英昭]

『P・アリーギ著、野上素一訳『イタリア文学史』(1956・白水社)』『フランチェスコ・デ・サンクティス著、池田廉訳『イタリア文学史(中世篇)』(1970・現代思潮新社)』『フランチェスコ・デ・サンクティス著、在里寛司訳『イタリア文学史(ルネサンス篇)』(1973・現代思潮新社)』『岩倉具忠著『イタリア文学史』(1985・東京大学出版会)』『日外アソシエーツ編・刊『ロシア・東欧・北欧・ラテン・東洋文学に関する37年間の雑誌文献目録 昭和23年~59年』(1988)』『河島英昭他訳『集英社ギャラリー「世界の文学」12 ドイツ、イタリア他』(1989・集英社)』『河島英昭著『叙事詩の精神――パヴェーゼとダンテ』(1990・岩波書店)』『パオロ・ラゴーリオ著、谷口伊兵衛訳『文学テクスト読解法――イタリア文学による理論と実践』(1997・而立書房)』『香川真澄著『青の男たち 20世紀のイタリア短篇選集』(1999・新読書社)』『井手正隆著『イタリア文学を歩く』(2000・あざみ書房)』『イタロ・カルヴィーノ著、和田忠彦他訳『水に流して――カルヴィーノ文学・社会評論集』(2000・朝日新聞社)』『須賀敦子著『須賀敦子全集 第6巻 イタリア文学論ほか』(2000・河出書房新社)』『原卓也・西永良成編『翻訳百年――外国文学と日本の近代』(2000・大修館書店)』

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改訂新版 世界大百科事典 「イタリア文学」の意味・わかりやすい解説

イタリア文学 (イタリアぶんがく)

イタリア文学は,ラテン文学を直接の母体として,古代ギリシア文学の伝統を強く受け継ぎながら,生みだされた。イタリア半島はローマを中心にラテン文化を築きあげた土地そのものであり,ネアポリス(すなわちナポリ)以南は,シチリア島とともに,多数のギリシア植民市を擁した,いわゆる〈マーニャ・グレーチア(マグナ・グラエキア)〉の地域である。古来,イタリアの詩人や作家たちが伝統の革新や伝統への回帰を唱えるとき,彼らはつねに古典文学を意識していた。これら3世代(古代ギリシア,ラテン,イタリア)の文学をつなぐ大きな特徴の一つは,表現形態としての詩の優位である。こうして,中世末期からルネサンス,さらにはバロックの時代にかけて,絶えず古典文学の手法と題材に立ち返りながら,叙事詩と抒情詩の両面から,イタリア文学の特質がつくりあげられていった。

 しかもこの間,イタリア半島には,教皇と皇帝という対立する二大権力を軸に,都市国家(コムーネ)や外国勢力が複雑な緊張関係を生みだし,政治的な統一体を形成したためしはなかった。したがって,それにもかかわらず数百年にわたってイタリア文学が強固に存在しつづけていった事実は,文化が政治からは自立した別個の精神と生活の基盤の上に築かれていることを意味している。このようなイタリアの文学空間を検討するためには,表現手段としての言語,作品の思想内容と詩学,表現者を取り巻く社会的状況,の少なくとも3点からの吟味が必要になるであろう。

