オルロフ(英語表記)Orlov, Aleksei Fëdorovich

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「オルロフ」の意味・わかりやすい解説

オルロフ
Orlov, Aleksei Fëdorovich

[生]1786.10.19. モスクワ
[没]1861.5.21. ペテルブルグ
ロシア軍人,政治家,外交官。 G.G.オルロフの甥。 1805~07年の対ナポレオン戦争,12年の祖国戦争,28~29年の対トルコ戦争などに参加。 25年デカブリストの乱鎮圧の功により伯爵となる。 30年フランス七月革命勃発後,ウィーンへ派遣され,各国政府と協力して反革命対策を講じた。翌年にはペテルブルグの「コレラ暴動」,ノブゴロド軍事居住地区の反乱を鎮圧するなどニコライ1世政府の警察行政の中心に立ち,44~56年には憲兵隊長,さらに「第3課 (政治警察) 」の長官となった。外交官としては,アドリアノープル和約 (1829) ,ウンキャルスケレッシ条約 (33) ,パリ講和 (56) 締結に際しロシア側全権をつとめた。 56年公爵となり,同年より国家評議会および大臣会議議長となった。農奴解放に反対したが,それを阻止することはできなかった。

オルロフ
Orlov, Aleksei Grigor'evich

[生]1737.10.5. トベーリ
[没]1808.1.5. モスクワ
ロシアの軍人,政治家。グリゴリー・G.オルロフの弟。1762年エカテリーナ2世即位の際のクーデターに兄を助けて参加,ピョートル3世をロプシャ離宮で殺害。1770年露土戦争の際バルト海艦隊を率いて出撃エーゲ海のチェスメでトルコ艦隊を撃破,ロシア海軍史上最も輝かしい勝利を記録した。その功によってチェスメンスキー公を授けられた。1775年退官。ナポレオン戦争(1806~07)のときは,老齢にもかかわらず,祖国の危機を救うため私財を投じて民軍を編成し,参加した。

オルロフ
Orlov, Grigorii Grigor'evich

[生]1734.10.17. トベーリ
[没]1783.4.24. モスクワ近郊
ロシアの貴族,軍人。エカテリーナ2世 (大帝)寵臣,情夫として知られる。七年戦争に従軍。ピョートル3世反対派の中心人物として,1762年6月,弟 A.G.オルロフとともに近衛連隊を指揮してクーデターを行い,エカテリーナ2世を即位させた。その功によって伯爵を授けられると同時に,女帝側近にあって治世初期の改革事業を助けた。後年寵愛を G.A.ポチョムキンに奪われて勢力を失った。女帝に献じた 193カラットの「オルロフ・ダイヤモンド」にその名をとどめている。

オルロフ
Orlov, Nikolai Alekseevich

[生]1827.5.9.
[没]1885.3.29. フォンテンブロー
ロシアの外交官,軍人。ベルギー (1859~69) ,イギリス (70) ,フランス (71~82) ,ドイツ (82~85) の各大使を歴任。ロシアにおける体罰の廃止に尽したことでも有名である。

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世界大百科事典(旧版)内のオルロフの言及

【ダイヤモンド】より

…インド産最大のダイヤモンド〈グレート・ムガルGreat Mughal〉は約280カラットあったと伝えられるが,17世紀に行方不明となった。しかし一説に,この石は磨き直され,ビクトリア女王に献上され王室の宝物に加えられた〈コーイヌールKoh‐i‐noor〉(約106カラット),あるいはかつてインド南部の寺院に安置されていた女神像の目から剝ぎ取られロシアのエカチェリナ2世に贈られたといわれる〈オルロフOrlov〉(約195カラット)に変わったのではないかといわれている。また17世紀にルイ14世が買い取った〈ホープHope〉(約44カラット)はブルー・ダイヤモンドで,凶運の石として知られ,それを着用したモンテスパン夫人やマリー・アントアネットのように刑死したり,後年それを買い入れた銀行家ホープ家のように不慮の死や家庭の不幸に見舞われる者が続出した。…

※「オルロフ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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