カンプハウゼン(読み)かんぷはうぜん(英語表記)Ludolf Camphausen

日本大百科全書(ニッポニカ) 「カンプハウゼン」の意味・わかりやすい解説

カンプハウゼン
かんぷはうぜん
Ludolf Camphausen
(1803―1890)

プロイセン実業家政治家。1841年にライン汽船会社を創設、1839~1847年ケルン商業会議所会頭を歴任した。また1843年以来ライン州議会議員となり、1847年プロイセン連合州議会で自由主義の領袖(りょうしゅう)として政府批判の論陣を張った。1848年、三月革命勃発(ぼっぱつ)直後プロイセン首相となり、立憲政体への漸進的移行に努力したが道なかばで辞職。同年7月以降フランクフルトの臨時中央政府のもとでプロイセン全権として、プロイセン国王ドイツ皇帝への推挙と小ドイツ的統一を提唱した。1849~1851年にはプロイセン上院議員。1871年のドイツ統一以後は政界を引退した。

末川 清]

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改訂新版 世界大百科事典 「カンプハウゼン」の意味・わかりやすい解説

カンプハウゼン
Gottfried Ludolf Camphausen
生没年:1803-90

1848年三月革命前のドイツにおける,自由主義的ブルジョアジー代表者。ケルンの銀行家。1843年からライン州議会,47年にはプロイセン連合州議会議員となり,革命後,プロイセン〈三月内閣〉の首相(3~6月)。しかしこの内閣は,国王ら旧勢力との妥協に終始し,革命の〈挫折〉への道を開くこととなった。革命後は政治から退き,実業家,航海天文学研究家として生きた。
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山川 世界史小辞典 改訂新版 「カンプハウゼン」の解説

カンプハウゼン
Gottfried Rudolf Camphausen

1803~90

ドイツの政治家。ライン州会議員,連合州議会議員として自由派を率い,三月革命の際一時プロイセン首相となった。ついでフランクフルトの臨時中央政府にプロイセン全権として派遣され,小ドイツ主義をとったが,フランクフルトとベルリン関係をうまく調整できなかった。

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百科事典マイペディア 「カンプハウゼン」の意味・わかりやすい解説

カンプハウゼン

プロイセンの政治家。自由主義者で三月革命に際し短期間プロイセン首相。次いでフランクフルト臨時中央政府にプロイセン代表として派遣されたが,フランクフルトとベルリンの関係を調整できず,国王にドイツ帝冠を受理させえなかった。→フランクフルト国民議会

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「カンプハウゼン」の意味・わかりやすい解説

カンプハウゼン
Camphausen, Otto von

[生]1812.10.21. ヒュンスホーフェン
[没]1896.5.18. ベルリン
ドイツの政治家。 L.カンプハウゼンの弟。穏健自由主義者としてプロシアの政界で活躍。 1869年蔵相,73年には副首相をも兼ね,財政の改善に貢献したが,自由貿易の主張などで首相ビスマルクと対立,78年に辞職した。

カンプハウゼン
Camphausen, Ludolf

[生]1803.1.10. ヒュンスホーフェン
[没]1890.12.3. ケルン
ドイツの政治家。自由主義的な商業・金融資本家として,プロシアの政界に進出。 1848年の三月革命とともにプロシア首相に任命された。

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367日誕生日大事典 「カンプハウゼン」の解説

カンプハウゼン

生年月日:1812年10月21日
ドイツの政治家
1896年没

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