日常生活全般においてラテン語が文章語として使われているさなかで,会話語すなわち俗語としてのイタリア語が文献に現れはじめるのは,13世紀に入ってからである。まとまったものとしては,まず,アッシジの聖者フランチェスコの《被創造物の歌》(1225)があった。この俗語による詩的表現が,貧しい民衆に宗教を説くための平易な手段であるとだけとらえるのは,おそらくあまりにも野心的なこの聖者の意図を半ば見失うことになるであろう。なぜなら,俗語によって神の教えを説いたこの詩集は,何よりもまず,ラテン語文献の本拠とも呼ぶべき教皇庁に向かって発せられた批判の書であり,アッシジの貧者が傾きかけた精神の教会を支えようとする強い意志の改革者であることは,あまりにも明らかであるからだ。一方,吟遊詩人たちがオック語やオイル語(フランス語)の文学を北イタリアにしきりにもたらしているころ,プロバンスの恋愛詩を積極的に取り入れ,俗語詩を真っ先に開花させたのは,シチリアのホーエンシュタウフェン家の宮廷であった。フェデリコ(フリードリヒ)2世はパレルモの宮廷に各地から人材を集め,みずからも詩を書いたが,それは決して王侯の手慰みではなかった。彼は芸術,科学,哲学などを奨励したが,それらを保護しようとしたのではなく,現実にそれらをつくりだそうとしたのである。教皇権とそれに結びつくボローニャ大学と対抗するため,ナポリ大学を創設したように,彼はみずからも文化を生みだし,教皇領の文化と鋭く対立させようとした。彼の詩が俗語表現をとったのはほとんど必然であり,それは対抗文化の批判に耐える力を備えていなければならなかった。
シチリア[文学]
 一般に発生期もしくは揺籃期のイタリア文学を,その俗語表現の粗さから,未成熟の思想もしくは詩法の所産と思いこみがちであるが,〈シチリア派〉の詩人たちに関して,それがまったくの的はずれであることを強調しておかねばならない。もしもそのように知的水準の低い文学集団であったならば,たとえばジャコモ・ダ・レンティーニGiacomo da Lentini(?-1250)が永遠の詩型〈ソネット〉を創始した,などという事態は起こりえなかったであろう。現に,フェデリコ2世はギリシア語,ラテン語,イタリア俗語をはじめ,フランス,ドイツ,アラビアの諸語にも通じていたと言われる。しかしながら13世紀後半,ホーエンシュタウフェン家の没落とともに,〈シチリア派〉の宮廷詩人たちも四散して,彼らの詩は北イタリアにひろまり,同じくプロバンスの詩を別個に継承しつつあったボローニャの詩人たちの詩法と影響しあって,トスカナ地方に〈清新体〉の詩を生みだした。

 〈清新体〉派の代表的詩人はダンテ・アリギエーリであり,この新しい詩法は《新生》のなかに書きこまれている。すでに〈シチリア派〉はプロバンスの宮廷恋愛詩を取り入れ,〈愛〉についての論議を俗語詩のなかに繰り返した。ジャコモ・ダ・レンティーニは十四行詩のなかで〈愛とは喜びのあまり/心からあふれでる願い〉と歌い,これを受けて〈清新体〉派の先駆者グイード・グイニツェリGuido Guinizelli(1230-76)は〈やさしい心につねに愛は宿る〉と書いた。けれどもダンテは《神曲》煉獄編第11歌において,このグイードから別のグイード(カバルカンティ)が詩の栄光を奪い,さらに両者を蹴落とす者(ダンテ自身)が現れたことを述べている。この自負は,〈愛〉をめぐる詩法の転換に基づいている。

 長いあいだ中世文学の主要な関心事であった〈愛〉は,ダンテにいたってベアトリーチェを見いだし,三位一体説を詩的構造に取り入れることによって,寓意としての〈愛〉になった。《新生》のなかで,詩人は9歳の終りごろ,9歳の初めに近い少女に出会い,さらに9年後には美しく成長したベアトリーチェ(愛を与える者)に再会したと述べる。このように3の二乗としての数9に言及したとき,地獄,煉獄,天国の3編から成る《神曲》100歌(すなわち完全数102=(1+322)の構想は,その基本がすでにできあがっていた,と考えてよい。俗語で書かれた壮大なこの叙事詩は,中世神学の確固たる世界観と宇宙観を示すことによって,もはや卑しい俗語による詩的な試みの域をはるかに超え,むしろ古代ギリシアからラテン,そして中世文学における数多の登場人物と,同時代の史実とを網羅し,キリスト教の愛の哲学に則してそれらの事件を秩序だてることにより,中世文学を締めくくったのである。

