インティファーダ(英語表記)Intifada

精選版 日本国語大辞典 「インティファーダ」の意味・読み・例文・類語

インティファーダ

〘名〙 (Intifada) イスラエル支配地区でのパレスチナ人の一斉蜂起

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デジタル大辞泉 「インティファーダ」の意味・読み・例文・類語

インティファーダ(〈アラビア〉Intifada)

《蜂起の意》ガザで起こった、イスラエルの占領に対するパレスチナ人の民衆蜂起。特に、1987年に起こり、1993年、パレスチナ暫定自治協定の調印を受けて沈静化したものをさす。
[補説]のち、2000年にも起こったので、1987年に起こったものを第一次インティファーダ、2000年に起こったものを第二次インティファーダともいう。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「インティファーダ」の意味・わかりやすい解説

インティファーダ
Intifada

イスラエルの占領地においてパレスチナ住民により組織的に展開された占領支配に抵抗する運動。語義は,「頭を上げる」「(恐怖を)振り払う」から転じて「蜂起」を意味することとなったアラビア語。1987年12月,ガザ地区の中心都市ガザにおける交通事故が口火となり,その後占領地全域を覆う組織的な抵抗運動へと発展した。パレスチナ側がおもに投石や道路遮断,イスラエルへの納税拒否,イスラエル商品の不買などの手段に訴えたのに対し,イスラエル側は「鉄拳政策」と称して武力的な鎮圧を強行したため,死者は 1500人,逮捕者は延べ 5万人をこえ,国際的にも大きな反響を呼んだ。騒乱自国に波及することを恐れたヨルダンフセイン国王は 1988年7月,イスラエル占領下のヨルダン川西岸を公的に切り離すと宣言,またパレスチナ解放機構 PLOは 1988年11月,パレスチナ国家の独立を宣言(→パレスチナ国家問題)するなど,インティファーダは占領地の住民が政治的な主体性を確立するきっかけとなった。湾岸戦争を経て 1991年10月からアメリカ合衆国主導の中東和平会議が開催され,また 1993年にイスラエルが PLOとの間に相互承認と暫定自治容認を含むパレスチナ暫定自治協定オスロ合意)を成立させた背景には,インティファーダで示された占領地住民の憤懣を無視できなくなった事情もある。しかし和平交渉は遅々として進まず,期待はずれの状況にいらだちをつのらせていた住民は 2000年9月,イスラエル右派によるエルサレム聖域への強行立ち入りに反発して,第2次インティファーダ(アルアクサ・インティファーダ)を起こした。武装蜂起の様相を呈した騒乱は,イスラム過激派の自爆テロ作戦などによって激しい暴力の応酬へと展開し,前回に層倍する犠牲者を出して和平交渉そのものを形骸化させた。新たなインティファーダへの自衛措置としてイスラエルは,2003年以降みずから定めた境界に沿って「分離壁」の建設を始めたが,このことは和平交渉の展望をいっそうせばめる結果となった。

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知恵蔵 「インティファーダ」の解説

インティファーダ

1987年末、イスラエル占領地でパレスチナ人が一斉に投石などでの抗議行動を開始した。これを第1次インティファーダと呼ぶ。この鎮圧に失敗したイスラエルは、力だけではパレスチナ人の民族主義を抑えることはできないと悟った。93年のオスロ合意を受け、抗議行動は一応の終息を見た。2000年9月末、シャロンが多数の護衛を従えてエルサレムのイスラムの聖地(ハラム・アル・シャリーフ)に入った。これにパレスチナ人が反発、占領地全域でイスラエル当局と衝突した。イスラエル国内のアラブ人地区でも、抗議運動が発生。このパレスチナ人の蜂起を、聖地内のアル・アクサー・モスクの名を冠してアル・アクサー・インティファーダと呼ぶ。オスロ合意以前のインティファーダの再燃との視点に立てば、第2次インティファーダでもある。蜂起の背景には、1993年以来の中東和平プロセスの成果があまりに乏しかったというパレスチナ人の不満がある。第1次インティファーダにおいては投石などの手段が主流であったのに対し、第2次インティファーダでは小火器、迫撃砲、さらには手製のロケット弾などがパレスチナ側によって使用された。またイスラエル国内での、パレスチナ人による自爆攻撃も続発している。対するイスラエルは、戦車、ジェット戦闘爆撃機、ミサイル搭載ヘリコプターなどの圧倒的な火力でパレスチナ側を攻撃、さらにパレスチナ人の指導層を「テロリスト」として、次々と暗殺した。その上、ヨルダン川西岸では、交渉によってパレスチナ人が自治を始めていた地域の大半を再占領した。05年1月、アッバスがパレスチナ人の指導者となって以来、事態は一時、鎮静化した。しかし06年にイスラエルを認めないハマス政権が成立し、同年7月にイスラエル兵士1人がガザへと拉致されると、イスラエルはガザを封鎖した。しかもヨルダン川西岸ではハマスの評議会議員を次々と拘束した。占領と抵抗というインティファーダの構図が続いている。

(高橋和夫 放送大学助教授 / 2007年)

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百科事典マイペディア 「インティファーダ」の意味・わかりやすい解説

インティファーダ

アラビア語で〈振り払うこと〉の意。パレスティナにおける対イスラエル民衆蜂起をさす。1987年12月イスラエル占領下のガザ地区で起きた交通事故を機に,大衆の投石,ストなどによる抗議行動が発生,ヨルダン川西岸地区にも拡大した。イスラエルの激しい鎮圧姿勢は国際的非難を呼び,中東和平への間接的圧力となった。1991年秋に中東和平交渉が始まると下火になったが,2001年首相に就任するリクード党首シャロンが前年にイスラム聖地アクサー・モスク訪問を実行して以後再燃し,第2次インティファーダが始まった。→パレスティナ問題
→関連項目ハマース

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旺文社世界史事典 三訂版 「インティファーダ」の解説

インティファーダ
Intifadah

パレスチナ人の反イスラエル運動
1987年末以降イスラエル占領下のガザ地区とヨルダン川西岸地区で,交通事故が引き金となって起こった,投石などによる抗議運動。次第に激化していったが,1993年パレスチナ解放機構(PLO)指導者アラファトとイスラエル首相ラビンが和平合意を交わすといったん収束に向かった。その後,強硬路線をとるイスラエルのネタニヤフ首相のもとで和平交渉は凍結されたが,1999年には彼をくだして和平推進派のバラクが首相となった。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「インティファーダ」の解説

インティファーダ
Intifāḍa

1987年以降のパレスチナの占領地におけるアラブ人(パレスチナ人)の民衆蜂起。従来の軍事行動やテロと異なり,女性や子供を含む幅広い層が参加,イスラエル当局に対しデモや投石を行った。2000年秋からの蜂起は特に第2次インティファーダ(アクサー・インティファーダ)と呼ばれる。

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