イブン・ムルジャム(読み)いぶんむるじゃむ

世界大百科事典(旧版)内のイブン・ムルジャムの言及

【アリー】より

…すなわち,656年12月,ムハンマドの未亡人アーイシャとクライシュ族の有力者ズバイルおよびタルハとの連合軍をバスラ近郊で破り(ラクダの戦),クーファを首都としたものの,ウスマーンの血の復讐を求めるシリア総督ムアーウィヤ1世の反抗にあい,これを討つべくユーフラテス川を上った。657年7月シッフィーンの荒野で決戦を挑んだが勝敗決せず,調停によって事態の収拾を図ったが,結局失敗し,661年2月この調停の過程でアリーと袂を分かったハワーリジュ派の一人,イブン・ムルジャムIbn Muljam(?‐661)に暗殺された。ウスマーン殺害から,アリーの死までを第1次内乱と呼び,カリフ制度による統治が問われた時期といえる。…

※「イブン・ムルジャム」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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