ウィラ(英語表記)villa

翻訳|villa

改訂新版 世界大百科事典 「ウィラ」の意味・わかりやすい解説

ウィラ
villa

古代ローマの富裕者が持っていた住居あるいは別荘。保養地の楽しみのためのものと,所領の経営をおもな目的とするものがあった。後者遺構フランス,ライン地方,イングランド,北アフリカなどでも発掘されているが,特に重要なのは,イタリアのウェスウィウス(ベスビオ)山麓で発掘された約40のウィラで,紀元79年の大噴火の時の火山灰に埋もれていたものである。ウィラの建物は,主人の居住用の部分と所領経営のための部分とからなり,後者には大きなブドウ搾り器,オリーブ搾り器,ブドウ酒醸造場,脱穀場などがあった。また反抗的な奴隷を入れておく部屋(エルガストゥルムergastulum)を持ったウィラもあり,奴隷用のかせも発見されている。これらのことから見て,ウィラを中心としておこなわれた所領経営は,奴隷の集団労働を使ってブドウ酒やオリーブ油などの商品を大量に生産するものであったと推定され,ローマの大土地所有における奴隷制のあり方を知る上で重要な資料となっている。
ラティフンディウム
執筆者:

ウィラの語は〈土地〉〈農地〉を意味するラテン語ウィクスvicusに由来する。ローマ貴族がラティウム地方,カンパニア地方にウィラを建設するようになるのは,第二ポエニ戦争の終結後である。この新しい住宅形式の成立条件としては,都市の城壁外の治安確立,不在地主による土地所有,それに都市過密化による自然憧憬が挙げられる。保養地用としてのナポリ湾周辺に点在するウィラは,ヘレニズム王国の宮殿装飾を模した形式が多く,〈秘儀荘Villa dei Misteri〉,ボスコレアーレの別荘,カプリの〈ティベリウスの別荘〉などがあり,ティボリの〈ハドリアヌスの別荘〉は,このタイプの発展した例である。都市内別荘としてはネロ帝の〈ドムス・アウレア(黄金宮)〉などがある。帝政末期から15世紀まで,城壁外の治安悪化からウィラ形式の住宅は建設されなくなる。例外はシリア,ヨルダンにおいてウマイヤ朝カリフが建設したヒルバト・アル・マフジャール宮殿などの〈砂漠の宮殿〉である。16世紀に入ると,教皇枢機卿,貴族,それに政治権力者がビラ(ウィラ)を建設するようになり,ローマの〈ビラ・ジュリア〉(現在ビラ・ジュリア美術館),〈ビラ・マダマ〉,ティボリの〈エステ家別荘〉,それにベネト地方にパラディオが建設した別荘などが現れ,イタリア・ルネサンス建築様式の普及とともに,フランス,イギリスにも広まった。
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出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内のウィラの言及

【庭園】より

…しかし,15世紀ころの初期ルネサンスの庭園は,中世以来の伝統的な形式からの過渡期的な様相がつよく,まったく新しいルネサンス独自の様式が展開するのは,16世紀に入ってのことである。イタリア・ルネサンスにおいて庭園芸術がめざましい発展をとげるのは,上流階級の人々が好んで営んだビラvillaと,そこでくりひろげられる生活のゆえであった。都市の周縁部,あるいは郊外に造られたビラは,別荘というよりはひとつの知的サロンというにふさわしく,たとえばメディチ家のコジモや大ロレンツォたちがフィレンツェの郊外に建てたビラ群は,当代最高の詩や音楽,芝居などに彩られた芸文の華ひらく場であった。…

【別荘】より

… 別荘がふつうの住宅と異なった独自の建築様式を発達させ,優れた建築作品を生みだすのは,ヨーロッパではルネサンスからバロックにかけての時代,日本では桃山時代から江戸時代前期にかけての時代である。ルネサンス時代のイタリアでは,はじめティボリなどに貴族の別荘(ビラvilla)が建てられ,そこでは多くの樹木と噴水をそなえた庭園と,庭園に面するロッジア(開廊)をそなえた主屋からなる構成が発達した。やがて建築家パラディオが故郷ビチェンツァの近くに建てた多くのビラにおいて主屋の各側面にロッジアを設けたり,あるいは主屋と翼屋をロッジアで結ぶ様式が完成された。…

【イギリス】より

… ローマは北の辺境に長城ハドリアヌスの壁を築いて北方からの攻撃に備え,約80のローマ風都市を建設し,道路をつくってこれを結んだ。都市には公会堂,競技場,浴場,水道など石造の公共建築物がつくられ,農村にはブリトン人の農民や奴隷を使役する農業経営の場であるウィラが多数成立した。しかしローマの支配は収奪のための軍事的・政治的な性格にとどまり,ブリトン人の社会にそれほど大きな刻印を及ぼすものではなかった。…

【住居】より

…歴代ローマ皇帝は建築の高さ制限によってインスラの規制を行ったが,スラム化したインスラは大火によって焼失しないかぎり,除去できなかった。このほか,郊外の別荘であるウィラも多くつくられた。多くは中庭型住居であったが,特異例として最も有名なものがティボリにつくられた〈ハドリアヌス帝のウィラ〉(ビラ・アドリアーナ。…

【庭園】より


[古代ギリシア・ローマ]
 古代ギリシアにおいても,聖域,競技場や劇場などの公共施設,個人の大邸宅に林苑や庭園が造られていたことが,当時の資料によって知られる。しかし,ルネサンス以降のヨーロッパ庭園の展開に影響を与えたという点では,古代ローマの住宅やウィラに付属した庭園が重要である。とりわけ小プリニウスがその友人に宛てた書簡のなかに記している彼の二つのウィラ(トスカナ荘とラウレンティア荘)の列柱廊や園亭に飾られた庭の描写と,ローマ近郊のティボリにあるハドリアヌス帝の広大なウィラの廃墟(2世紀)は,ルネサンスの庭園を計画した人々の重要なインスピレーションの源となった。…

【別荘】より

…別荘を建てる習俗はかなり古くからあり,ローマ帝国や古代中国などの皇帝・貴族がすでに多くの別荘を建てていた。古代ローマではローマ東方の高地にあるティボリや地中海のカプリ島にウィラと呼ばれる別荘が営まれ,中国では長安の東にある温泉地驪山(りざん)などが皇帝の別荘地として有名である。日本でも奈良・平安時代に宇治,明石(あかし),水無瀬(みなせ)などの都に近い景勝地に天皇や貴族の別荘が建てられ,当時の物語や詩歌によく現れる。…

【離宮】より

…古代メソポタミアでも,暑熱のはげしい首都の王宮のほかに,涼しい山間に林庭のある離宮を設けた。古代ギリシアでは,王宮そのものが少ないので離宮にもめぼしいものがないが,古代ローマでは,都市邸宅のほかにウィラ(田舎屋敷あるいは別邸)をもつことが慣習化していたので,皇帝たちも好んで離宮を構えた。ティベリウス帝のカプリ島の離宮(1世紀),ネロ帝のローマのドムス・アウレア(黄金宮。…

※「ウィラ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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