オーストラリア史(読み)オーストラリアし

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「オーストラリア史」の意味・わかりやすい解説

オーストラリア史
オーストラリアし

ヨーロッパ人が 17世紀からこの大陸を「発見」,探検する以前は,遊牧初期の段階に達した先住民が生活していた。この大陸を包括的に学術調査したのはイギリスの J.クックで,1770年彼はその東岸一帯の領有を宣言した。イギリス政府はアメリカ独立後この地を流刑地とし,88年に到着した最初の流刑囚がシドニー市を建設。やがて羊毛を生産する牧畜業が興り,1803年に最初の対英輸出が行われ,13年にはシドニー西方のブルー山脈越えに牧羊地に適する広大な沃野が「発見」され,牧羊業が発展した。 1830年代までに同大陸各地に植民地が開かれたが,流刑制度の廃止,各植民地自治の確立などの要求が強まり,50年代にはこれらの要求は一応認められた。 51年ビクトリア州を中心にゴールド・ラッシュが起り,世界各地から人口が流入し,その後 10年間に3倍になった。その結果,労働力が過剰となり,労働運動が高まる一方で,低賃金労働をいとわないアジア人を排斥する白豪主義が強まった。また農・鉱・工業の発達に伴い,経済,移民国防などを処理する統一機構への要請が高まり,91年シドニーで第1回連邦憲法制定会議を開催,連邦化運動が進み,97~98年各地に連邦憲法制定会議が開かれ,98~99年憲法草案に人民投票,1900年オーストラリア連邦憲法が制定され,01年連邦発足。 08年首都をキャンベラに決定。以後労働党は数回政権を担当,社会福祉が発達した。第1次世界大戦にはイギリス連邦,連合国側の一員として積極的に参加,第2次世界大戦初期まで親イギリス政策をとったが,大戦後はイギリス連邦を離れ,アメリカおよびアジアにおける反共諸国政府との密接な提携を強調するようになった。 1970年代に入って,労働党が政権を握ると,保守政権時代の対アメリカ協調路線を修正し,アジア外交に重点がおかれ,現在にいたっている。

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