カメルーン(読み)かめるーん(英語表記)Republic of Cameroon 英語

日本大百科全書(ニッポニカ) 「カメルーン」の意味・わかりやすい解説

カメルーン
かめるーん
Republic of Cameroon 英語
République du Cameroun フランス語

アフリカ大陸の中部にある国。正式名称はカメルーン共和国République du Cameroun(フランス語)。国土は南北に長い三角形の形状をなし、西はナイジェリア、東はチャド、中央アフリカ、南はコンゴ共和国、ガボン、赤道ギニアの各国と国境を接し、南西はギニア湾に面する。面積47万5442平方キロメートル、人口1700万(2004推計)、1998万8219(2010推計)。首都はヤウンデ。

 自然、人文社会の両面にわたり、ブラック・アフリカにみられる諸特徴を備えているので、ミニ・アフリカとよばれる。平和、労働、祖国を国是とする。国旗の緑、赤、黄の3色は熱帯雨林(緑)とサバナ(黄)に二分される国土の自然を象徴し、真ん中の赤は金の星とともに全国民の統一を表している。そして緑には希望、黄には幸福の意味合いが含まれている。国名は、16世紀に来航したポルトガル人が、ウーリー川河口(ドゥアラ近郊)をリオ・ドス・カマローエンス(小エビの川)とよんだことに由来する。

[門村 浩]

自然

地形・地質

南部および中部は先カンブリア代結晶質岩石からなる階段状の高原地形をなすが、北部のベヌエ川流域とチャド湖盆地域は低地帯をなし、白亜紀以降の堆積(たいせき)岩や第四紀層で広く覆われている。中央部のアダマワ高原と西部を北北東方向に延びる構造線に沿って、白亜紀以来活発な火山活動が繰り返され、アダマワ高原と西部高地は溶岩流で広く覆われている。後者はサントメ島から中央サハラのティベスティ山地に至る構造線で、カメルーン山(最高峰はファコ、4095メートル)など大小の火山がこれに沿って噴出している。1986年ガス噴出事変をおこしたニオス湖は小火口湖の一つ。南半分の熱帯雨林および湿潤サバナ地帯では、湿潤熱帯気候のため岩石が深く風化し、鉄、アルミナに富む赤色土壌が地表を覆っている。これに対し中部の乾燥サバナ地帯では赤色土壌が剥離(はくり)されて、鉄、アルミナからなる硬盤層(キラス)が地表に露出する所が多い。おもな河川は中央部のアダマワ高原に発し、北流するものはニジェール川とチャド湖に注ぎ、南東流するものはコンゴ川に注ぎ、南西流するサナガ川水系だけが直接海に注ぐ。

[門村 浩]

気候

南部、海岸部の熱帯雨林地帯の完全湿潤気候から中部湿潤サバナ地帯の半湿潤気候、北部乾燥サバナ・ステップ地帯の半乾燥気候までの変化がある。年降水量は海岸部で2000ミリメートル以上、カメルーン山南西斜面には1万ミリメートルを超える多雨域があるが、内陸部では1500ミリメートル以下で北に向かって漸減し、最北部では500ミリメートル以下となる。雨は夏に北上する熱帯内収束帯に吹き込むギニア湾からの湿ったモンスーンがもたらし、収束帯が南下する冬はサハラ砂漠から乾いた北東貿易風ハルマッタンが吹き出し、中北部では5~8か月の間厳しい乾期となる。南部の森林地帯でも全般的に冬に雨が少なく、首都ヤウンデを中心とする南部高原の内陸部では7~8月にも小雨である。平均気温は海岸部25~26℃、北部の低地帯27~28℃以上であるが、内陸の高原では20~24℃で、標高1500メートル以上の高地は冷涼である。

[門村 浩]

生物相

植生は降雨量と乾期の長さに対応して、南から北へ常緑樹林、半落葉樹林(以上熱帯雨林)、湿潤サバナ、乾燥サバナ、ステップへと移行する。多様な環境条件を反映して動物相は豊富である。しかし、南部・西部の森林地帯では、木材伐採域の拡大、人口増に伴う焼畑耕作地の拡大などによって森林が退行したため、ヒヒ、チンパンジー、ゾウなどの野生動物の生息域が狭められている。中部・北部のサバナ・ステップ地帯では、放牧と火入れのため、ゾウやキリンなど大形野生動物の生息域がワザ、カラマロエ、ベヌエなどの国立公園や動物保護区に限られるようになった。

[門村 浩]

地域区分

国土は気候、植生、地形の地域的特徴から、南部森林(海岸地域、南カメルーン高原)、高位高原(アダマワ高原、西部高地)、北カメルーン(ベヌエ平原、マンダラ山地、ディアマレ平原、ロゴンヌ平原・チャド湖盆低地)の三大自然地域に区分され、それぞれさらに括弧(かっこ)内の地域に細分される。これらの諸地域ごとに、農牧林業を中心とした経済活動と生活様式に明瞭(めいりょう)な地域差がみられる。

[門村 浩]

