オペラ(舞台芸術)(読み)おぺら(英語表記)opera イタリア語

日本大百科全書(ニッポニカ) 「オペラ(舞台芸術)」の意味・わかりやすい解説

オペラ(舞台芸術)
おぺら
opera イタリア語
opera 英語
Oper ドイツ語
opéra フランス語

舞台芸術の一種で、歌唱を中心に、作品全体が主として音楽によって表現されてゆく劇。語源はラテン語のopus(作品)の複数形。誕生期にはdramma in musica(音楽による劇)またはdramma per musica(音楽のための劇)とよばれていた。日本では「歌劇」とよばれることもあるが、この語はもっと幅広い、歌唱を中心にした劇の総称としても用いられている。

 オペラの音楽は、独唱、合唱、管弦楽などにより構成され、登場人物は歌い手でもあり、台詞(せりふ)がそのまま歌詞になり、ストーリーが展開してゆく。したがってオペラの上演には、演奏を含めた音楽的要素のほかに、文学的要素(台本、歌詞など)はもとより、美術的要素(装置、衣装、照明など)、挿入されるバレエなどの舞踊的要素、そして演劇的要素(演出、演技など)も欠くことのできないものであり、総合芸術としての魅力をもっている。

 音楽表現の中心をなす歌唱は、各声域の独唱者による独唱(ソロ)と重唱、これに主として群衆の役を受け持つ合唱が加わり、劇が進められる。ナポリ派オペラ(後述)以後、近代に至る主流のオペラでは、独唱者のうたう歌は、旋律の美しさを主とした各種のアリア(詠唱)と、なかば語られるように歌われるレチタティーボ(叙唱)に分けられ、アリアは一つ一つ完結した独唱曲の形をとる。これら独唱、重唱などには進行の順に番号がつけられているものが多く、このため「番号オペラ」ともよばれる。

 また管弦楽は、(1)声の伴奏、(2)登場人物の性格・行動・感情・心理などの描写・表現、(3)舞台上の雰囲気の醸出など、種々の機能をもつ。また冒頭の序曲や前奏曲、あるいは間奏曲の演奏など、管弦楽だけの部分も少なくない。

[今谷和徳]

オペラの歴史

オペラの誕生

歌唱を中心に、作品全体が主として音楽によって表現されていく劇は、西洋では、古代ギリシアの演劇をはじめ、ヨーロッパ中世の典礼劇、アダン・ド・ラ・アールの牧歌劇『ロバンとマリオンの劇』(13世紀後半)、そしてルネサンス時代のインテルメッツォ、マドリガル(マドリガーレ)・コメディ、バレエ、マスク(仮面劇)など、16世紀までに多くの種類がつくられているが、これらは普通、オペラとはよばれない。オペラは、16世紀末に古代ギリシアの悲劇の復興を目ざしたフィレンツェのカメラータという文学者・音楽家のグループの創作活動の結果として生まれた。彼らは、登場人物の台詞を通奏低音を伴奏として歌うという、モノディ様式をオペラの主体としたが、その最初の試みは、リヌッチーニO. Rinuccini(1562―1621)の台本、ペーリの作曲になる『ダフネ』(1594、初演は1598年)であった。残念ながらこの作品は現存せず、同じくリヌッチーニが台本を書き、ペーリが作曲した『エウリディーチェ』(1600)が、現存する最古のオペラである。これは、ギリシア神話のオルフェウスとエウリディケの物語を題材に、伴奏付きモノディを中心としてマドリガーレ風の合唱などを加えた形で書かれており、まだルネサンス時代の牧歌劇の雰囲気をとどめている。なお、『エウリディーチェ』が初演されたのは、マリ・ド・メディシスとフランス王アンリ4世の婚礼の際であったが、このとき上演されたものはペーリに対抗したカッチーニにより曲の一部を書き改められたものであった。

[今谷和徳]