このように,ダンテの文学が本質的に過去への展望をはらんでいたのに対して,ほとんど同時代に生きながら,F.ペトラルカとG.ボッカッチョとは,彼らの文芸思想と文学作品の両面において,イタリア文学を大きく近代へ向かって用意した。ペトラルカは俗事詩抄《カンツォニエーレ》において,ラウラへの〈愛〉を軸に,まさに完璧な抒情詩の世界をつくりあげ,〈ペトラルキズモ〉はその後数百年間にわたって詩史に君臨し,現代詩にいたるまで強い影響を与えている。他方,ボッカッチョは《デカメロン》(〈十日百話〉)を著して,ダンテにならい完全数を守りながらも,物語を逆の方向へ展開させた。すなわち,ダンテにあっては,三界を遍歴する主人公を導く者は,まずラテン詩人ウェルギリウスであり,ついでベアトリーチェであり,彼女の背後には光の源としての神がある。それゆえ,ダンテの〈愛〉は神の光に貫かれている。けれどもペトラルカの詩において,ラウラは神から切り離され,憂愁に包まれている。そして振り返って,失われた光をむなしく意識するがゆえに,ペトラルカの〈愛〉は知的なもの,抽象的な存在であって,純粋な概念でさえある。またボッカッチョの〈愛〉は現実的,肉体的な,地上の感覚に基づいている。このことから,後年,近代の文学史家デ・サンクティスは《デカメロン》を〈人曲〉と呼び,現代の研究家ブランカは〈十日百話〉の散文中に埋めこまれた夥しい11音節の韻律を取り出して,これを〈商人の叙事詩〉と名づけ,物語の基盤に〈愛〉〈運〉〈才〉があることを指摘した。

 《デカメロン》は枠物語の形式をとり,個々の地の文章の枠のなかに,ペストの難を逃れて語りあう男女10人の〈小話〉が組み込まれている。このようなボッカッチョの手法は,一方にF.サッケッティ,M.バンデロ,G.B.ジラルディなどの短編物語の系譜を生みだし(後の2者の〈小話〉から想を得てシェークスピアが《ロミオとジュリエット》や《オセロー》を書いたことは周知のとおりである),他方にG.F.ストラパローラの《楽しき夜ごと》(1550-53),G.バジーレの《ペンタメロン》(1634-36)など,枠物語による民話文学を生みだした。素朴な民衆が語りついだ物語のなかで〈運〉と〈才〉と〈愛〉とがあらゆる悲喜劇の要因になっている点は,改めて指摘するまでもないであろう。

 ところで,先にも触れたように,ペトラルカとボッカッチョは単に文学の手法と詩法においてのみイタリア文学を近代に向かって傾斜させただけでなく,文芸思想においても近代を用意した。すなわち,15世紀イタリア・ルネサンスの基盤をなす〈人文主義〉は,ペトラルカとボッカッチョの古典文献の発掘と再認識に始まったのである。この運動は,ギリシア・ラテンの古典世界とキリスト教世界の調和という主題をめぐって,メディチ家支配下のフィレンツェに〈新プラトン主義〉を生みだして,ロレンツォ・デ・メディチやポリツィアーノのような詩風がもてはやされた。ポリツィアーノが《スタンツェ》(1475)や《オルフェオ物語》(1480)のなかで一貫して古典に題材を求めたのは当然であった。

けれども,ルネサンスからバロック時代にかけてのイタリア文学の主流は,やはり叙事詩にあった,と言って間違いない。すでにペトラルカはラテン語による叙事詩《アフリカ》(1338ごろ執筆開始)によってローマで桂冠詩人の栄誉を受け,ボッカッチョはウェルギリウスとスタティウスに範を取って叙事詩《テセイダ》(1340-41)を著したが,ルネサンス期に入ってまずL.プルチの《モルガンテ》(1483)が発表された。この叙事詩は武勲詩のパロディの一種であり,こうして始められた古典と中世騎士道物語の混交は,M.M.ボイアルドの《恋するオルランド》から,ルネサンス期最大の叙事詩L.アリオストの《狂えるオルランド》(決定版1532)を経て,バロック期最大の叙事詩T.タッソの《解放されたエルサレム》(1565-75)に受け継がれ,最後にG.マリーノの《アドーネ》(1590-1616)のあまりにも音楽的な語法の作品に達した。

