エリトリア(読み)えりとりあ(英語表記)State of Eritrea 英語

精選版 日本国語大辞典 「エリトリア」の意味・読み・例文・類語

エリトリア

(Eritrea) アフリカ東部の国。紅海に面する。旧イタリア領。一九六二年エチオピアに統合され、九三年独立。首都アスマラ

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「エリトリア」の意味・わかりやすい解説

エリトリア
えりとりあ
State of Eritrea 英語
Hagere Ertra ティグリニャ語

総論

「アフリカの角」Horn of Africaとよばれるアフリカ大陸の北東部にある国。正式名称はエリトリア国State of Eritria。東はジブチ、南はエチオピア、西はスーダンと接する。北は紅海に臨み、その対岸はサウジアラビアイエメン。面積は11万7600平方キロメートル(2006国連)だが、エリトリア政府発表では12万4000平方キロメートルである。人口は510万(2009国連推計)であるが、国民意識のない遊牧住民、難民や避難民の流出入などの要素を勘案するとおよそ500万と推計される。首都はアスマラ。

 古い歴史をもちながら、時の列強による勢力争いに翻弄(ほんろう)された後、自然環境や住民の生活を無視して統合や分割を強行した植民地主義の落とし子のような国として生まれ、貧困に苦しむ小国の道を歩んできた。エリトリアという国名は、イタリアが植民地として統治するにあたり、ラテン語で「紅海」を意味する「マーレ・エリトリウム」Mare Erythreaumにちなんでつけられたといわれる。

[奥野保男]

自然

小さな国ながら、中部高原にある首都アスマラから紅海に面した第2の都市マッサワまで、蒸気機関車やバスによる旅の2時間で三つの季節を体験できるといわれるほど地形、気候とも多様である。国土は大きく分けて紅海に望む狭い沿岸平野と平均標高1000~1500メートルの高原地帯からなっている。沿岸部は砂漠で、その中央に海面下100メートルを超えるダナキル低地がある。

 全体として熱帯性の乾燥気候帯に属し、とくに低地は年平均気温が30℃にも達するが、高原部は温暖でしのぎやすい。

[奥野保男]

歴史

紀元前後ごろアクスム王国が興った地といわれるが、16世紀のトルコによる占領からエジプトの支配を経て、1890年にイタリアの植民地となり、エリトリアと名づけられた。第二次世界大戦中の1941年にイギリス軍が占領、翌年に保護領とした。しかし1950年の国連総会で独立を主張するエリトリアに対して、エチオピアの併合案が採択され、1952年に自治州として連邦を結成した後、1962年にエチオピアの1州として併合された。それ以来、分離・独立を目ざす解放運動が生まれ、エリトリア解放戦線(ELF。1958年に結成)などによる対エチオピア武力闘争が、アラブ諸国の支援のもとに続けられた。

 そのなかで、1970年にELFから一部革新派が分派して結成したエリトリア人民解放戦線(EPLF)が指導的役割を果たすようになり、ゲリラ戦によってしだいに解放地域を広げるとともに、1991年5月には州都アスマラを制圧して臨時政府の樹立を宣言、独自のビザ発行や外貨管理を行うなど実質的に独立を準備した。そして同年7月のエチオピア全政党会議で採択された決議に基づいて、1993年4月に国連の監視下で住民投票が実施され、有効投票の99.8%の賛成を得て独立を決定した。それを受けて翌月の1993年5月24日、正式に独立を宣言し、アフリカで53番目の主権国家となり、同年末には国連加盟が承認された。独立後の初代大統領にはEPLF(1994年2月に民主正義人民戦線=PFDJと改称)書記長のイサイアス・アフェウェルキIsaias Afewerki(1946― )が就任した。

[奥野保男]

政治・外交

独立以来、暫定政府として事実上の一党独裁のもとで、1992年に基本的人権や複数政党制を定めた民主的憲法を制定したが、施行には至らなかった。同憲法によれば、大統領の任期は5年、一院制の国民議会で選出されることになっている。また大統領が任命する閣僚からなる内閣をもつが、国民議会をはじめ、いずれの選挙も行われず、大統領の施策を追認するだけの役割しかもたされていない。2008年5月、こうした専制的支配に反対する野党が連合してエリトリア民主同盟(EDA)を結成した。