バロック時代のイタリア

フィレンツェで始まったオペラは、たちまちイタリア各地に広まり、多くの作品が生み出されていった。そのうち、1607年にマントバで初演されたモンテベルディの『オルフェオ』は、優れた音楽技法と劇的な構成によって書かれた、最初の本格的なオペラとして重要である。1630年代になると、ローマでランディS. Landi(1586/1587―1639)、マッツォッキV. Mazzocchi(1597―1646)、マラッツォーリM. Marazzoli(1602から1608ごろ―1662)らにより、主として宗教的題材に基づく作品が上演されていった。1637年ベネチアで史上最初の公開オペラ・ハウスが開かれ、続いて各地のオペラ・ハウスも続々と開場したことによって、以後17世紀の後半にかけて、ベネチアがオペラの中心地として栄えることになる。初期ベネチア・オペラのうちとくに重要なのは、人間の性格描写に優れた歴史劇であるモンテベルディの『ポッペアの戴冠(たいかん)』(1642)であろう。モンテベルディに続いて、その弟子カバルリ、さらにチェスティA. Cesti(1623―1669)らが、機械仕掛けによるスペクタクル性を重視した、どの階層にも楽しめるオペラを書いていった。また、歌手の名演奏が好まれ、とくに去勢された男性歌手であるカストラートがスターとしてもてはやされた。

 他のイタリア諸都市のオペラにも、こうしたベネチア・オペラに特徴的な性格が共通にみられたが、17世紀末ごろから、ナポリがオペラの中心地になってゆき、音楽様式も変化していった。このようなナポリ派オペラの確立に大きな貢献をしたのは、アレッサンドロ・スカルラッティである。スカルラッティは、急―緩―急のイタリア風序曲の形を定めたが、彼をはじめナポリ派の作曲家たちは、レチタティーボとアリアの分離も推し進め、ダ・カーポ・アリアの形を確立した。また18世紀には、日常的な題材による喜劇オペラも数多くつくられた。それらはやがて、ペルゴレージの『奥様女中』(1733)をはじめとする、従来のオペラの幕間(まくあい)に行われていた滑稽(こっけい)な音楽喜劇であるインテルメッツォの影響も受けて、オペラ・ブッファと総称されることになる。それ以後、オペラ・ブッファに対して、従来の伝統的なオペラはオペラ・セリアとよばれるようになった。

[今谷和徳]

バロック時代のフランスその他

フランスでは初めイタリアのオペラが輸入されたが、あまり歓迎されなかった。しかし17世紀の後半に、イタリア出身のリュリが、フランス独自の古典悲劇やバレエなどの要素を巧みに取り入れ、またフランス語の抑揚に沿った朗唱を形づくり、宮廷の趣味にあった音楽悲劇をつくりだすことに成功して、フランス独自のオペラが確立された。続いてカンプラが、1幕ごとに物語が完結するオペラ・バレエの形を展開させ、18世紀前半には、ラモーが『カストールとポリュクス』(1737)をはじめとする多くの作品を上演して、伝統的フランス・オペラをさらに発展させた。

 イギリスでは、16世紀以来独自の音楽劇である仮面劇のマスクが上演され続けていたが、それにフランスやイタリアの影響が加わり、ブローJ. Blow(1649―1708)やパーセルなどのイギリス・オペラが生み出された。しかし、まもなくイタリア・オペラが支配的となり、『ジュリオ・チェーザレ』(1724)などの優れた作品を書いたヘンデルや、イタリア人作曲家たちによるイタリア・オペラの消費地と化した。やがて、民衆的なバラッド・オペラが流行し始め、イタリア・オペラは下火となっていった。