 ここで,15世紀から17世紀にかけてイタリア文学の背骨を成した長編叙事詩の作者たちが,フィレンツェやフェラーラなど,各地の専制君主の宮廷詩人であった事実を思い返しておく必要があるだろう。彼らと君主との関係は,たとえばロレンツォ・デ・メディチとポリツィアーノやプルチのあいだのごとく調和した場合もあったが,ときには,いや,むしろしばしば,鋭く対立することがあった。アリオストがその叙事詩のなかに狂気を書きこんだのは,卓抜な彼の才能の発露であると同時に,宮廷社会に封じこめられた知識人の精神の反映でもあった。しかもトレントの公会議が開かれ,対抗宗教改革の渦巻くなかで,タッソはおのれの叙事詩のなかに古典の伝統とキリスト教精神と騎士道物語の3要素の危うい均衡をはかり,宮廷の栄誉を担わねばならなかった。彼の狂乱とフェラーラ公による7年間の幽閉を詩人の精神障害のせいにのみ帰するのは単純に過ぎるというべきであろう。

 君主体制や宮廷社会のなかにあって,知識人たちは現実生活の軋轢(あつれき)のうちに,あるいは個人の精神の調和をはかって,すでに注目すべき作品を発表しつつあった。マキアベリの《君主論》(1513),B.カスティリオーネの《廷臣論》(1513),P.アレティーノの《談論》(1534-39),F.グイッチャルディーニの《回想録》(1561-64),また廷臣というよりは民衆に近い彫金師(そして殺人者)B.チェリーニの《自伝》(出版は1728)などである。

 ところで,ダンテが《俗語論》(1304以降)のなかで初めて文章語としての価値を論究した〈俗語〉は,《神曲》と《カンツォニエーレ》と《デカメロン》によって,文字どおり〈輝かしい俗語〉となった。しかし言語論の立場からこれに一定の価値を与えたのはP.ベンボであった。ベンボは《俗語の散文》(1525)のなかでイタリアの文章語の基礎を14世紀トスカナ地方の作家たち,とりわけペトラルカとボッカッチョの言語に置くべきであると主張した。そしてこの主張はフィレンツェのクルスカ学会(1583創立)に支持され,その目的にそって1612年に最初のイタリア語辞典を刊行した。こうして,トスカナ語を基盤とするイタリア語の問題は,国家統一期の国民的文学者マンゾーニによって再確認され,今日にいたるまで,絶えず文章語の論議の的に据えられている。
イタリア語

〈マリニズモ〉の極端な装飾表現(G.マリーノ)を修正するべく,1690年にアルカディア学会(アルカディア)が創立されてからは,P.メタスタージオが喜劇と悲劇の融合をはかり,メロドラマを創案して《見棄てられたディドーネ》(1724上演)を著し,その影響を受けながらG.パリーニは,啓蒙主義のアルカディア精神とペトラルカの詩をめざす新古典主義のはざまにあって,代表作の長詩《一日》(1801)を発表した。また演劇の分野では,17世紀に仮面や道化の即興劇〈コメディア・デラルテ〉が盛んであったのに続いて,C.ゴルドーニがイタリア喜劇を改革し,C.ゴッツィが民話劇を考案し,V.アルフィエーリが古典に題材を得て荘重な悲劇《サウル》(1782),《ミラ》(1787)などを著した。

 18世紀末,フランス革命の余波とナポレオン1世の征略によって,各地に共和制が敷かれ,イタリアは旧体制から新体制へ,またナポレオン失墜からウィーン会議により再び旧体制へと,めまぐるしく政情が移り変わった。それらの希望と絶望を一身にうけて,すぐれた文学的才能を持ちながら,矛盾と変節にみちた作品を発表したのがV.モンティである。そしてモンティと同じように,一時期はナポレオン1世に解放者としての夢を託しながらも,U.フォスコロは,故国ベネチアがオーストリアに併合されるや,激動する時代の行方を鋭く見つめながら,イギリスに亡命して極貧のうちにロンドン郊外に客死した。書簡体の長編小説《ヤーコポ・オルティスの最後の手紙》(1802)において,フォスコロは祖国の愛と女性の愛に二重に裏切られて自殺する青年の姿を描いたが,流転の生活のなかにあって,詩人は統一以前のイタリアの文学的伝統を大きな視野におさめ,パビア大学修辞学教授時代(1808-09)からの考察を進めつつ,異郷にありながら,今日のイタリア文学史の基礎を打ち立てた。とりわけ,当時は,ペトラルカやボッカッチョに比べてむしろ低く評価されていたダンテの文学的価値をあるべき姿に置いた功績は大きい。