歴史

カメルーンの海岸がヨーロッパに知られるようになったのは、1472年にポルトガル人探検家フェルナン・ド・ポーFerñao do Poが来航してからであるが、内陸のチャド湖周辺では5~16世紀にサオ、マンダラなどの王国が盛衰した。中北部のサバナ地帯には18世紀に西方よりイスラム化牧畜民フルベ(フラニ、プールともいう)がジハド(聖戦)の名の下に侵入して首長国をつくり、1806年には強大なアダマワ王国が建設された。西部高地には17~18世紀にバミレケ人、バムン人が定着して独得の社会組織と文化を発展させた。海岸部では17世紀に南方からドゥアラ人が移住し、来航するヨーロッパ人と商取引を行っていた。これらに対し、南部森林地帯へのバントゥー系諸族の定着は遅く、19世紀初頭には中部のサバナ地帯からフルベ人に押し出されたファン人が、まだ海岸方向に移動を続けていた。カメルーンの植民地化は1884年ドゥアラの首長がドイツの保護領となる協定を結んだことに始まる。第一次世界大戦でドイツが敗れると、国際連盟の委任統治領として、東カメルーンはフランス、西カメルーンはイギリスが分割して統治した(1922~1946)。第二次世界大戦後は国連の信託統治領となったが、他のアフリカ諸国同様、独立運動が盛んになった。東カメルーンは1960年、ナイジェリアの一部であった西カメルーンは1961年に独立して、両者合体して連邦共和国となった。その後東西間の融合が図られ、1972年国名をカメルーン連合共和国、1984年カメルーン共和国と改称した。

[門村 浩]

政治

政体は共和国。1972年憲法公布、1975年、1996年、2008年に改正した。独立直前には多数の政党が乱立したが、独立後はM・アマドゥ・アヒジョの率いるカメルーン民族同盟(UNC)の一党制となり、安定した政権が続いた。1982年11月大統領アヒジョの辞任後、首相のポール・ビアPaul Biya(1933― )が大統領に就任、1983年8月以後はUNC(1985年カメルーン人民民主連合(CPDM)と改称)党首を兼任し、1992年の大統領選では約40%の得票で再選された。この間、1984年4月に前大統領のアヒジョを支持するクーデターが発生したが鎮圧された。1990年、国際的な趨勢(すうせい)と国内からの民主化の要求に従い、反対政党を認め多党制を導入した。1996年の改憲では、大統領の任期を7年(再選禁止)にするとともに、旧英領西カメルーングループの政治の自由化と連邦制への復帰の要求にこたえて上院を設け二院制とすることと、地方州自治権を拡大することが決まったが、後二者は実現していない。したがって、議会は一院制国民議会のままで、その議席は180、議員の任期は5年である。2007年に行われた国会議員選挙では41党1274人が立候補したが、与党のCPDMが153議席を獲得して圧勝し、野党第一党の社会民主前線(SDF)は16議席を得たにすぎない。大統領選挙は、1997年(得票率92.57%)と2004年(70.92%)に行われたが、いずれもビアが圧勝し、6期連続で在任期間が25年を超えている。こうしたビア政権の独裁に対しては、旧英領西カメルーンを中心に根強い不満があり、2008年2月下旬にはガソリン・食糧価格の高騰と、大統領任期を事実上無制限とする改憲案に抗議する大規模な反政府暴動がドゥアラ、ブエア、バメンダなど西部の町と、首都ヤウンデで同時多発した。これに対し、政府は物価引下げ策で応じる一方で、暴動を武力で鎮圧するとともに、内外のメディアの言論・報道の自由を制限する措置で臨んだ。大統領の再選規定の改定と大統領としての行為についての免責特権付与を盛り込んだ改憲案は、同年4月10日に可決され、ビアの2011年以降の再選が可能となった。

 内閣の組織は複雑で、30を超える省庁からなり、大臣職のポストは約50もある。軍事力には、陸軍、海軍、空軍、国家警察隊、大統領護衛隊がある。国際的な批判を浴びている問題に、閣僚・高級官僚から地方の下級公務員に至るまでのさまざまな地位と所掌における賄賂(わいろ)や公的資金・補助金の横領など、汚職の蔓延(まんえん)がある。政府は国家汚職防止監視機関を設ける(2006)などして対策を強化しているが、実効はあがっていない。

[門村 浩]

外交

旧宗主国フランス、イギリスとの関係が深く、フランスとは軍事、文化、経済において各協定を結び、1995年には旧イギリス領の組織であるイギリス連邦の一員となる。他のEU(ヨーロッパ連合)諸国とも緊密な関係を保っているが、非同盟を原則とし、旧東側諸国とも積極的な外交を行ってきた。最近は、アメリカ、中国との関係を深めている。国連には1960年に加盟し、その後多くの国連・国際機関のメンバーとなっている。アフリカ連合の重要メンバーであり、旧フランス領諸国を中心に構成する中部アフリカ関税経済同盟(UDEAC)の中枢をなすなど、アフリカのなかでも多面的外交を展開している。

 隣国ナイジェリアとの間で、石油と漁業資源の豊富なバカシ半島の領有権をめぐって武力衝突が繰り返されていたが、国際司法裁判所の裁定と国連の仲介により、2008年8月同半島のカメルーンへの帰属が確定した。

[門村 浩]

経済・産業

独立後1980年代なかばまでは、農産物や木材など一次産品輸出の順調な伸びと、1970年代後半以来の石油部門の急拡大を背景に急速な経済成長を続けたが、1986年にコーヒー、カカオ、石油など主要輸出産品の国際価格が暴落して輸出高が3分の1に落ち込み、以来著しい経済危機が続いた。1990~1993年にIMF(国際通貨基金)・世界銀行の支援により、企業投資の促進、農業生産の効率化などの経済改革を試みたが成功せず、1992年の大統領選挙後の政情悪化を契機に構造調整が要求された。1994年1月にCFAフラン通貨を50%切下げ、それに伴う構造調整の推進により輸出の落ち込みをくいとめることができた。2005年には、収入源の石油偏重からの脱却と多様化、貿易自由化の推進などを条件に、累積対外負債のうち2億5500万ドルがIMFにより帳消しにされ、回復に転じた。最近のGDP(国内総生産)の実質伸び率は4%、国民1人当りGDPは1325ドル(2008)で、その内訳は農業20.6%、工業24.4%、サービス業41.3%(2007推計)である。