 ドイツでは17世紀の初めに、イタリア語の台本のドイツ語訳に作曲されたシュッツの『ダフネ』(1627。音楽現存せず)が現れたが、以後は各地の宮廷でイタリア・オペラが流行し、イタリア人作曲家たちの支配に甘んじた。一方、1678年に北ドイツのハンブルクで、ベネチア以外で最初の公開オペラ・ハウスが開かれ、ラインハルト・カイザーR. Keiser(1674―1739)やテレマンらによって、一般にハンブルク・オペラとよばれるドイツ語によるオペラがつくりだされていったが、1738年にこの劇場が閉じられるとともに、ふたたびドイツはイタリア・オペラの消費地となった。

 スペインでは、17世紀にサルスエラとよばれる音楽劇が栄えたが、やがて幕間劇のインテルメッツォから喜歌劇のトナディーリャが独立し、18世紀後半に盛んに上演された。

[今谷和徳]

18世紀後半

18世紀の中心的な存在だったナポリ派オペラは、アリア中心の声楽技巧を誇示する弊害をみせていたが、やがて劇としての構成を見直そうとする動きが出てきた。そのオペラ改革の先鞭(せんべん)をつけたのはヨンメッリN. Jommelli(1714―1774)やトラエッタT. Traetta(1727―1779)だったが、続いてグルックが台本作家カルツァビージR. Calzabigi(1714―1795)と協力して『オルフェオとエウリディーチェ』(1762)などを発表、改革をいっそう推し進めた。

 一方、18世紀中葉ごろから、各地で市民階級の生活感情をとらえた喜劇的オペラが盛んになってきた。イタリアのオペラ・ブッファは、ガルッピB. Galuppi(1706―1785)、パイジェッロG. Paisiello(1740―1816)、チマローザD. Cimarosa(1749―1801)らの活躍で、オペラ・セリアをしのぐ存在となっていった。フランスでは、イタリアのオペラ・ブッファ(王妃派)対フランス宮廷オペラ(国王派)という形で芸術論争(これを「ブフォン論争」という)が巻き起こり、それを契機に、J・J・ルソーをはじめ、フィリドールF. A. Philidor(1726―1795)、グレトリーらによってオペラ・コミックが展開された。またドイツでは、民族的なジングシュピールがヒラーJ. A. Hiller(1728―1804)やディッタースドルフらによって盛んとなっていった。

 こうした18世紀オペラのさまざまな分野で独自の傑作を残したのがモーツァルトであった。オペラ・セリアもいくつか書いたが、もっとも本領を発揮したのは喜劇的オペラであり、オペラ・ブッファの形による『フィガロの結婚』(1786)、『ドン・ジョバンニ』(1787)、『コシ・ファン・トゥッテ』(1790)、ジングシュピールの形による『魔笛(まてき)』(1791)などは傑作である。

[今谷和徳]

19世紀イタリア

19世紀に入っても、イタリアでは18世紀以来の伝統的形式が受け継がれ、世紀前半には『セビーリャの理髪師』(1816)などのオペラ・ブッファで知られるロッシーニ、『愛の妙薬』(1832)や『ランメルムーアのルチア』(1835)などを書いたドニゼッティ、『ノルマ』(1831)などオペラ・セリアばかりを残したベッリーニらが活躍した。彼らは、これまでイタリアで展開されてきた、美しい声で華麗に歌ってゆくいわゆるベルカント唱法を頂点に導き、ベルカント・オペラ時代を築き上げた。

 19世紀中葉以降は、伝統的なイタリア・オペラを劇的表現力に富む完成された芸術品へと高めたベルディが、ほぼこの時期のイタリア・オペラを1人で背負った感がある。なかでも『リゴレット』(1851)や『椿姫(つばきひめ)』(1853)などの中期の作品、『アイーダ』(1871)、『オテロ』(1884)、『ファルスタッフ』(1893)という後期の3作が傑作とされる。

 世紀末には、文学のリアリズム運動に影響を受けたベリズモ・オペラが現れ、マスカーニやレオンカバッロらが活躍した。

[今谷和徳]