イタリア国家統一運動(リソルジメント)の達成とほぼ並行して,ロマン主義の文学者たちは苦吟しかつ精神を高揚させながら作品を生みだしていった。《コンチリアトーレ(調停者)》誌に寄稿した愛国者たちは,たとえばS.ペリコやG.ベルシェのごとく,自由主義思想のゆえに投獄されたり,亡命を余儀なくされた。しかしながら,ロマン主義最大の文学者はG.レオパルディとマンゾーニであった。レオパルディは《カンティ》(初版1831)のなかに愛国的な長詩を若干収めているが,本領は抒情詩にあり,古代ギリシアから,ラテン,イタリアまでのあらゆる詩法に通じ,それらを超克した簡潔な自由詩型を編みだし,悲劇的な感情を歌いあげた。史上最もペシミスティックな詩人として世界中に知られたレオパルディは,同時に,特異な哲学と該博な文献学の知識の所有者で,死後に残された膨大な《瞑想集》は彼がロマン主義の時代にありながら,愛国的なロマン主義をはるかに逸脱した精神の持主であることを示している。

 それに比べてマンゾーニは,外国勢力の圧政下に苦しむ民衆の男女を主人公に選んで,《いいなずけ》(初版1827,決定版1840)を著した。このスコット流の長編小説が国家統一期の精神界に大きな影響を及ぼしたのは,第1に外国の圧迫をはねのけるという社会的目標を扱っていたこと,第2にカトリシズムの精神が(あたかも《神曲》における三位一体説のごとく)作品の隅々にまで浸透していたこと,そして第3にトスカナ語に基準を置く洗練されたイタリア語の文章で表現したこと,の三つの主要な理由による。約言するならば,マンゾーニの《いいなずけ》は国民文学としてリソルジメントの風潮と完全に一致したのである。統一イタリア王国の精神的風土を培うものとして,その後,この作品が文学というよりは倫理的規範となっていったのは,むしろ当然のなりゆきであった。

 G.ベルガの作品はその点でマンゾーニをはじめとするロマン主義の文学と鋭く対立した。まず何よりもベルガが,シチリア出身の自由主義思想の持主であったことを確認しておかねばならない。シチリア島は古来,イスラム文化圏との接点に位置して,たび重なる侵略と圧政下にさらされてきた。そしてシチリア人にとってリソルジメントは新たなる侵略と新たなる圧政をもたらしたにすぎなかった,と言ってよいであろう。ベルガは初め統一直後の本土に渡って,フィレンツェやミラノの文学サロンに出入りし,前衛的な〈スカピリアトゥーラ派〉の文学運動に加わり,フランスの自然主義文学にも接した。しかしベルガが真に描くべき対象を発見したのは,故郷カターニアを中心とする荒涼たるシチリアの風土においてであり,そこにほとんどはだしで生きる貧しい民衆たちの姿であった。ベルガは野獣にも等しく原始本能のままに生きるシチリア人たちを描いた。彼らほどリソルジメントの精神から遠い存在はなかったであろう。彼らにカトリシズムの光はかすかにしか届いてこない。カターニアもかつては古代ギリシア植民市であり,岸辺に立てばオデュッセウスの漕ぎ去ったばかりの海が静かにひろがっている。その海を舞台に,ベルガはシチリア語から取り出した新しいイタリア語で,一挙に叙事詩の世界をよみがえらせ,長編小説《マラボリア家の人びと》(1881)を書いた。しかもベルガにいたって初めて,イタリア文学は最下層の民衆を文学の世界に写しだしたのである。これにほぼ前後して,同じくシチリア島パレルモに住む医師G.ピトレが民話を採集し,民俗学を興して,最も貧しい文盲の人びとの心の奥に科学の光を当て,《シチリア民間伝承文庫》25巻(1871-1913)を著した。しかしながら,このように社会の暗部を明るみに出して,デル・ベーロ(真実)を描きだそうとめざした〈ベリズモ(真実主義)〉も,ベルガ以後は文学的深化を遂げずに,単なる地方主義文学へと解消してしまった。そして真に社会的責務を果たす文学へと発展するためには,ファシズム期文学の呪わしい経験をへなければならなかった。
サルデーニャ[文学]