[門村 浩]

資源

鉱産資源に恵まれず、少量の金と錫(すず)を産出するにすぎない。南部森林地帯東部の鉄鉱石鉱床とアダマワ高原のボーキサイト鉱床の開発が有望視されているが、交通が不便なため採掘は進んでいない。1970年代後半よりリンベ(旧ビクトリア)北西沖の海底で石油が採掘されるようになり、1978年から産油国となったが、産油量は最近減退してきた。新たな油田開発のための探査がドゥアラからクリビに至る沿岸海域で続けられている。包蔵水力は豊富で、滝の多いサナガ川水系はダム建設に適しており、下流のエデア・ダムでは水力発電所が稼働し、そのほか本・支流の数か所に発電用ないし調整用のダムがある。北部ではベヌエ川のラグド(ガルア南方)に発電用ダムがある。

[門村 浩]

農業

全人口の約70%が農業人口であるが、可耕地は国土面積の13%、常畑(じょうばた)は2%を占めるにすぎない。1農家平均2ヘクタール未満の小農経営により、多種目の自給作物とともに、主要輸出産品であるカカオ、コーヒー、綿などが栽培されていることに特徴がある。大資本によるプランテーションは、湿潤肥沃(ひよく)な西部高地および海岸部と内陸の森林地帯縁辺部で、開発公社やヨーロッパ系会社により行われている。カメルーン山周辺にはカメルーン開発公社(CDC)の大プランテーションがあり、アブラヤシ、ゴム、バナナなどを栽培している。そのほか、気候や土壌の条件に対応して、コーヒー、紅茶、サトウキビなど多様な作物がつくられている。北部のロゴンヌ平原と西部高地では灌漑(かんがい)による大規模水田開発が行われた。主食用自給作物の種類は、北部のモロコシ、トウジンビエ、ラッカセイ、アダマワ高原とその周辺部のキャッサバ(イモの一種)、モロコシ、トウモロコシ、西部高地のトウモロコシ、穀類、プランテン・バナナ(料理用バナナ)、南部森林地帯のプランテン・バナナ、キャッサバ、ラッカセイまたはマカボ(イモの一種)と、自然条件と生活形態により多彩である。

[門村 浩]

林業

南部の熱帯雨林は豊富な森林資源であり、マホガニーやチーク、エボニーに類似の十数種の有用樹(アカジュ、シポ、イロコ、アゾベなど)がおもに択伐方式により伐採されてきた。伐採量は1990年代初めに約1460万立方メートルに達した。大規模な森林開発を進める一方で、ITTO(国際熱帯木材貿易機構)、COMIFAC(中部アフリカ森林委員会)の中心的メンバーとして、森林・動物保護区を設定して自然保護にも力を入れ、環境と調和した森林開発を目ざしている。

[門村 浩]

牧畜・水産

国土の約3分の2を占めるサバナ・ステップ地帯の主産業は牧畜で、アダマワ高原、西部高地と北部の低地帯がその中心をなし、560万頭のウシと700万頭のヤギ、ヒツジ(2007推計)が飼育されている。漁業国でもあり、沿岸漁業、各河川とチャド湖など湖沼の内水面漁業が行われ、年漁獲高は16万8000トン内外(2007推計)である。沿岸海域では、外国籍トロール船による違法操業を含む乱獲のため、資源量の減少が加速化している。

[門村 浩]

工業

石油生産・精製、食品加工、軽消費財、紡績、木材加工がおもな工業である。エデアのダム地点にはアフリカ第二のアルミナ関連工場(原料のボーキサイトはギニアから輸入)がある。国内農林業産品の加工・製造業は、海岸・南西部のヤシ油、ゴム、コーヒー、カカオ、紅茶、南部森林地帯の製材、製紙、カカオ、砂糖、北部サバナ地帯の製糸、なめし革などと、地域ごとに特徴ある立地を示す。

[門村 浩]

貿易・金融・財政

主要な輸出産品は原油・石油製品、コーヒー、カカオとその加工品、木材、アルミ地金、トタン板、綿花である。2008年の総輸出高は43億5000万ドルで、内訳は燃料・鉱産物(65.2%)、農産物(26.2%)、工業製品(3%)である。おもな輸出相手国はフランスをはじめとするEU諸国(約74%)で、アメリカ、中国がこれに次ぐ。総輸入高は43億6000万ドルで、内訳は機械・電子製品などの工業製品(49%)、農産物(21.5%)である。輸入相手国はEU諸国(35%)、ナイジェリア(23.3%)が主体で、中国(6.3%)、赤道ギニア(3.5%)、アメリカ(2.9%)が続く。貿易収支は最近、ほぼバランスがとれている。通貨は中部アフリカ関税経済同盟の一員としてCFAフランを用いている。2009年の財政収支は歳入38億3800万ドルに対して歳出37億8100ドルである。2010年の国家予算は約48億7000万ドルで、民政の安定化と貧困解消に重点を置いた予算編成になっている。2005年にGDPの37%を占めていた累積対外負債は、IMFの削減策の実施により、2006年以降GDP比5~6%まで減少した。ODA(政府開発援助)受入れ額は、2007年が13億7000万ドル、世界的金融不況の影響を受けた2008年は5億9000ドルである。

[門村 浩]