19世紀フランス

19世紀前半、ヨーロッパのオペラの中心市場となったのはパリである。ここでは、ケルビーニらイタリア人作曲家の活動の後を受けて、壮大なグラントペラ(グランドオペラ)が展開されたが、この中心的存在はドイツ生まれのマイヤベーアであった。一方では、18世紀以来のオペラ・コミックも盛んで、オーベールら多くの作曲家がこの分野で活躍した。

 19世紀中葉以降、オペラ・コミックは喜劇的なものと叙情的なものに分かれていった。喜劇的なものはオペラ・ブフまたはオペレッタともよばれたが、その代表的作曲家には『天国と地獄』(1858)で知られるオッフェンバックがいる。叙情的なものはオペラ・リリックともよばれ、グノー、トマらによって手がけられたが、とくに重要なのはビゼーの傑作『カルメン』(1875)である。また『トロイの人々』(1856~1858作曲)などで独自の作風を示したベルリオーズのオペラも忘れることができない。

[今谷和徳]

19世紀ドイツ

ドイツでは、ウェーバーの『魔弾(まだん)の射手(しゃしゅ)』(1821)の登場によって、ドイツ・ロマン主義オペラが確立された。その後、ロルツィング、ニコライらが出たが、19世紀中葉以降、ワーグナーによって新しいドイツ・オペラが生み出された。ワーグナーは、『タンホイザー』(1845)や『ローエングリン』(1850)でロマン主義オペラの頂点を築いたが、その後、『トリスタンとイゾルデ』(1865)や『ニーベルングの指環(ゆびわ)』四部作(1876全曲初演)などで、総合的な芸術作品としての独自の音楽劇「楽劇」をつくりあげた。ワーグナーは、戯曲と音楽とが有機的に結び付いた劇の創造を目ざして、自ら台本を書き、また劇の統一性を確保するため、劇中の人物、物事、理念などに一定の音楽的動機をあてがうというライトモチーフ(示導動機)とよばれる手法を用いた。さらに劇の継続性を保つために、絶え間なく調性を変化させてゆく無限旋律の手法を取り入れ、神秘的で官能的な世界をつくりだした。ワーグナーの作品は、19世紀後半のヨーロッパ音楽界全体に大きな影響を与えただけでなく、文学界や哲学界にもさまざまな波紋を投げかけた。

 一方では、19世紀後半に民衆的なオペレッタがウィーンで栄え、ヨハン・シュトラウス(子)らが活躍し、20世紀のレハールらへ引き継がれていった。

[今谷和徳]

民族主義的オペラの台頭

19世紀には民族主義的オペラが登場したが、その先駆となったのはロシアで、グリンカ以来、ムソルグスキー、ボロディン、リムスキー・コルサコフらが民族色豊かな作品を発表していった。なかでもムソルグスキーの『ボリス・ゴドゥノフ』(1874)は重要である。また、西欧の音楽を身につけたチャイコフスキーの作品も忘れることができない。

 そのほか、チェコではスメタナが『売られた花嫁』(1866)などの民族主義オペラを書いたし、20世紀にかけてはスペインでもファリャなどによる活躍がみられる。

[今谷和徳]

20世紀前半

ワーグナーの出現によって頂点にまで達したドイツのオペラは、20世紀に入ってさまざまな傾向をもつ作品を生み出してゆく。まず、ワーグナーの影響を受けたリヒャルト・シュトラウスは、初め強烈な官能に満ちたロマン的オペラを書くが、『ばらの騎士』(1911)以後、新古典主義的傾向をみせていった。十二音技法によるオペラを書いたシェーンベルクの弟子、ベルクは、表現主義的な『ウォツェック』(1925)と『ルル』(1937)によって20世紀オペラの一つの頂点を築いた。さらに、ヒンデミットやクルト・ワイルらの活動も注目に値する。

 フランスでは、ドビュッシーの『ペレアスとメリザンド』(1902)の出現によって20世紀への扉が開かれたが、この独特な性格をもつオペラを直接受け継いだ作品は生まれなかった。しかし、ラベルをはじめミヨー、オネゲル、プーランクらが、それぞれ個性的な作品を次々と生み出していった。