 政府は過剰な援助を嫌い、「自分でできることは自分でやる」をモットーに自助努力を掲げながらも、独立紛争で荒廃した国家再建のため、西側諸国との関係改善を重視してきた。また近隣諸国との善隣友好を目ざし、エチオピアとの関係も良好であった。しかし1998年5月、新通貨ナクファの導入や、内陸国となったエチオピアの海への出入口であるアッサブ港の使用料などエリトリアの分離をめぐる経済的な確執などを背景に、帰属が不明確であったエチオピアとの国境地帯についての紛争が勃発(ぼっぱつ)した。

 両国軍の戦闘は首都への空爆の応酬にまで発展したが、2000年6月にOAU(アフリカ統一機構。2002年にアフリカ連合=AUに改組)の調停による休戦合意を経て、同年12月には包括的和平協定が調印された。停戦監視のために国連PKOのエチオピア・エリトリア派遣団(UNMEE)が展開、2002年4月には国境線の画定(地図上)も行われたが、その後も緊張状態が続いた。ほかにもスーダンやジブチとの国境紛争、イエメンとの紅海上の島の領有権争いなども根本的解決に至っていない。さらに2009年12月には、ソマリア内戦の反政府武装勢力を支援している(エリトリアは否定)として、国連安全保障理事会から同国への武器禁輸、貨物検査と押収、政治指導者や軍幹部の資産凍結などの制裁決議を受けた。2010年にはアメリカのアッサブ海軍基地設置の要求を拒否、非同盟路線を貫いた。

[奥野保男]

経済・産業

人口のおよそ80%が生産性の低い農業(大麦や小麦、豆類といった穀物のほか野菜、コーヒー、綿花、タバコ、サイザル麻など)と牧畜(ウシ、ヒツジ、ヤギ、ラクダなど)に従事しているが、耕地は総面積のわずか2%にすぎない。食料の約70%を輸入や援助に頼っている。大理石や花崗(かこう)岩、岩塩、海塩を産し、金、銅、亜鉛、鉄鉱石など地下資源の埋蔵も知られているが未開発である。国内総生産(GDP)は18.7億米ドル、1人当りのGDPは363米ドル(いずれも名目。2008年度IMF推計)、産業別のGDP構成も運輸が30%以上を占め、その他のサービス業を含めた第三次産業部門が80%を超え、世界の最貧国の一つにも数えられている。

 この窮状から脱却するには、経済的自立、とりわけ30年にも及ぶ独立紛争と2年半にわたるエチオピアとの国境紛争によって破壊されたインフラ復旧と改善、100万を超すといわれる退役兵士や難民・避難民の帰還、救済・再定住が緊急の課題である。そのためには国内では足りない資本や技術の誘致が不可欠であり、それには国内の安定が先決条件となる。そのうえで天然の良港といわれる紅海岸のマッサワとアッサブ2港を活用しての近隣諸国を包含した広域的な経済の振興が何よりも望まれる。

[奥野保男]

社会・文化

住民はティグリニャ(約48%)、ティグレ(約35%)、アファールなど九つのエスニック・グループ(民族集団)に分かれ、それぞれ民族語を使っているが、アラビア語、英語が共通語である。宗教はイスラム教(ほとんどがスンニー派)とエリトリア正教(コプト派キリスト教)の教徒がほぼ半数ずつを占め、少数のローマ・カトリックとプロテスタントの信者がいる。

 義務教育年数は7歳から7年間で無料。2004年に教育改革の一環として国立アスマラ大学(1958年に創立)を改組し、工、農、医、保健、技術、海洋、人文社会の7単科大学が設けられた。

 報道の自由度に関しては、2007年10月の国際ジャーナリスト組織、国境なき記者団の世界ランキングによると、政府が拘束中の記者4人が死亡したなどの理由で最下位(173位。1位はアイスランド、アメリカ48位、北朝鮮168位、日本37位)であった。2009年12月には、ケニアのナイロビで行われたサッカー国際大会に参加した代表選手25人のうち12人が政府の抑圧を嫌って帰国を拒み、ケニア政府に難民申請をした。こうした事件は2006年以降3回目である。

[奥野保男]