交通・通信

海空の国際港ドゥアラを起点に首都ヤウンデを経てウガンデレまで(935キロメートル)と、西部のクンバまで(150キロメートル)鉄道が通じている。道路は総延長約6万5000キロメートルに及ぶが、舗装区間はまだ約10%で、人口の希薄な南東部の森林地帯と中央部のサバナ地帯では道路網を欠く。ドゥアラ、ヤウンデ、ガルワにヨーロッパとアフリカ諸国から定期便が飛来する国際空港がある。国内の主要都市間には定期航路が開設されていたが、2008年国営カメルーン航空が廃止されて路線が大幅に縮小された。主要路線に限って民間航空が運行を始めたが、定期運行にはほど遠い状態にある。ギニア湾岸のドゥアラ、ボナベリ、クリビ、ティコと北部のベヌエ川に沿うガルワに国際港がある。電話は携帯電話が急速に普及し、インターネットの普及率は国民の3.8%(2009推計)にすぎないが、おもな町にはたいていインターネット・カフェがある。

[門村 浩]

社会

住民・言語

人種、民族構成はきわめて多彩で、南部森林地帯のバカとよばれる狩猟採集民(ネグリロ、いわゆるピグミー)、森林およびサバナ地帯のバントゥー系黒人、西部高地のバントイド(セミバントゥー)系黒人、北部サバナ地帯のスーダン系黒人、セム・ハム系人と変化に富み、民族グループは250を数える。各グループはそれぞれ独自の言語をもつが、広域語として北部のフルフルデ(フルベ)語、南部のバッサ語、エウォンド語があり、海岸地帯ではピジン英語が広く通用する。公用語は、旧イギリス、フランス領を統合して独立した経緯から、英語、フランス語の2か国語としている。

[門村 浩]

人口

2009年年央推計で総人口は1887万9301、2008~2009年1年間の人口増加率は2.19%で、14歳以下の若年層が40%以上を占める。人口密度は全国平均1平方キロメートル当り41人であるが、地域差が大きく、南東部の森林と中央部のサバナには10人以下の希薄地帯がある反面、西部高地とマンダラ山地北部には500人以上の高密度地域がみられる。乳幼児死亡率は7.87%、平均寿命は男性51.55歳、女性53.68歳(2009推計)である。農村から都市へ向かう人口移動が続き、都市人口率は全人口の53.69%(2009推計)に達している。ヤウンデとドゥアラへの人口集中がとくに著しく、住宅や教育施設の不足、失業、ゴミ処理などの多くの都市問題が生じている。

[門村 浩]

教育

独立以来、学校教育の普及に力が注がれてきた。2003~2008年の小学校平均(純)就学率は84%である。牧畜民の多い北部では就学率が低いが、15歳以上の識字率は全国平均で68%(2009推計)である。大学は1962年に国立の総合大学ヤウンデ大学の前身カメルーン連邦大学1校で出発し、1982年には大学の地方分散をうたって、チャン(西部州)、ドゥアラ(海岸州)、ブエア(南西部州)、ウガンデレ(北部州)にそれぞれの地方の産業活動に対応した国立の単科大学が開設された。1993年には高等教育研究機関の改革と地方分散を掲げて、ヤウンデ大学を分割し、各地方単科大学を総合大学に格上げするとともに、私立大学の設置を推進することとした。この方針に従い、それまで皆無であった私立大学が相次いで開校したばかりでなく、2008年には最北部州のマルワに国立マルワ大学が新設された。おもな私立大学にバメンダ科学技術大学(バメンダ)、高原大学(バンガンテ、医薬・理工)、中部アフリカ・カトリック大学(神学)、中部アフリカ・プロテスタント大学(神学・社会科学)、ヤウンデ南ンディ・サンバ大学(経営系)(以上ヤウンデ)がある。2006年には全大学の合計在籍者数が10万8000人を超え、毎年約5万人、しかもその95%以上が国立大学への入学を希望するので、国立大学では教室などインフラと教員の大幅な不足が慢性化している。欧米や日本の大学、大学院への留学者も数多い。国内での就職の機会が少ないため頭脳流出が相次いでいる。

[門村 浩]

宗教

北部でイスラム教が広く浸透しているのに対し、南部、西部では植民地時代にキリスト教(カトリック、プロテスタント)の伝道が進められた影響で、キリスト教徒が多い。アニミズムなど伝統宗教も広く残り、多様な文化をもたらす要因となっている。

[門村 浩]

文化

多様な言語、生活習慣、宗教をもつ多数の民族グループが一国を形成しているため、伝統文化はきわめて多彩である。これに旧宗主国イギリス、フランスの言語、文化が重合して多重構造をなす。伝統工芸では西部高地の仮面(マスク)や木彫りなどが有名で、ダンスと祭りには民族グループごとに独得のものが伝えられている。スポーツではサッカーが盛んで、国際試合には国中が熱狂する。アフリカ・ネイションズカップでは4回優勝し、オリンピックでは2000年のシドニー大会で、男子チームが優勝している。

[門村 浩]