 イタリアでは、19世紀末にベリズモの影響を受けた作品を書いたプッチーニが、20世紀になって『トスカ』(1900)、日本に題材をとった『蝶々(ちょうちょう)夫人』(1904)などの叙情的なオペラを発表していったが、その後、ブゾーニ、マリピエロ、ダッラピッコラらがさまざまな手法による作品を書いていった。

 そのほか、各種の試みを行ったストラビンスキー、ソ連のプロコフィエフ、ショスタコビチ、チェコスロバキアのヤナーチェク、ハンガリーのバルトーク、アメリカのガーシュインらの作品も見落とすことができない。

[今谷和徳]

第二次世界大戦以後

第二次世界大戦後も、イギリスのブリテン、アメリカで活躍するイタリア出身のメノッティ、ドイツのヘンツェ、アイネムらの活動が目だつが、その後はドイツのツィンマーマンやライマンA. Reimann(1936― )らの作品が目につく程度で、全体としては新しいオペラに対する創作意欲は衰えつつある。現代の各地のオペラ・ハウスがレパートリーの中心にしているのは、モーツァルト以後の評価の定まった作品であり、オペラ活動として注目されているのは、指揮者や歌手たちの演奏、あるいは新しい演出などに対する評価であろう。1990年代以降、バロック時代のオペラの復活上演が相次いでおり、オペラのレパートリーの広がりという点で注目される。

[今谷和徳]

日本のオペラ

日本で初めてオペラと称するものが上演されたのは、1894年(明治27)東京・上野の東京音楽学校(現東京芸術大学音楽学部)の奏楽堂で、オーストリア代理公使クーデンホーフHeinrich Coudenhove-Kalergi(1859―1906)らアマチュアによるグノーの『ファウスト』書斎の場である。日本人だけでオペラのほぼ全曲上演がなされたのは、約10年後の1903年(明治36)、上野の学生であった三浦環(たまき)らによるグルックの『オルフォイス』であった。翌1904年、坪内逍遙(しょうよう)は『新楽劇論』を発表、「将来の日本の音楽劇は西洋歌劇の直訳模倣であってはならぬ」と説いた。それを受けてか、翌1905年に7世松本幸四郎が歌舞伎(かぶき)座の弥生(やよい)狂言の一つとして、北村季晴(すえはる)(1872―1931)詞・曲のオペラ・カンタータ『露営(ろえい)の夢』を上演した。この『オルフォイス』と『露営の夢』は、その後の日本のオペラの二つの方向を暗示した。一つは音楽重点主義、一つは音楽に演劇的な要素を種々加えた行き方である。

[寺崎裕則]

明治のオペラ運動

『露営の夢』を機に、『羽衣(はごろも)』(小松耕輔(こうすけ)詞・曲)、『常闇(とこやみ)』(坪内逍遙詞、東儀鉄笛(とうぎてってき)曲)、『霊鐘(れいしょう)』(小林愛雄(ちかお)詞、小松耕輔曲)、『誓ひの星』(山田耕筰(こうさく)詞・曲)など、本来のオペラとはほど遠いにしろ、日本人の手による日本のオペラがつくられた。

 1911年(明治44)日本最初のオペラ・ハウスともいうべき帝国劇場が東京に開場。オーケストラや歌手を雇い、東京音楽学校教師ユンケルらのもと、三浦環、清水金太郎(1889―1932)ら上野の卒業生が、ウェルクマイステルH. Werkmeister(1883―1936)の歌舞劇『胡蝶(こちょう)の舞』やマスカーニの『カバレリア・ルスティカーナ』の一部などを上演した。しかし、外国人の作曲による日本を題材にした日本語オペラ、また日本人の歌う原語上演は、オペラを見慣れない観客にとっては「わからない」の連発であった。

[寺崎裕則]