20世紀初頭のイタリア文学は,まず詩においては,G.カルドゥッチ,G.パスコリ,そしてG.ダンヌンツィオの3巨匠が絢爛たる伝統的修辞法の詩編を展開したあと,〈クレプスコラーリ(黄昏派)〉の詩人たちが低くつぶやくような詩を綴った。ついで〈未来派〉の極端な実験詩のあとをうけ,フランス象徴主義の影響を強く受けながら,〈エルメティズモ〉の詩人たちが輩出した。U.サーバ,G.ウンガレッティ,E.モンターレ,S.クアジモドの4人において,20世紀イタリア抒情詩は最高の水準に達したのである。

 他方,散文においては,小説の分野に初めて精神分析をもちこんだユダヤ系のI.ズベーボ(トリエステ)や狂気を舞台に乗せたシチリア出身のL.ピランデロなど,ごく一部の作家たちに留保条件をつけることはあるが,大多数は英雄気取りの詩人ダンヌンツィオにみられるごとく,ファシズムのなかで文学的価値を消滅させていった。そして真にファシズムに対抗する小説は,1941年に発表された,C.パベーゼの《故郷》とE.ビットリーニの《シチリアでの会話》に始まると断じてよい(反ファシズム)。戦後イタリア文学の主流となった〈ネオレアリズモ〉文学はこの2作品を出発点としている。そしてこの2作に共通する特徴は,第1に反ファシズムの思想,第2にベルガの影響,第3に〈叙事・抒情〉の文体を用いたことにある。周知のように,ファッショ政権はイタリア中産階級の基盤の上に成り立っていた。それゆえ,内なるファシズムをみずからの手で倒すために,〈ネオレアリズモ〉は反ブルジョアジーの文学でなければならなかった。ベルガのギリシア世界を媒体とし,〈叙事・抒情〉の手法で伝統の革新をはかった,現代イタリア文学は--〈ネオレアリズモ〉以後の反小説や実験小説も含めて--変貌した〈愛〉を主題に据えながらも,慰めの文学ではなく,社会的責務の文学を,つねに私たちの前に示している。

 なお,本文中で参照指示を付したシチリア,サルデーニャ,トリエステのほか,〈ピエモンテ〉〈トスカナ〉〈ポー平原〉〈メッツォジョルノ(南部)〉などの項目中の,各地域に即した文学史的展望を合わせて参照されたい。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「イタリア文学」の意味・わかりやすい解説