自然保護・観光

熱帯雨林、サバナ、ステップの各地帯にそれぞれ特徴ある自然景観と動物相に恵まれた国立公園があわせて七つ設けられている。北部ロゴンヌ平原の季節的氾濫原(はんらんげん)にあるワザ国立公園(ラムサール条約登録湿地)は多種類の大形野生動物と鳥類のすみかとして知られ、その南西方マンダラ山地カプシキ(ルムスキともいう)の月面を思わせる岩塔景観などとともにカメルーン有数の観光地帯をなしている。南西部熱帯雨林地帯を占めるコラップは、コア地区を環境保護活動・研究に限って開放し、周辺に緩衝地帯を設けてアグロフォレストリー(農作物と果樹などの樹木栽培とを組み合わせた複合的土地利用)の推進などにより地域住民の経済発展を図る、という新たな管理戦略をとっていることで国際的に注目されている。南部熱帯雨林地帯中央部にあり、ゴリラやゾウなど多種類の野生動物が生息するジャー動物保護区は、ユネスコの世界自然遺産に登録されてコラップと同じような方式で管理され、コラップとともに世界的レベルのエコツーリズムの対象地になっている。近年、カメルーンを含むコンゴ盆地の熱帯雨林では、絶滅が危惧(きぐ)されるゴリラやチンパンジー、ゾウなど野生動物の違法捕獲とその肉、ブッシュミートの違法取引の急増が生物多様性に対する最大の脅威となっている。この問題に歯止めをかけるため、カメルーン政府は違法取引を制限するための具体的な法的枠組みづくりに着手している。

[門村 浩]

日本との関係

両国はヤウンデと東京に相互に大使館を開設し、貿易や開発援助のみでなく、学術、文化などの分野でも活発な交流が行われている。カメルーンの対日輸出は、木材、綿花、コーヒー豆などを中心に3億2800万円、輸入は自動車、機械機器などで42億7600万円(2007)である。最近の日本の経済協力では、小学校の建設など初等教育分野への貢献をはじめ、安全な水の供給や感染症対策、農業・水産・農村開発など、国民生活の改善と福祉向上に直結する分野に重点を置いた支援が続けられている。2006年(平成18)から青年海外協力隊が派遣され、地方の現場での実質的な支援活動が行われるようになった。同年には小学校建設への支援を記念する友好記念切手が発行されている。2002年(平成14)のサッカー・ワールドカップ日韓大会時にカメルーン代表のキャンプ地となった中津江村(現、日田市)と南部州森林地帯のメヨメサラ市(ビヤ大統領出身地)とが2003年友好親善協定を結んだ。

[門村 浩]


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改訂新版 世界大百科事典 「カメルーン」の意味・わかりやすい解説

カメルーン
Cameroun

基本情報
正式名称=カメルーン共和国République du Cameroun 
面積=47万5650km2 
人口(2010)=1941万人 
首都=ヤウンデYaoundé(日本との時差=-8時間) 
主要言語=フランス語,英語,多くの民族語 
通貨=CFA(中部アフリカ金融協力体)フランFranc de la Coopération Financière en Afrique Centrale

中部アフリカ,ギニア湾に面した共和国。15世紀にヨーロッパ人として最初に渡来したポルトガル人が,近海でとれるエビ(ポルトガル語でカマロンイシュ)にちなんで,この地方を呼びならわしたのが国名の由来といわれている。
執筆者:

アフリカ大陸のさまざまな特質を一つの国の中にもつので,〈ミニ・アフリカ〉と呼ばれる。すなわちアフリカ大陸を構成する基盤岩類,湿潤熱帯下の円頂丘群,サバンナの島状丘とペディメント斜面といった地形のみならず,南の熱帯雨林からサバンナ,チャド湖へ至るステップのサヘル帯まで,乾湿による植生や気候の帯状分布が顕著な自然景観が展開する。

 詳細にみれば,ギニア湾岸の南部は岩石海岸,その北はカメルーン山の麓を除いて,3000mmを超える年降水量に支えられてマングローブ海岸となる。海岸低地は白亜紀以降の堆積岩からなり,背後には波状の小起伏凸型斜面群が標高400m付近まで続く。さらに中・南部一帯は標高630~850mの高原で,南の雨林地域にも北のサバンナ化した地域にもやはり赤色に深層風化した波状の凸型斜面群が分布する。北緯6~8°で国土を南北に二分するアダマワ高原が標高900~1100mと1200m以上の地形面をもって東西に走る。ここは北流するベヌエ川,南流するサナガ川など主要河川の源流部をなし,〈水の宮廷château d'eau〉と呼ばれる。以上の各高原はすべてゴンドワナ大陸を構成する変成岩類,花コウ岩類からなる。アダマワ高原の北側の低地帯は,ベヌエ川流域および国境線の形状から〈アヒルの嘴〉と呼ばれる地域まで,島状丘と緩斜面のペディプレーンがステップ景観として広がる。西のナイジェリア側には花コウ岩類を主体とし,標高900mほどのマンダラ山地がある。その一角のカプシキ周辺には第三紀末の粗面岩からなる岩塔群があり,奇勝をなす。この山地の北東部には8000年前の湿潤期に湖面上昇した巨大なチャド湖の浜堤が約150kmにわたり残っている。さらにこの北は,雨季に冠水しチャド湖へつづくヤエレ低地帯である。

 西カメルーンは,ギニア湾内のビオコ島(フェルナンド・ポー島)などから北東~南西方向に走る構造線沿いにカメルーン山,マネングーバ山,バンブート山などの火山列が続く。これらの火山群とともに北西部には標高1400mほどのバミレケ高原があり,2000mm前後の年降水量があるが,人為による林地の後退などで裸地化が著しい。現在,北緯4°あたりまで,1500mm以上の年降水量に支えられて熱帯雨林となっているが,約2万年前ころの最終氷期にはサバンナ化し,森林がほぼ消滅したことが最近の研究で明らかになりつつある。また現在のサバンナは人為的な森林の伐採と火入れなどにより林地が後退したものが多いようで,人々の生活様式や居住域の変動と自然環境の変化との相互関係があらためて問題となっている。
執筆者:

アフリカの国々のなかで最も多様な住民構成を示し,およそ200の部族が居住している。言語系統も複雑であるが,だいたい三つの区分に大別できる。(1)アフリカ大陸中部・南部に大きな分布を示すバントゥー語族の分布の北限を示す線が,この国の中央部に引かれる(バントゥー諸語)。バントゥー語族の起源は一説にはカメルーン地域に求められるが,今日,バントゥー語系部族はカメルーン南部の森林地帯に住む。おもな部族は首都ヤウンデに多数居住するエウォンド族や,そのほかブールー族,バネ族,エトン族などファン族と総称されるグループである。ファンはヨーロッパ人の到来時,鉄の技術で驚嘆させた。(2)北西部のカメルーン高地には,バントゥー語に近縁の言語を話す小規模の部族が点在しており,それぞれ小さな王国を形成する首長制社会を維持している。バミレケ族は人口約40万を超えるが,そのほかバムン族,ティカル族などが居住する。これらの諸部族は,仮面やブロンズ彫刻,ビーズ細工など,華麗な物質文化を誇っている。(3)中央部のアダマワ高原から以北の北カメルーンには,スーダン語族に属するブーム族,ドゥル族,バヤ族などの土着の部族に加えて,西方や北方からフルベ(フラニ)族,ハウサ族,ボルヌー族などが来住している。アヒジョ初代大統領の出身部族でもあるフルベは,19世紀に入って現在のナイジェリア北部地方に興ったウスマン・ダン・フォディオのイスラム改革運動の影響で,ジハード(聖戦)に基づく征服国家をアダマワ高原に築き上げた。北カメルーンにはさらにアラブも来住している。またビンガなどピグミー系の人々が,南部の森林地帯に点在して狩猟生活を行っている。なお,北隣のチャド共和国の内紛の影響で,北カメルーンには多数の難民が流入してきており,国内問題となっている。

 カメルーンの公用語は,植民地体制のいきさつでフランス語と英語となっている。北部ではフルフルデ語(フルベ語),アラビア語,南部ではエウォンド語,そして西部ではピジン・イングリッシュが普及している。
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北部のチャド湖に接する地域がかつてカネム・ボルヌー帝国の版図に組み込まれていたことが知られている。しかしそのほかは,15世紀末にポルトガル人が進出してやがて沿岸地域を中心に奴隷貿易その他の通商活動に従事し始めたこと,次いでオランダ,イギリスの進出が見られたが,いずれも沿岸部での通商活動や布教活動にとどまっていたことなどがわかっているにすぎない。ヨーロッパ列強のアフリカ分割が本格化し始めた1884年,サハラ縦断で知られるドイツの探検家ナハティガルGustav Nachtigal(1834-85)が政府の命でこの地を訪れ,諸部族の首長と保護条約を結んだ結果,カメルーンはドイツの保護領となった。もっともドイツが内陸部に進出してこれを完全に支配下に組み込んだのは1911年である。開発はドイツ移民のプランテーション(ゴム,アブラヤシ,カカオ,バナナなど)を中心に進められたが,この間,鉄道,道路などの建設その他の面で北西カメルーン会社,南カメルーン会社といった特許会社も大きな役割を果たした。第1次世界大戦が始まると,カメルーンは隣接するイギリス領,フランス領から攻撃を受け,1年半の抵抗ののちにドイツ軍が敗退して両国の占領下に入った。両国は1916年の協定に従い,ナイジェリアに隣接する全土の1/5の地域(西カメルーン)をイギリスが,残る4/5の地域(東カメルーン)をフランスが統治することとした。ベルサイユ条約で取り決められた一般原則にしたがって,22年に西カメルーンはイギリスの,東カメルーンはフランスの委任統治領となった。イギリスは西カメルーンをナイジェリア保護領に組み入れて統治し,フランスは東カメルーンをフランス領赤道アフリカとは別個の単位として位置づけ,本国の植民地問題担当相に直接責任を負う弁務官の統治下においた。このとき以降,フランスは積極的な開発政策を導入し,その結果,カカオ,アブラヤシ,木材などの生産量は急上昇し,道路網や港湾の整備,拡張も進んだが,そのかげには強制労働政策の強化があった。

 一般に両大戦間期はアフリカにおけるナショナリズムの萌芽期といわれるが,カメルーンの場合,37年にパリで組織されたカメルーン同盟が,カメルーンをB式委任統治領から,比較的広範な自治権を許されたA式委任統治領に昇格させること,カメルーンを将来ドイツに返還しないこと,などを国際連盟に請願するといった活動を見せた程度であった。しかし第2次世界大戦が終わると,他の大部分のアフリカ植民地と同様,カメルーンにも新しい時代が訪れた。国際連合創設にともない46年にカメルーンはその信託統治領へと地位が変更され,東カメルーンは同年発足したフランス第四共和政のもとで本国の国民議会へ代表を,政府へ閣僚を送ることができるようになったばかりでなく,内部的には地域議会も開設されることとなった。さらにカメルーン人民同盟(UPC)をはじめ多くの政党も組織された。イギリスの信託統治下にあった西カメルーンでもカメルーン民族民主党(KNDP)が創設され,ナショナリズムはここに開花期を迎えた。ナショナリズムの基本的な目標は独立と東西カメルーンの再統合であった。その後,東カメルーンは57年に自治を認められ,60年1月にカメルーン共和国として独立を達成した。西カメルーンは北部と南部に分かれて人民投票を実施した結果,北部はナイジェリアと合併することになり,南部だけが61年10月に独立すると同時に,カメルーン共和国とともにカメルーン連邦共和国を結成した。