大正のオペレッタ運動

1913年(大正2)不人気の帝劇オペラはオペレッタ振付師ローシーを招いて起死回生を図るが失敗し、『連隊の娘』『天国と地獄』などのオペレッタ抄演で人気を取り戻したが、採算がとれずに1916年に解散。ローシーは赤坂にローヤル館を創設して続行したが、2年で解散、帰国。一方、新劇演出家の伊庭孝(いばたかし)は1916年に歌舞劇協会を結成、「日本人によるモダンなミュージカルを」と、浅草・常盤(ときわ)座で自作の『女軍出征』を上演して大ヒット、いわゆる浅草オペラの開幕となった。流行歌『君恋し』の作曲者として知られる佐々紅華(さっさこうか)(1887―1961)も、オペラの大衆化と日本人による音楽劇の創造を目ざして東京歌劇座を結成、浅草・日本館で自作の『カフェーの夜』を上演、そのなかの「コロッケーの唄(うた)」は一世を風靡(ふうび)した。浅草オペラは、こうした和製ミュージカルをはじめ、『カルメン』などのオペラ、『ブン大将』『ボッカチオ』などのオペレッタ、『釈迦(しゃか)』『入鹿(いるか)物語』(ともに伊庭孝詞、竹内平吉曲)などの和製オペラ、子供のためのお伽(とぎ)歌劇まで、ひっくるめて歌劇と称して上演した。

 関西では1913年に現在の宝塚歌劇団が誕生、レビューとともに岸田辰弥(たつや)(1892―1944)、白井鉄造(しらいてつぞう)らがオペレッタ普及に一役を買った。帝劇はその後ロシア歌劇団やカーピ・イタリア歌劇団を招いて本物のオペラの片鱗(へんりん)を日本に紹介した。しかし、1923年の関東大震災はこれらの活動を一挙に壊滅させてしまった。

[寺崎裕則]

昭和初期

1927年(昭和2)日本放送協会は、山田耕筰らの解説で、オペラの名作を長時間全国にラジオ放送している。山田はドイツ留学中「音楽の普及はオペラから」との確信を得て帰国、日本楽劇協会をつくり、1929年には歌舞伎座で日本最初の本格オペラ『堕(お)ちたる天女』(坪内逍遙作)を自らの指揮で上演した。さらに1940年初演の『黒船』(ノエル作、山田耕筰訳・曲)や、第二次世界大戦後の『夕鶴』(木下順二作、團伊玖磨(だんいくま)曲)、『修善寺(しゅぜんじ)物語』(岡本綺堂(きどう)作、清水脩(おさむ)曲)などの上演にも影響を与えるなど、日本のオペラの嚆矢(こうし)となった。一方、欧米で世界のテナーとなって帰国した藤原義江(よしえ)は、1934年に藤原歌劇団をつくり、同年6月日比谷(ひびや)公会堂での第1回公演、プッチーニの『ラ・ボエーム』以後、音楽重点主義を貫くと同時に、名作オペラの本格的上演で大衆との接触に努めた。

[寺崎裕則]

第二次世界大戦後

戦災を免れた帝劇や有楽(ゆうらく)座、東劇(とうげき)ではいち早くオペラが上演された。1946年(昭和21)には東宝の協力を得て帝劇で藤原歌劇団が『椿姫(つばきひめ)』を、前年発足した長門美保(ながとみほ)歌劇団は松竹の力を借りて東劇で『蝶々(ちょうちょう)夫人』を上演している。1952年には二期会が創立される。これは、柴田睦陸(しばたむつむ)(1913―1988)、中山悌一(ていいち)(1920―2009)ら東音(東京芸術大学)歌劇研究部のメンバーを中心に、「聴くに堪えるオペラ」を目ざし、ドイツ・オペラを中心にオペラのアカデミズム確立をうたった団体で、以後半世紀近くを経た1999年(平成11)には歌手会員1600余名を擁するオペラ団体に発展した。一方、藤原歌劇団は1952年『蝶々夫人』をニューヨークで上演し、日本のオペラ団体で初の海外公演を成し遂げた。1981年に創作オペラ中心の日本オペラ協会と合体し、財団法人日本オペラ振興会が発足、1985年から総監督にテノール歌手の五十嵐喜芳(いがらしきよし)(1928―2011)を迎え(1999年6月まで。同年7月に新国立劇場オペラ芸術監督に就任)、イタリア・オペラを中心に海外から優れた歌手を招き、高水準のオペラを上演、二期会とともに第二次世界大戦後のオペラ界の二大潮流となった。