日本との関係

日本は独立と同時に承認、外交関係を樹立した。2003年(平成15)5月に大使が着任(日本はケニア大使が兼任)。2005年12月に技術協力協定を結び、各種の技術協力のほか無償資金協力、食料援助、食料増産援助などを行っている。日本との貿易は、エリトリアからゴマ、羊皮などを輸出し、自動車、自動車部品、タイヤなどを輸入しているが、エリトリア側の輸入超過による著しい片貿易である。2003年9月、2008年5月にはアフリカ開発会議(TICAD)に出席のためイサイアス大統領が来日している。

[奥野保男]


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改訂新版 世界大百科事典 「エリトリア」の意味・わかりやすい解説

エリトリア
Eritrea

基本情報
正式名称=エリトリア国State of Eritrea 
面積=11万7600km2 
人口(2010)=525万人 
首都=アスマラAsmara(日本との時差=-6時間) 
主要言語=ティグリニア語,アラビア語など 
通貨=ナクファNakfa

アフリカ大陸北東部に位置する国。西でスーダン,南でエチオピア,南東部でジブチに接し,紅海に面したその海岸線は約1000kmに達する。エリトリアという名称は,古代ギリシア語で〈赤〉すなわち紅海を意味したエリトゥライアに由来する。1960年代初期以来,約30年におよぶ武装解放闘争をへて,1993年にエチオピアから独立した。
執筆者:

紅海に面するエリトリアの国土は,エチオピア高原の北部から,東アフリカ大地溝帯の北部をなすアファル低地にかけて広がる。エチオピア高原北部ではナイル川の支流によって浸食が進み,平坦部は隣国エチオピアと比べ,かなり少ない。首都アスマラはその上にあって,標高およそ2400m。高原の上は,夏,北上してくる赤道西風によって雨を得て農業が行われ,人口が集中している。アファル低地はどの風によっても風下となり,砂漠である。アスマラは高原の北端にあり,ここから急崖を下ると港町マッサワに至る。わずかな平坦地に農耕が行われるにとどまる。
執筆者:

住民はティグレ族Tigre,アファル族,ベジャ族,サホ族などの複数の民族から構成される。主要言語はティグリニア語,アラビア語であり,いずれも独立後の公用語となっている。宗教的には,北部高原地域のティグリニア語圏を中心にキリスト教徒(エチオピア教会),北部高原,西部低地,東部沿岸地域に広くイスラム教徒が分布している。したがって,エリトリアのなかには,エチオピアのティグリニア語圏住民と近似した文化をもつ住民が少なからず存在しているということになるが,それ以外の部分では,文化的,社会的にエチオピアとの共通性が目だつわけではない。

エリトリアは1世紀ころのアクスム王国にさかのぼる古い歴史をもつ。アクスム王国が衰退してからは,南方のエチオピアに権力の中心が移った。紅海沿岸の要衝に位置することから,沿岸部では16世紀以降,オスマン帝国などイスラム諸勢力の進出が続いたが,1880年代にイタリアが紅海沿岸に進出し,1890年にエリトリアを植民地としてその支配下に組み込んだ(〈イタリア・エチオピア戦争〉参照)。その後,第2次世界大戦初期の1941年にイギリスの占領下に入り,翌42年から52年までその支配下におかれた。イギリス支配の時代に,政党や労働組合の活動が認められるなど,封建的な支配体制の下におかれたままの隣国エチオピアとはかなり異なった道をたどりはじめたといえる。52年,国連の決議によりエチオピアと連邦を形成したが,62年にエリトリア議会による決議のかたちで,エチオピアの1州として併合された。この流れを見越して1958年に結成されたエリトリア解放戦線(ELF)は,エリトリアの独立を目ざして61年から武装解放闘争を開始した。その後,解放闘争の主導権は,71年にELFから分離したエリトリア人民解放戦線(EPLF)の手に移った。さらに74年のエチオピア革命後,ティグレ人民解放戦線(TPLF)その他エチオピア国内の反政府解放組織の軍事的圧力がいっそう強まる一方で,EPLFの軍事攻勢も強化されていった。さらに東西冷戦終結後には,エチオピアに対するソ連,キューバの軍事的支援が失われたこともあって,政府側の軍事的抵抗力は急激に弱まり,91年からTPLFを中心とするエチオピア人民革命民主戦線(EPRDF)の軍事攻勢が本格化して,同年5月には首都アジス・アベバは完全に包囲され,メンギストゥ政権は崩壊した。その後,EPRDFのメレス・ゼナウィ議長を暫定大統領とするエチオピア新政府が,2年後のエリトリア住民投票によるその将来の地位の決定を約束し,ここにエリトリア独立の道が開かれた。
エチオピア