イタリア文学
イタリアぶんがく
Italian literature

イタリア語で書かれた文学作品の総称。政治的求心力を欠いていたイタリアにはさまざまな土着の言語があったが,イタリア文学は文語としてのラテン語が日常語としての俗ラテン語と交代していく 13世紀初頭から,俗ラテン語を母体として生れ,それはまた中世の神学万能の価値体系がくずれていく時期とも一致する。まず,アッシジの聖フランシスコを代表とする宗教詩,南仏プロバンスから流入した吟遊詩人の作品,シチリア派の詩,そしてトスカナ地方の清新体の詩が興った。トスカナ方言が新しい文学の表現手段として定着するようになったのは,『神曲』を著わしたダンテの力によるところが大きい。その後,G.ボッカチオの『デカメロン』と,F.ペトラルカの『カンツォニエーレ』が現れ,この言語を洗練された複雑なものにした。
人文学者の L.B.アルベルティは,トスカナ方言はラテン語にまったくひけをとらないと主張して,知の中心としてのフィレンツェの地位の確立に貢献した。ベネチアの P.ベンボは最初の正式なイタリア語文法書を著わし,すぐれた文学的成果を理由にトスカナ方言を擁護した。人文主義文学の最高峰は L.アリオスト,N.マキアベリ,F.グィッチャルディーニである。アリオストは 30年の歳月をかけた叙事詩『狂乱のオルランド』 (1516) の作者として知られ,マキアベリの『君主論』とグィッチャルディーニの『イタリア史』は,トスカナ方言の地位を確立した。反宗教改革の時代に書かれた作品で,後世まで残った秀作は T.タッソの『エルサレム解放』 (75) だけである。 16世紀がペトラルカ主義とも呼ばれる人文思想に貫かれたのにひきかえ,17世紀はマリニズモ (マリーノ主義) のバロック文芸が全盛をきわめた。
イタリアの一般大衆は第1言語として方言を使用していたが,18世紀に入り教育が普及するにつれ,口語と調和し,時代に即した文語が必要となった。詩人 G.パリーニと劇作家 V.アルフィエーリは従来の文学形式を用いたが,哲学者で経済学者の C.B.ベッカリーアやジャーナリストの P.ジョルダーニのように,近代の要望に即した標準的な土着の言語の創造を考えた者もいた。一方,ミラノの詩人 C.ポルタや,ベネチアの劇作家 C.ゴルドーニは,大衆の実人生に即した言語手段を求めて方言を用いた。『婚約者』 (1827) で知られるロマン派の A.マンゾーニは,ミラノの出身ながらフィレンツェの中流階級の日常語を用いて新しい文語の創造に貢献した。
一方,G.レオパルディは詩集『カンティ』を発表して,厭世主義も極点に達した。イタリアのロマン主義は必然的に愛国的なリソルジメント (イタリア統一運動) にかかわるようになり,この時期に書かれた文学の大半はこの時代の政治的熱情を反映している。マンゾーニとレオパルディという例外はあるが,大半の著作は文学的価値よりも,その善なる意図と教訓的な熱意のほうが重要である。とりわけ,フランスの自然主義に影響を受け,実証主義と決定論を反映したベリズモ (真実主義) 文学は,装飾を排して下層階級の人生を客観的に描いた。ベリズモを代表する作家は G.ベルガで,代表作『マラボリア家の人々』 (81) ,『マストロ・ドン・ジェズアルド』 (89) は社会,経済の変化に伴う犠牲者を描いている。ベリズモの創始者 L.カプアーナの代表作は劇的な心理小説『ロッカベルディナ侯爵』 (1901) である。華麗で民族主義的な文学の巨匠 G.ダンヌンツィオはベリズモと対照的な立場をとり,国家統一後の殺風景な空気のなかで新しい神話を求める同時代の人々の要望にこたえた。
第1次世界大戦の終結によって,伝統的な様式主義への回帰が認識されたが,秩序を求めるこの当然の欲求は,形式ばかりを重んじる不毛な態度だけでなく,ファシズム下での自由な表現の規制に直結した。そのなかで,革新的な実験演劇『作者をさがす6人の登場人物』 (1921) と『エンリコ4世』 (22) で現実と外観,芸術と人生,正気と狂気の間の揺れ動く境界線を探った L.ピランデッロは,国際的に評価された。 I.ズベーボの『ゼーノの意識』 (23) は精神分析を導入した最初の小説として知られる。 C.アルバーロ,D.ブッツァーティ,C.E.ガッダ,I.シローネらは,第1,2次世界大戦間から戦後を通じて活躍した。 20世紀前半の詩人は,フランスの象徴主義の影響を受けて,複雑な様式,非正統的な構造,高度に主観的な言語を用いて,みずからの苦難を曖昧に表現した。 E.モンターレ,G.ウンガレッティエルメティズモ (錬金術主義) として知られるこの運動の一員である。
第2次世界大戦後には,ベリズモ,マルクス主義,アメリカ文学の影響を反映し,近代史の稀有な経験を主題にしたネオレアリズモ文学が生れた。おもな作品には,ファシスト政権下で流刑された南部の貧しい町ルカニアを詩的に描いた C.レービの『キリストはエボリに止まりぬ』 (45) ,フィレンツェの労働者階級を描いた V.プラトリーニの『町』 (45) などがある。 1960年代に入ると,全盛をきわめたネオレアリズモ文学も反小説を標榜する新前衛派の文学に交代していった。 70年代は,より前衛的な E.サングィネーティ,A.アルバジーノらの作品と,より行動的な N.バレストリーニらのややリアリズムに戻った作品と,さらにはネオレアリズモ世代の復権がみられた。一方で,故郷フェララを舞台にユダヤ社会を描いた G.バッサーニ,寓意小説の I.カルビーノ,故郷シチリアを学究的な理解をもって描き出した L.シャッシャ,自身の,想像上の,あるいは歴史上の家族を取上げた N.ジンツブルグらは,それぞれ独自の地歩を築いた。 80年代は記号論の学者である U.エーコの難解な小説『薔薇の名前』 (1980) のベストセラーで幕を開けた。また,A.モラビア,C.カッソーラ,A.ベビラックァらベテラン作家の活躍が目立った。

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