 この連邦は,初代大統領に東カメルーンのアヒジョAhmadou Ahidjo(1924-89)が,副大統領に西カメルーンのJ.N.フォンチャが選ばれたほか,国民議会の議席配分が東の40に対して西の10といったように,面積,人口の違いを反映して東部優位であった。さらに連邦はその後しだいに形骸化の度を強め,連邦政府が地方に対して強い権限を行使しうる方向で制度改革が進められ,また66年には既存の諸政党を糾合した新政党カメルーン民族同盟(UNC)の東西にまたがる一党体制が成立した。この間,1955年に武装蜂起を行ったため非合法化されたUPCの反政府ゲリラ闘争もしだいに弱まり,アヒジョ政権は揺るぎないものとなっていった。その結果72年に連邦制は廃止され,カメルーンは中央集権的な単一共和国となった。これは権力配分の面で中央が強化され,地方が弱体化されたという問題とあわせて,多数者の東カメルーンが少数者の西カメルーンを同化吸収していくための制度的再編成という問題をも含む,重大な改革であった。

連邦共和国から単一共和国への制度改革にともなって国名もカメルーン連合共和国へと変更されたが,このとき公布された憲法では,大統領制,一院制の国民議会などについては大きな変化はみられなかった。ただし,それまで東西両カメルーンにそれぞれ存在した自治政府,議会,および西カメルーンから選出されていた副大統領は,制度上廃止された。アヒジョ政権はUNCの一党体制を基盤としてますます強固なものとなり,アヒジョ自身は75年に大統領に四選された。彼は対外政策面でフランスと緊密な政治的・経済的関係を保つ一方,ベトナムやカンボジアの共産主義政権と外交関係を樹立するなど,東西関係のなかでたくみにバランスをとろうとする姿勢を示した。しかし内政面ではしだいに強権政治に対する不満が高まり,また連邦制への復帰を求める反政府運動が主として西カメルーン人の間に起こり,79年には軍部クーデタ未遂事件が発生した。こうした状況のなかでアヒジョは80年に大統領に五選されたが,82年11月突如辞任を表明した。後任には,憲法の規定により彼の第一の側近P.ビヤ首相が就任した。ビヤ大統領は,自身がキリスト教徒であることもあって,アヒジョ政権時代に政治の中枢部への進出が目だったイスラム勢力をしだいに排除し,南部の非イスラム勢力をもって周辺を固めたため,北部イスラム系住民などの激しい反発を引き起こし,非合法組織UPCなどの反政府活動が高まった。また84年4月には親衛隊の一部によるクーデタ事件が起こり,85年12月にはUPCなどによるビヤ政権打倒計画があったとして多数の逮捕者が出た。これより前,イスラム勢力との結びつきの強いアヒジョ前大統領は83年8月のクーデタ計画に関係したとして84年2月の欠席裁判で死刑を宣告されたが,その後終身刑に減刑された。ビヤ自身は84年1月の大統領選挙の唯一の候補者として臨み,99.98%の得票をもって再選されたのを契機に権力の集中化を図り,同時に国名をカメルーン共和国に変更した。さらに唯一の合法政党UNCは,85年3月にカメルーン人民民主連合(RDPC)と改称され,ビヤが5年の任期で書記長に選出された。その後,人権抑圧が続けられているとの国際的な批判を受けて,86年以降相当数の政治犯の釈放,帰国許可などの措置がとられ,また88年の国民議会選挙でもRDPCから議席数をこえる数の候補者を立てて有権者の選択の余地を残すなど,若干の〈民主化〉政策を導入した。90年12月に複数政党制への移行を議会が決議し,92年3月の選挙で与党のRDRCが第一党となった。同年10月の大統領選挙では現職のビヤが四選された。連邦制の廃止以来,人口の20%を占める英語系住民の不満が高まり,英語系2州の分離の動きも強まっている。

大部分のアフリカ諸国と同様に農業国で,主要産品はカカオ,コーヒー,バナナ,トウモロコシ,綿花などであり,木材も生産される。鉱産物はボーキサイト,石油などであるが,生産量は多くはない。貿易相手国ではフランスが輸出入とも第1位であり,オランダ,西ドイツ,イタリア,アメリカ,日本がそれに続く。アフリカ圏内では中部アフリカ関税経済同盟(UDEAC)や中部アフリカ諸国銀行(BEAC)に参加し,圏外ではACP(アフリカ・カリブ・太平洋)諸国の一員として,ヨーロッパ連合(EU)に連合する。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「カメルーン」の意味・わかりやすい解説

カメルーン
Cameroun

正式名称 カメルーン共和国 République du Cameroun。
面積 46万6050km2
人口 2550万1000(2021推計)。
首都 ヤウンデ