[寺崎裕則]

 その後、二期会は2005年(平成17)に解散し、財団法人東京二期会(1977年設立の財団法人二期会オペラ振興会が改称)内の声楽会員組織「二期会」となった。なお、東京二期会は2010年に、日本オペラ振興会は2012年に財団法人から公益財団法人に移行している。

[編集部]

日本のオペラ団体

前項で解説した二期会(東京二期会)と日本オペラ振興会以外の国内オペラ団体を展望する。東京室内歌劇場は、二期会の有志が実験的な内外の室内オペラを上演するという団体で着実に実績を積んでいる。演出家の松尾洋(ひろし)(1942―2008)が主宰した東京オペラ・プロデュースは、主要な歌劇場ではめったに上演しない作品を取り上げ異彩を放つ。モーツァルト学者の高橋英郎(ひでお)(1931―2014)が主宰したモーツァルト劇場は、彼の訳詞、台本でモーツァルトのオペラを上演している。オペラシアターこんにゃく座は、1971年(昭和46)東京芸術大学内のサークル「こんにゃく体操クラブ」を母体に創立、作曲家林光(はやしひかる)(1931―2012)の創作オペラを中心に「話すように歌うオペラ」を目ざしユニークな活動を続けている。オペレッタを専門とするのが、特定非営利活動法人(NPO法人)日本オペレッタ協会で、1977年、演出家寺崎裕則(ひろのり)(1933―2023)が創立。フェルゼンシュタインの音楽と演劇の統一を図るムジークテアター(音楽劇)論の創造方法を採用し、オペレッタの普及にあたっている。

[寺崎裕則]

地域オペラの発展

オペラ上演は東京文化会館か日生劇場しかなかった日本のオペラ界に、1970年代後半以降、全国に文化会館やコンサート・ホール、そしてヨーロッパ同様のオペラ・ハウスが誕生しはじめた。ここを拠点に急速に文化振興財団や地域オペラが発展した。皮切りは1963年(昭和38)、日生劇場誕生による財団法人ニッセイ文化振興財団の設立で、演出家鈴木敬介(けいすけ)(1934―2011)を中心に毎年内外のオペラを上演、実績を積み重ねている。愛知県芸術劇場は1992年(平成4)10月に名古屋にできた日本最初のオペラ・ハウスで、独自に日生劇場や名古屋二期会と組み、年に数回の公演を行ってきた。さらに名古屋オペラ協会、財団法人名古屋文化振興事業団の活動などがある。小沢征爾(せいじ)もヘネシー・オペラ・シリーズとして世界的歌手を招いてホール・オペラ(オペラ・ハウスではなくコンサート・ホールで行うオペラ)を開いたり、またサイトウ・キネン・オーケストラとともにユニークなオペラ活動を行っている。

 このほかに、九州では歴史が一番古い鹿児島オペラ協会、『吉四六(きっちょむ)昇天』(清水脩作)で名をあげた大分県民オペラ協会がある。関西では関西二期会、関西歌劇団、神戸オペラ協会、広島市のひろしまオペラ推進委員会などが独自の活動を展開している。神奈川県では指揮者の福永陽一郎(1926―1990)を中心に、湘南(しょうなん)在住のプロ、アマが一体となり長い道程を経て市民オペラとなった藤沢市民オペラや、横浜市での各オペラ団体の活動があげられる。さらに茨城県日立市の財団法人日立科学文化情報財団主催の地域オペラの発展と連携を提唱する「全国オペラ・フォーラム」活動なども知られており、1998年には30余りの団体が参加していた。地域オペラは好きなもの同士が集まって好きなオペラを上演する段階から、地域に密着したそれぞれの地方文化活動の一環としてのオペラに向かった。