1993年4月,エリトリア住民投票が国連監視下で実施され,99.8%が独立に賛成票を投じて,それを受けて5月24日にエリトリア国が誕生した。アフリカで53番目(西サハラを除く)の独立国であり,182番目の国連加盟国である。初代大統領にはEPLF書記長イサイアス・アフェウェルキIssaias Afewerkiが就任し,憲法制定および複数政党制選挙実施を主たる任務とする4年間の暫定政府を組織した。EPLFは94年2月に政党へと改組転換するとともに,民主正義人民戦線(PFDJ)と改称した。議会はすでに95年5月に6州制の採用を決めているが,その後,全58条からなる新憲法が,97年5月の制憲議会で満場一致で採択された。それによると,連邦制は採用せず,国民議会によって選出される大統領は,1回のみ再選が認められるが,議会の3分の2の多数により解任されることとなっている。

 対外的には西側先進諸国との関係の緊密化を図り,それによって国家建設を効率的に進めようとする姿勢をみせているが,96年4月にジブチとの国境で軍事衝突を引き起こし,また1995年末からは紅海上のハニシュ諸島をめぐるイエメンと領土紛争が続くなど,一部周辺諸国との関係は緊迫気味である。独立直後の1993年6月にはアフリカ統一機構(OAU)に,95年4月には非同盟諸国会議に,それぞれ加盟した。

独立直後のため,信頼しうる統計に乏しいが,長く続いた戦火のためもあって,1人当り所得75~150ドルという最貧国の一つである。1993年の推計では,経済の再建,インフラ整備に着手するには,30億ドルの資金が必要とされている。主要産業は農業であり,主要産品はテフ,メイズ,小麦,ソルガム,ミレットなどである。漁業も発展の可能性を秘めているが,政府の価格統制や,輸送インフラの貧困などの影響が大きく,市場の育成が進んでいない。天然資源の開発も重要な目標の一つであり,とくに紅海の石油,天然ガスの開発に目が向けられはじめている。金鉱の開発も有望とされているが,いずれも今後の課題である。
執筆者:

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百科事典マイペディア 「エリトリア」の意味・わかりやすい解説

エリトリア

◎正式名称−エリトリア国State of Eritrea。◎面積−11万7600km2。◎人口−525万人(2010)。◎首都−アスマラAsmara(106万人,2006)。◎住民−ティグリニヤ人,サホ人,ベジャ人など。◎宗教−イスラム50%,コプト教会50%。◎言語−ティグリニヤ語,アラビア語など。◎通貨−ナクファNakfa。◎元首−大統領,イサイアスIssaias Afewerki(1945年生れ,1993年5月就任,現在は暫定的任期,任期5年)。◎憲法−1997年5月採択(ただし未発効)。◎国会−一院制。暫定議会(定員150,任期4年)。民主・正義人民戦線(旧エリトリア人民解放戦線)など。◎GDP−17億ドル(2008)。◎1人当りGNP−200ドル(2006)。◎平均寿命−男60.5歳,女65.2歳(2013)。◎乳児死亡率−42‰(2010)。◎識字率−65%(2008)。    *    *アフリカ北東部,紅海沿岸の共和国。農牧業がおもに行われるが,熱帯乾燥気候で耕地は少ない。コーヒーが主産品。 古代アクスム王国の中心地で,王国崩壊後も,そして19世紀半ばにアディスアベバを中心とするエチオピア帝国に支配されてからも,独自性を保ってきた。1889年イタリア植民地となり,第2次大戦中英軍が占領,1952年自治共和国としてエチオピアと連邦を構成したが,1962年エチオピアに併合された。しかし分離独立を求める解放勢力によって激しい反政府武装闘争がつづけられ,1991年のエチオピア政府崩壊を契機に,1993年住民投票を経てエチオピアから分離・独立した。1993年5月国連に加盟。1997年5月憲法を採択。1998年国境地帯の帰属をめぐってエチオピアとの間に軍事衝突が起こり,両国と国連により国境画定委員会が設置された。国境紛争は2000年6月の和平協定調印で終結へ向かい,2001年,両国は国境地域に設定された暫定安全地帯から撤兵したが,事態は現在も紛糾している。エリトリアは隣国ソマリアのイスラム原理主義勢力を支援し,国際的な孤立を深めている。
→関連項目アフリカの角