アフリカ大陸中西部,大西洋のギニア湾に臨む国。西はナイジェリア,東はチャド,中央アフリカ共和国,南はコンゴ共和国,ガボン,赤道ギニアと国境を接し,北端はチャド湖の一部を含む。南部は高原地帯,中部には分水界をなすアダマウア山地があり,北部はチャド盆地に下る。西部国境地帯には火山帯が走り,南端はカメルーン山 (4070m) に達する。気候は高度によって異なり,年平均気温 21℃のところから 28℃のところまで多様。年降水量は南部で 4000~6400mm,北部は 1200mm程度。南部は熱帯雨林に覆われ,北へいくに従い半落葉樹林,さらに高木サバナとなり,北端部には半砂漠地域もある。動植物相とも西アフリカのものすべてがみられる。旧石器時代から人類が居住,現存する人種ではムブティ族 (いわゆるピグミー) が最古参。 15世紀後半にポルトガルの航海者が到来,ウーリ川にたくさんのエビがいたことから「エビ Camarõesの多い川」と名づけたのが国名の由来。以後ポルトガル人による奴隷貿易が行なわれていたが,19世紀初期にイギリスが進出,次いでイギリス,フランス,ドイツが争奪を繰り返した。 1884年ドイツの植民地となったが,第1次世界大戦中にイギリスとフランスの連合軍が占領,フランスは現国土の 90%を,イギリスは現ナイジェリア国境西側の旧国境に沿った帯状の地域を確保,1922年それぞれの国際連盟委任統治領,1946年国連信託統治領となり別々の道を歩んだ。フランス領カメルーンは 1960年1月カメルーン共和国として独立。イギリス領カメルーンは 1961年2月の住民投票により,中・北部地方はナイジェリアへ,南部地方はカメルーン共和国に統合を決定し,同年 10月カメルーン連邦共和国が成立。 1972年5月連邦制を廃止し,連合共和国となり,さらに 1984年には共和国に改称した。古来,人種の交流が激しく,その種類と言語の複雑さはアフリカ随一。北部はスーダン系とアラブ系で,フラニ族も含め牧畜を営み,南部はバンツー系の農耕民で,北部のイスラム教徒に対し,キリスト教徒が多い。教育水準はアフリカでは最も高い部類に属する。農業国で,世界有数のカカオ産出国。ほかにコーヒー,綿花,バナナ,ゴム,アルミニウム,石油を輸出。ボーキサイト,鉄鉱石などの地下資源もあるが未開発。公用語はフランス語と英語。

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百科事典マイペディア 「カメルーン」の意味・わかりやすい解説

カメルーン

◎正式名称−カメルーン共和国Republic of Cameroon。◎面積−47万5650km2。◎人口−1941万人(2010)。◎首都−ヤウンデ(182万人,2005)。◎住民−ファン人,バミレケ人,フルベ(フラニ)人など約200の民族。◎宗教−キリスト教35%,イスラム20%,土着宗教。◎言語−英語,フランス語(以上公用語)のほか,北部ではフルフルデ(フルベ)語,アラビア語,南部ではエウォンド語が普及。◎通貨−CFA(中部アフリカ金融協力体)フラン。◎元首−大統領,ビヤPaul Biya(1933年生れ,1982年11月就任,2011年10月7選,任期7年)。◎首相−ヤンPhilemon Yang(大統領が任命,2009年6月発足)。◎憲法−1972年6月発効,1984年1月改正(国名改称など)。◎国会−一院制(定員180,任期5年)。2007年7月下院選挙結果,カメルーン人民民主連合153,社会民主戦線16,カメルーン国民民主連合4など。◎GDP−234億ドル(2008)。◎1人当りGNP−1080ドル(2006)。◎農林・漁業就業者比率−56.0%(2003)。◎平均寿命−男53.9歳,女56.2歳(2013)。◎乳児死亡率−84‰(2010)。◎識字率−76%(2008)。    *    *アフリカ大陸西岸,ギニア湾に面する共和国。南部は熱帯雨林地帯で,チャド湖のつくる盆地に続く北部はサバンナ地帯。中央をサナガ川が貫流。最高点はカメルーン山。南部にバントゥー系の民族,北部にスーダン語系の民族が住む。農業,畜産業が主で,バナナ,コーヒー,モロコシ類,タロイモなどを産する。ギニア湾岸の原油をはじめ,金,ボーキサイトなどの鉱産にも恵まれ,アルミニウム製錬が行われる。 15世紀末ポルトガル人が来航。18世紀末英国勢力下にはいったが,19世紀後半ドイツが進出した。第1次大戦時に英国,フランスが占領し,戦後,東カメルーンをフランスが,西カメルーンを英国が統治することになった。前者が1960年カメルーン共和国として独立,1961年英領カメルーンの南部(北部はナイジェリアへ編入)と合体して連邦共和国を形成した。1972年連邦制を廃止。1990年複数政党制が認められ,1992年に初の複数政党制による議会選挙が実施された。1999年南カメルーン国民会議が,英語系地域2州の分離・独立を宣言した(2000年4月,初代大統領アロブウェデを任命)。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「カメルーン」の解説

カメルーン
Cameroun

ギニア湾の湾入部に位置する共和国。およそ200もの諸民族が住み,自然環境的にもアフリカ大陸の諸要素を併せ持ち多様性に富む。15世紀末,ポルトガル人が進出,1884年ドイツ保護領になる。第一次世界大戦でのドイツの敗退により,保護領はイギリス,フランスの分割占領下に入る。両国は1916年の協定により,ナイジェリアに隣接する地域(西カメルーン)をイギリスが,残る地域(東カメルーン全土の5分の4に相当)をフランスが統治することになった。46年,国際連合の信託統治領,その後に民族運動が先鋭化し,60年1月に独立した。

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旺文社世界史事典 三訂版 「カメルーン」の解説

カメルーン
Cameroon

ギニア湾に面する,西アフリカの共和国。首都ヤウンデ
アメリカへの黒人奴隷の給源地にされ,1884年ドイツ領となった。第一次世界大戦後,国際連盟委任統治領として西部をイギリス,東部をフランスが分割統治し,第二次世界大戦後,信託統治領として両国に引きつがれ,1960年フランス領がまず独立した。翌年イギリス領が人民投票で編入(一部はナイジェリアに)され,連邦共和国となる。その後,1972年に連合共和国,84年には共和国に改称された。石油産出地域をめぐってナイジェリアと対立している。

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