[寺崎裕則]

外来オペラの急増と日本の現状

このような日本のオペラのめざましい発展の要因のひとつに、1958年(昭和33)、NHKが招聘(しょうへい)したイタリア歌劇団の来日以来、かつての東西ベルリン歌劇場、ベルリンのコーミッシェ・オーパー、ミュンヘンのバイエルン国立歌劇場、ウィーン国立歌劇場、ウィーンのフォルクス・オーパー、ミラノのスカラ座、ロンドンのコベント・ガーデン王立歌劇場、ロシアのボリショイ劇場などの来日引越し興行が、1980年代のバブル期を頂点に毎年のように行われたことがあげられよう。オペラのビデオやレーザーディスクの普及、海外へのオペラ・ツアーなど、気軽に見にいける時代になったことも一因である。そうした機運のなかで、1997年(平成9)10月に竣功(しゅんこう)した東京の新国立劇場には、その一部として本格的なオペラ・ハウスが設けられ、本格的なオペラ普及の拠点が誕生した。しかしながら日本のオペラにはまだ問題が山積している。

 オペラやオペレッタは、ヨーロッパ文明が生んだ最高最大のぜいたくな総合芸術である。それゆえ上演するには膨大なお金がかかる。そのため、ヨーロッパではかつては領主や大金持、国王の庇護(ひご)によって、20世紀後半は国家の援助によって、すなわち国民の税金によってオペラ公演が可能となった。こうした伝統の上にたつヨーロッパと日本での文化状況には大きな隔たりがある。日本では経済的な負担は、オペラを上演したい人が直接担ってきたのであり、オペラ歌手という職業は日本では存在しえない、といっていい。歌手はオペラでは生活ができないので、音楽学校の教師などを副業にせざるをえない。オペラを上演する劇場、ハードの面については充実してきたものの、オペラを創造するソフト面、すなわち指揮、演出、歌手、合唱団、オーケストラなどがおのおのプロとして専念できるためには、経済面での公的助成が火急の課題である。

 オペラは歌劇、オペレッタは喜歌劇と訳されているが、これはその本質を知った名訳で、オペラやオペレッタは、音楽と演劇が一体となったものだが、日本の音楽教育では歌唱のみ、音楽のみに重点を置き、音楽と一体になった演劇教育がおろそかにされている。そのため、歌唱力という点では急速な進歩をとげたが、演技の面ではオペラやオペレッタ本来の楽しさが伝わってこない。オペラやオペレッタ志望の歌い手は、肉体の柔軟な若いときから歌、芝居、踊りの三拍子そろった歌役者として育成することが急務であり、その歌役者が常時、舞台に専念できる文化状況になったなら、日本のオペラが世界のオペラと肩を並べる日もそう遠くはないであろう。

[寺崎裕則]

『D・J・グラウト著、服部幸三訳『オペラ史』上下(1957、1958・音楽之友社)』『ロラン・マニュエル著、吉田秀和訳『オペラのたのしみ』(1979・白水社)』『海老沢敏・服部幸三他監修『最新名曲解説全集18・19・20・補3 歌劇』(1980~1981・音楽之友社)』『永竹由幸著『オペラ名曲百科』上下(1980、1984・音楽之友社)』『寺崎裕則著『魅惑のウィンナ・オペレッタ』(1983・音楽之友社)』『寺崎裕則著『音楽劇の演出――オペラをめぐって』(1995・東京書籍)』『増井敬二著『オペラを知っていますか』(1995・音楽之友社)』

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

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