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「エリトリア」の意味・わかりやすい解説

エリトリア
Eritrea

正式名称 エリトリア国 State of Eritrea。ティグリニャ語ではエルトラ Ertra。
面積 12万1100km2(概数)。
人口 614万7000(2021推計)。
首都 アスマラ

アフリカ大陸北東部の国。エチオピアの北,紅海にのぞむ。中部から西部の高原には農耕民が居住,コプト派キリスト教徒が多く,そのほかの地域は半遊牧民でイスラム教徒が多い。古代からアクスム王国やエチオピアの版図に属することが多かったが,16世紀中頃からヨーロッパ人が注目しはじめ,1869年頃からイタリアがアッサブ付近の海岸地方をスルタンより購入,1882年に植民地化した。 1889年にはエチオピアのメネリク2世に,西部高原地方を含む紅海沿岸地方のイタリア支配を認めさせ,翌 1890年,イタリア領エリトリアが成立,イタリアのエチオピア侵攻の基地となった。 1941年連合国軍によってイタリア支配から解放され,イギリス支配下に入った。 1947年の平和条約でイタリアはエリトリアに対する権利を放棄,1948年以後国際連合の働きがあり,1952年エチオピアと連邦を結成,1962年エチオピアと完全に統合した。しかしその後エリトリア人民解放戦線 EPLFによる独立運動が続き,1991年 EPLFはエチオピア人民革命民主戦線 EPRDFなどとともに政権を打倒,北部エリトリアを掌握した。独立を問う住民投票の結果,1993年独立を達成した。

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旺文社世界史事典 三訂版 「エリトリア」の解説

エリトリア
Eritrea

アフリカ北東部に位置し紅海に面する国。首都アスマラ
【略史】エリトリアの名は,古代ギリシア語で赤,すなわち紅海一帯をさす“エリュトゥライア”に由来。古来エチオピア領に属したが,紅海に面するという交易上の重要性から,外国勢力の侵入に絶えずさらされた。16〜19世紀,沿海部はオスマン帝国の支配下に置かれたが,内陸部にはいくつものキリスト教王国が分立していた。1890年イタリアの植民地となる。1936年エチオピアを併合したイタリアに対して第二次世界大戦中イギリスが出兵した結果,42年よりイギリスの保護領となる。
【第二次世界大戦後と独立】1952年国連決議によりエチオピアと連邦を形成したが,62年エチオピアに強制併合される。以来,エリトリア人民解放戦線(EPLF)などによる独立闘争が展開される。1991年5月のエチオピアのメンギスツ政権崩壊とともに,同月EPLFが臨時政府樹立を宣言。1993年4月の国連監視下での住民投票の結果,5月独立を達成。1997年新憲法を採択。1998年エチオピアとの間で国境紛争が起こり,翌99年になっても武力衝突が続いている。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「エリトリア」の解説

エリトリア
Eritrea

アフリカ東部の紅海に臨むアクスム王国の故地。16世紀以降イスラーム諸勢力が進出し,1890年イタリア領に,第二次世界大戦後イギリス領となった。1962年に10年間連邦を形成していたエチオピアに併合され,エリトリア人民解放戦線(EPLF)を中心に解放運動が高揚。解放諸勢力の攻撃で91年エチオピアの軍事政権が崩壊し,住民投票の結果,93年にアフリカで53番目の独立国となる。

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世界大百科事典(旧版)内のエリトリアの言及

【エチオピア】より

…農民は小麦,大麦,トウモロコシ,テフ(エチオピア固有のイネ科の穀物)などを栽培し,インジェラという発酵パンを主食とした。ティグレ族とアムハラ族の区別はむずかしいが,ティグレ族はエチオピア北部とエリトリアにかけて,孤立した山塊に居住して,アムハラ族の支配に抵抗した。またアクスム王国の故地に居住するため,文化的な正統性を誇り,キリスト教を純粋に保つと自負している。…

※「エリトリア」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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